第9話 打った男
「回収品、返せます。調査が一区切りついたので」
室岡がそう言ったのは、三月二十七日の朝だった。追補は受理された。返答はまだ来ていない。受理と採用は違うが、少なくとも受付印は押された。
陣内の机には、日曜に拾った確保器の破片が置きっぱなしになっている。刻印の面を上に向けて、書類の重しにしていた。九キロニュートン。彼はまだ、この数字が何を保証していないのかを聞いていない。
「僕が持っていきます」
陣内が立ち上がった。
綿貫は書類から顔を上げた。
「なぜですか」
「……あとで言います」
室岡が老眼鏡の縁を指で押し上げた。二人を順番に見て、それから机の書類に戻る。
「二人で行け」
「僕一人で大丈夫です」
「一人で謝りに行く奴はな」室岡は書類をめくった。「自分のために謝るんだ」
陣内が口を開いて、閉じた。
室岡は十九年、この部署で人を見てきた。若い職員は三年に一人くらいの割合で回されてきて、たいてい一年で出ていく。出ていく前に一度、遺族のところへ一人で行きたがる。行って、謝って、楽になって、それから異動願を出す。そういうものを何度か見ているのだと思う。
◇
さいたま市のアパートは、二週間前と何も変わっていなかった。
外廊下の洗濯機。錆びた手すり。線路のほうから、踏切の音が聞こえてくる。違うのは風がないことと、線路沿いの桜が咲きはじめていることだった。まだ三分ほどだが、遠くから見れば色がついている。
三嶋果穂は、二回目の呼び鈴で出てきた。
前より疲れている。目の下の色が濃い。髪を後ろで留めている位置が、前に会ったときより低い。制服ではなく、部屋着の上にカーディガンを羽織っただけの格好だった。今日は休みなのか、休まされているのかは分からない。
彼女は記事のことも、職場にかかってきた電話のことも、一言も言わなかった。
言わないことで、伝わった。
「回収品をお返しに来ました。確保器を除いて、十八点です」
「はい」
陣内が段ボールを差し出した。彼女は両手で受け取り、いったん足元に置いた。
「ありがとうございます」
それで終わりだった。頭を下げて、ドアに手をかける。
「あの」
陣内が言った。
◇
「協会の発表文って、テンプレートがあるんです」
果穂の手が、ドアノブで止まった。
「僕、去年まで広報部にいました。事故が起きると、発表文を作る係でした。区画の番号と、深度と、等級と、年齢を入れると、あとは決まった文になります」
彼は早口だった。いつもより速い。止まったら言えなくなると思っているらしい。
綿貫は半歩下がった位置に立っていた。止めるつもりはない。止める権利もない。この一週間、陣内が記事の書式を調べ続けていたのを見ている。自分が打った文章が、どこを通って外へ出たのかを追っていたのだと、今になって分かった。
「『本件は、探索者本人の実力不足による事故と判断されました』」
言い終わってから、彼は息を吸った。暗記した文章を読み上げるのと同じ速さだった。実際、彼はそれを暗記している。百回以上打った文章を、忘れられる人間はいない。
「その文章、僕が打ちました」
風がないので、線路の音がよく通った。どこかの部屋で洗濯機が脱水に入る。外廊下の手すりに、誰かの布団が干してある。
日常が、そこら中で続いている。
「四十一件のうち、十一件は僕が作りました。テンプレートの最終更新も僕です。二月にやりました」
彼は一度、口を閉じた。
「弟さんのときに使われたやつは、その更新後のものです」
果穂は動かない。
「怒っていただいて構いません」
彼女はまだ、ドアノブに手を置いたままだった。
長い時間ではなかったと思う。だが、線路を電車が二本通った。
「そうですか」
いつもの返事だった。二週間前も、四日前も、彼女はこの二文字で受け取った。怒鳴らないし、詰らない。受け取ったものを、いったん全部同じ場所に置く。
それから、彼女は少し首を傾げた。
「あの文章、誰かが考えてるんですね」
陣内が顔を上げた。
「私、機械が出してるんだと思ってました」果穂の声は静かだった。「協会のホームページに、いつも同じ形で出るので。決まった書き方があって、自動で出るものだと」
「……はい」
「人が書いてたんですね」
「はい」
「そうですか」
彼女はドアノブから手を離した。屈んで、足元の段ボールを持ち上げる。一度持ち上げてから、下に置き直した。持ち方を変えて、もう一度、両手で抱えた。
「弟の物です。ありがとうございました」
遺品、とは言わなかった。
持ち方が変わっている、と綿貫は思った。二週間前、封筒を胸のあたりで止めていた持ち方とは違う。段ボールは重い。重いものを抱えるときの持ち方だった。
ドアが閉まった。
◇
帰りは、線路沿いの道を歩いた。
陣内は何も喋らない。歩き方が普段より遅い。目のあたりを二回こすった。花粉かもしれないし、そうでないかもしれない。綿貫は何も言わなかった。
線路沿いの道は狭い。柵の向こうで、砂利が日に温まった匂いがしている。三月の終わりの、少しだけ湿った匂いだった。
踏切で止まったとき、陣内が口を開いた。
「僕、何件書いたんでしょうね」
「十一件と、おっしゃっていましたが」
「四十一件のうちの十一件です。でも、うちの部署が扱うのは重篤災害だけじゃないので。骨折とか、後遺症が残ったやつも入れると、たぶん百件は超えてます」
「そうですか」
「全部、同じ文でした」
遮断機が上がった。二人とも、しばらく渡らなかった。
「あの人、機械が出してると思ってたって言ってましたよね」
「はい」
「そのほうがマシだったんじゃないですかね。僕みたいなのが打ってるって知るより」
「分かりません」綿貫は歩き出した。「ただ、機械なら、直せません」
陣内が横に並んだ。
「直せますか、人なら」
「直した例を、私は知りません」
「じゃあ同じじゃないですか」
「同じではありません。知らないだけです」
線路沿いの桜が、風のない空気の中で止まっている。三分咲きは、遠目には咲いていないのと変わらない。近づくと、咲いているのが分かる。
歩きながら、綿貫はふと足を止めた。
「どうしました」
「いえ」
何かを思い出しかけて、思い出せなかった。
三年前だったと思う。分室に誰かが訪ねてきた。受付から内線があったのか、それとも机に何か置かれていたのか。そのあたりが曖昧である。その日は別の現場に出ていた。帰ってきて、机の上には書類が積み上がっていて、いつものように上から順に片づけた。
名前が出てこない。
顔も浮かばない。
覚えていることのほうが少ない、というわけではなかった。彼は自分が扱った案件を、区画と深度と回収品の点数まで言える。四百十二通のうち、どれについて聞かれても、五秒あれば思い出す。
思い出せないのは、案件になっていないからだ。
思い出そうとすると、その日の現場のほうが先に出てくる。第四区画の十七層で、圧死が一件。回収品は二十二点。報告書は五日後に提出して、二週間後に差し戻された。そちらは全部覚えている。
「綿貫さん?」
「……桜、咲いてますね」
陣内が振り返って、綿貫の顔を見た。それから桜を見た。
「咲いてますね」
彼はそれ以上、何も聞かなかった。
三年前、誰かが分室を訪ねてきた。
綿貫はそれを思い出しかけて、思い出せないまま歩いた。
その人が誰だったかを彼が知るのは、これから五か月後である。




