第1話 千七百作が消えた朝
第1話 千七百作が消えた朝
六月の朝、三枝千景は六畳の和室に置いたパソコンの前で、冷めた麦茶を飲んでいた。灰色のTシャツに紺色の綿パンをはき、白髪は後ろで緩く結んでいる。窓際には昨日取り込むのを忘れた靴下が二足下がり、その下では五十円に値下げされていた赤いペチュニアが、湿った土の匂いを立てていた。
画面には、見慣れない文章が表示されていた。利用規約への違反が確認されたため、アカウントと掲載作品を削除したという通知だった。千景は文章を読み上げソフトに読ませたが、機械の声は「掲載作品を」のところで止まった。再生ボタンを押し直しても、同じ場所で止まった。
「そこから先を読んでちょうだい。肝心なところで黙らないでよ」
千景はマウスを握り直し、作品管理の画面を開いた。昨日まで千七百近い題名が並んでいた場所には、何も残っていなかった。介護をする妻の話も、婚約者へ帳簿を突きつける令嬢の話も、七十二歳の庭師がゲームの中で家を建てる話も消えていた。検索欄へ覚えている題名を入れても、該当する作品はありませんと表示された。
押し入れには印刷した原稿があるはずだった。千景は座布団や冬用の毛布を引っ張り出し、菓子箱へ入れた紙の束を探した。しかし残っていたのは十七作品だけで、表紙のないものや途中で終わっているものもあった。紙の間から、一昨年の電気料金の請求書と、使いかけの湿布が出てきた。
「千七百も書いたのに、十七しかない。題名さえ思い出せないものを、どうやって取り戻せばいいのよ」
昼になっても、千景はパソコンの前を離れなかった。朝に作った豆腐の味噌汁には薄い膜が張り、焼いたアジの開きは皿の上で硬くなっている。腹は鳴ったが、箸を持つと画面が気になり、もう一度検索を始めた。保存していなかった自分が悪いと考えた後、保存方法を何度読んでも覚えられなかった自分まで責め始めた。
玄関の呼び鈴が鳴ったのは、午後三時を過ぎた頃だった。千景が床へ広げた原稿を踏まないよう歩いて扉を開けると、水瀬郁子が紙袋を抱えて立っていた。八十二歳の郁子は薄紫色のブラウスに黒いカーディガンを羽織り、杖の先へ黄色いゴムの覆いをつけている。紙袋からは、焼きたての胡桃パンの匂いがした。
「カーテンが朝から閉まったままだったから来たの。あなた、また食事を忘れているでしょう。顔を見れば分かります」
「食べました。味噌汁とアジを、これから食べる予定です」
「それは食べたとは言わないわ。予定を胃袋へ入れても、栄養にはなりません。まずパンを食べなさい」
郁子は和室へ入ると、床に散らばった紙を足で踏まないよう杖で寄せた。かつてテレビドラマやゲームのシナリオを書いていた人らしく、他人の原稿を靴下で踏むのだけは嫌だと言う。千景が作品の削除を説明すると、郁子は何も言わず、胡桃パンを半分に割った。大きいほうを千景へ渡し、自分は焦げた端を食べた。
「規約違反ですって。でも、どの作品が悪かったのかも教えてくれないの。七年間、一日も休まず書いたのよ。お母さんの介護を書いた話も、父に木刀で叩かれた子どもの話もあったのに、全部なくなった」
「手元へ保存しなかったの?」
「何度もやろうとしたわ。でも、説明を読んでいる途中で、どの場所を押すのか分からなくなるの。後で息子に聞こうと思って、そのままにしたのよ」
「では、千景さんにも落ち度はある。でも、今それを百回言っても原稿は戻らないわ。パンを食べながら、残った十七作を別の場所へ保存しましょう」
郁子は自分の鞄から小さな記憶媒体を取り出した。千景が文章を一つずつ開き、郁子が保存する。途中で同じ作品を二度保存し、二人で笑った。すべて終わる頃には胡桃パンがなくなり、冷めた味噌汁だけが食卓に残っていた。
郁子は千景のパソコンで、あるゲーム会社の募集ページを開いた。小さな会社が、新作ゲームに使う短編シナリオを募集していた。題材は自由で、年齢や職歴は問わない。締め切りは、その日の午後十一時五十九分だった。
「無理よ。あと七時間しかないじゃない。それに、私は小説しか書いたことがない。シナリオなんて、どう書くのか知らないわ」
「登場人物に目的があり、それを邪魔するものがあって、最後に何かを選ぶ。それが分かれば書けます。あなたの作品にも、いつもあったでしょう」
「その作品は消えたのよ。読んで確認することもできない。私はもう、何を書いた人なのかも分からないの」
