第10話 対象外
「綿貫さん。採用です」
陣内が封筒を持ったまま、机の横に立っていた。
「何がですか」
「勧告が。……勧告が、採用されてます」
綿貫は書きかけの文書から手を離した。四月三日。窓の外の桜は満開を過ぎて、分室の裏の空き地に花びらが吹き溜まっている。
封筒を受け取った。協会の様式である。宛名は災害調査室長。中に一枚。
『第八号勧告 採用通知』
勧告の件名が印字されていた。『規格C確保器の使用実態に係る安全性の再検証を求める』。その下に、採用の二文字。
採用。
十九年で、四十一件。この二文字を見たことがない。不採用の印は四十一回見ている。押される位置も、朱肉の色も覚えている。
彼は最初から読み直した。
「綿貫さん」
もう一度読んだ。
「あの、綿貫さん」
三度目を読み終えたところで、机の向かいで椅子を引く音がした。
室岡が立ち上がっていた。書架の一番上、来客用の湯呑みが置いてある棚に手を伸ばしている。老眼鏡を外して、そこに置いた。
「十九年だぞ」
「はい」
「十九年だ」
彼は湯呑みを二つ下ろして、ポットの前へ行った。手が少し震えていたが、それについては何も言わなかった。
湯が注がれる音がした。室岡は自分の分を先に置いて、綿貫の机に湯呑みを持ってきた。縁の欠けた、来客用のやつである。
「飲め」
「はい」
「今日はな。飲め」
彼は自分の席に戻って、老眼鏡をかけ直した。かけ直してから、書類を読まずにしばらく窓のほうを見ていた。
綿貫は通知を机に置いた。それから、指で紙の端を一度なぞった。
◇
呼び出しがあったのは、その日の午後である。
協会本部の十二階。久我の執務室に入るのは、十九年で三度目だった。前の二回は、部署の廃止案が出たときと、綿貫が異動を打診されたときである。どちらも断った。
「座りなさい」
窓が大きい。虎ノ門の交差点が見下ろせる。壁のキャビネットは扉が閉まっていて、鍵がかかっていた。
「追補がよかった。荷重条件と、現物との照合が一致していた。写真も揃っていた」
「はい」
「あれは私が押した」
久我は手元に何も置いていない。それでも件名と条番号を正確に言った。
「よくやった」
皮肉ではなかった。少なくとも、皮肉の言い方をする人ではない。この人は十九年、綿貫の文書を差し戻し続けてきたが、一度も見下した言い方をしたことがない。
「ありがとうございます」
「ただし、範囲は限定した」
久我が椅子の背にもたれた。
「全部は通せない。通せば稼働が止まる。止まったら誰が困るかは、君も知っているだろう」
「下請けです」
「そうだ。仕事が止まって、単価が下がって、無登録で潜る人間が出る」
「はい」
「それを分かっている人間に、こういう話をするのは楽だ」
十七年前の数字を、この人は何度も出す。規制を強めた年に、無登録潜行での死者が年間二百十一人。今は六十人。綿貫はその数字を否定したことがない。否定できる材料を持っていない。
持っていないから、いつも黙る。
久我はそこで初めて笑った。笑ったというより、口の端が少し動いた程度である。
「今回の勧告は、再検証を求める内容だ。検証の主体はメーカーと、協会の規格委員会になる。時間はかかる」
「どのくらいですか」
「三年か、五年か」
「その間、規格Cは使われ続けます」
「使われる」
「E級とD級が使います」
「そうだ」久我の声は変わらなかった。「止めれば、別の人間が死ぬ。私はそちらを数えている」
綿貫は答えなかった。
隣で、陣内がノートを取っている。ペンの音が小さく続いていた。久我の目が一度、その手元に向いた。一秒に満たない時間である。すぐに戻った。
◇
分室に帰ったのは十九時だった。
室岡はもう帰っている。湯呑みは洗って伏せてあった。
綿貫は通知をもう一度出して、机の上に広げた。
朝は本文しか見ていない。件名と、採用の二文字と、決裁欄。三度読んだのは全部そこだった。
今度は、下まで読んだ。
本文の下に、四行あけて、小さい文字が一行ある。
『なお、多人数確保退避手順(泊式)に係る部分は、本勧告の対象外とする』
読み返すまで、そこに何か書いてあることに気づいていなかった。採用の二文字を三度読んで、決裁欄を見て、それで終わりにしていた。
十九年、通知の下のほうを読む習慣がない。不採用の通知は理由欄が本文で、そこから下は白紙だからである。
彼は自分の勧告文を開いた。
四千二百字。装備の話しか書いていない。確保器の規格、荷重条件、変形の再現。手順については、事象の経過を説明する箇所で名称に触れただけである。要望も、疑義も、一行も書いていない。
もう一度、通知の但し書きを読んだ。
「陣内さん」
「はい」
「これを見てください」
陣内が回り込んで、紙を覗いた。読んで、しばらく黙った。
「……泊式のこと、書きましたっけ」
「書いていません」
「ですよね。僕、全文読みましたけど、そんな話は一つも」
「ありません」
陣内が紙を持ち上げて、蛍光灯にかざした。角度を変える。
「綿貫さん。この行、字送りが違います」
「字送り」
「文字と文字の間隔です。本文はぶら下げ組みですけど、この一行だけ揃ってません。あと、行間も〇・五ミリくらい狭い」
彼は紙を下ろした。
「これ、あとから差し込んだ行です。本文を作った人と、この一行を入れた人が違います」
綿貫は紙を受け取った。蛍光灯にかざす。角度を変えると、確かにその一行だけが浮いて見えた。字の並びが、他より少しだけ窮屈である。
言われれば分かる。言われなければ、一生分からない。
十九年、彼は現場の物を読んできた。紙も物であることを、忘れていたわけではない。ただ、協会の文書に細工がされるという前提で読んだことが、一度もなかった。
「よく気づきましたね」
「広報にいたので」陣内の声は硬かった。「差し替えの跡を探すのは、僕の仕事でした」
◇
二十一時を回っても、二人とも帰らなかった。
陣内は悠の携行記録器のデータを開いて、手順の記録を画面に出していた。
『多人数確保退避手順(泊式)』
分室は静かである。廊下の自動販売機が、低く唸っている。
「聞かれてないことを、除外してますよね」
「そうです」
「なんでですか」
「分かりません」
「英雄を守ってるってことですか」
綿貫は答えなかった。
代わりに、書架へ行った。四十一件のうち、装備について書いた勧告が二十三件ある。その二十三冊を、一冊ずつ抜いて机に積んでいく。積み上がると、机の高さの半分ほどになった。
「一件ずつ、もう一度見ます」
「今からですか」
「今からです」
「何を見るんですか。もう三回見ましたよね」
「手順の名前です」
陣内が動きを止めた。
「四十一件のうち、退避手順の名前が記録に残っているものが何件あるか。それだけを見ます」
「あ」
「今まで、そこを読んでいませんでした。死因と装備しか見ていなかったので」
陣内が椅子を引いて、机の反対側に座った。
「一冊、こっちに」
綿貫は一番上を自分の前に置き、二冊目を陣内のほうへ滑らせた。
十九年で初めて勧告が通った日に、彼は最初からやり直すことにした。
通知の一行を、もう一度読む。
『なお、多人数確保退避手順(泊式)に係る部分は、本勧告の対象外とする』
誰も聞いていない。誰も書いていない。疑問を持った人間は、この十九年で一人もいなかった。
それなのに、協会はわざわざ除外した。
守られているのは、英雄なのか。
それとも、英雄の名前を使っている誰かなのか。