郁子は床に残っていた原稿を一冊拾った。表紙にはコーヒーの丸い染みがあり、右上をホチキスで留め直してある。郁子は最初の頁を読み、赤いペンで台詞の横へ線を引いた。手が震えたため、線は文字の途中を横切った。
「消されたのは作品でしょう。あなたの中にある、続きを作る力ではないわ。千七百作を書いた人が、千七百作を読み返さなければ次を書けないの?」
「簡単に言わないで。千七百回も、自分の暮らしを切って渡したのよ。それを昨日まで読めた人が、今日は誰も読めないの」
「だから、失わなかったことにしなくていいの。腹を立てたまま書けばいい。泣きながらでも、味噌汁を温めながらでも、一本だけ新しい話を作りなさい」
千景は応募ページを閉じなかった。締め切りまで残り六時間四十分と表示されている。題名を書く欄へカーソルを置いたが、指は動かなかった。郁子は急かさず、冷めたアジを皿から取り、台所の焼き網へ載せた。
温め直したアジの皮が弾け、焦げた醤油の匂いが部屋へ広がった。千景は味噌汁へ水を少し足し、鍋を弱火へかけた。二人で遅い昼食を食べながら、どんな話なら今夜中に書けるかを考えた。立派な冒険も大恋愛も、すぐには浮かばなかった。
「昔、息子へカシミヤのコートを着せたことがあるの。子ども用なのに、とても高い物だったわ」
「買ったの?」
「盗んだの。息子は知らずに喜んで、毎日大切に着ていた。でも、ある日どこかへ置き忘れた。私は息子を叱ろうとして、叱る資格がないことに気づいたの」
郁子は箸を置き、話の続きを待った。千景はアジの小骨を皿の端へ並べながら、あの日から人の物を盗まなくなったと話した。コートをなくした場所も、季節も、息子が何と言ったのかも、今では正確に覚えていない。それでも、空になった子ども用のハンガーだけは思い出せた。
「それを書きなさい。母親が盗むところからではなく、子どもが喜んで着るところから始めるの。読者が、そのコートを大切な物だと思った後で、盗品だったと知らせればいい」
「本当のことを書いたら、私が泥棒だったと知られるわ。七十二歳になってから、昔のことで軽蔑されるのは嫌よ」
「では、ファンタジーにしましょう。母親は怪盗で、息子を育てるために盗んでいる。コートを失った後は冒険者になり、モンスターからだけ盗むの」
千景は箸を止めた。人から盗んでいた手が、罠を外し、帰れなくなった仲間を助ける手へ変わる。それなら、盗んだことを消さず、その先を書くことができる。千景は食器を流しへ運び、パソコンの前へ戻った。
音声入力を起動すると、画面の隅へ赤い印が出た。最初の言葉は何度も誤変換され、「怪盗」が「解凍」になり、「盗賊」が「同族」になった。郁子は横から勝手に直そうとせず、千景が自分で気づいた箇所だけを教えた。窓の外では雨が降り始め、干したままの靴下へ細かな水滴がついていた。
「第一話。母親の顔をした怪盗」
千景が声にすると、画面へ題名が表示された。今度は一度で正しく変換された。彼女は、貧民街で息子を育てる怪盗の生活を話し始めた。冷めた豆のスープ、継ぎの当たった子どもの服、盗んだ金で買った黒パンも入れた。
午後十一時四十七分、短編シナリオが完成した。推敲する時間は十二分しかなく、郁子が誤字を確認し、千景が読み上げソフトで台詞を聞いた。途中で機械の声が一度止まったが、今度は千景が自分の声で続きを読んだ。午後十一時五十八分、応募ボタンを押した。
画面に受付完了の文字が表示された。千景は椅子の背へもたれ、机の上に置いた麦茶を飲んだ。朝から残っていた茶はぬるく、少し埃の匂いがした。郁子は空になった胡桃パンの袋を畳み、明日の朝まで捨てないでおくと言った。
「どうして袋を持って帰らないの?」
「明日も来る理由にするの。あなたが応募を取り消していないか、確認しなければならないでしょう」
「取り消し方なんて分からないわよ。応募できただけでも、不思議なくらいなんだから」
郁子が帰った後、千景は消えた作品の画面をもう一度開いた。そこには相変わらず、何も残っていなかった。それでも隣の画面には、受付番号のついた新しい作品がある。千景はその番号を紙へ書き、赤いペチュニアの鉢の下へ挟んだ。
雨に濡れた靴下を取り込み、台所の椅子へ掛けた。流しには昼の食器が残り、アジの骨を入れた袋から焼き魚の匂いがしている。千景は片づけを明日の自分へ任せ、パソコンの中に残った原稿をもう一度保存した。今度は保存先を、紙の端へ大きな文字で書いておいた。




