第11話 設計値は正しい
「お話しすることはありません」
黒石ゆかりは、ロビーのソファに座らなかった。
「四年前に辞めた会社の話です。守秘義務は残っていますが、規格そのものは公開されて——」
「残っています。それだけです」
大宮の駅前にある精密機器メーカーの、一階受付。観葉植物と、来客用のソファが二脚。天井のスピーカーから、音量を絞ったクラシックが流れている。四月十七日、午後一時。昼休みが終わったばかりの時間だった。
二十三件を一件ずつ読み直しても、泊式を除外した理由は出てこなかった。書類の中にない答えは、書いた人間か、書かせた人間しか持っていない。協会の内側は、聞ける相手が久我しかいない。
だから外へ出た。装備の規格を、作る側から見ている人間に会いに行く。
手紙を三通出して、返事は来なかった。電話は取り次がれなかった。四通目に、面会の可否を問う一行だけを書いて送ったところ、「受付までなら」という返信が来た。受付までなら、というのが今の状況である。
綿貫は名刺を出した。彼女は受け取って、肩書きのところを二度見た。
「災害調査室。まだあるんですね、あの部署」
「あります」
「そうですか」
三十九歳。髪を短く切って、社員証を首から下げている。この会社の業務は災害区域と何の関係もない。四年前に業界を出て、それきり戻っていない。
戻らなかった人間に会いに行くのは、これが初めてではなかった。四十一件を調べているあいだに、辞めた人間には何度も行き当たっている。たいていは会ってくれない。会ってくれる人は、たいてい何も言わない。何も言わない人が、なぜ会うことだけは承知したのかを、綿貫は毎回考える。
「アンカーIII型の設計チームにいらっしゃったと伺いました」
「いました」
「設計課で、荷重条件の担当だったと」
「それも人事の記録に残っていますね」黒石の声は平坦だった。「で、何を聞きに来たんですか」
綿貫は封筒から写真を出した。
三嶋悠の確保器を、六方向から撮ったもの。正面が内側へ潰れている。
黒石は受け取らなかった。手も出さない。
見た。
一秒。
視線を逸らさない。写真を見る目ではなかった。設計図の不具合報告を見る目である。潰れの向き、縁の巻き込み方、金属の伸びた方向。どこを見ているかが、視線の動き方で分かった。
「変形の向きが正面です」
言ってから、口を閉じた。
言ってしまった、という顔ではなかった。ただ、そこで会話を止めた。技術者が図面を見たときに出る種類の反射である。
◇
陣内が、少し離れた自動ドアの横に立っていた。話が止まったのを見て、視線でこちらを窺っている。
綿貫は写真を封筒に戻した。
「一つだけ、お聞きします」
「答えるとは言っていません」
「この製品の設計に、問題はありましたか」
黒石は、天井のスピーカーのほうを一度見た。曲が変わったところだった。
「結論から言います」
彼女は、綿貫のほうへ向き直った。
「九キロニュートンです。設計値は正しい。製造も正しい。使われ方が想定外なんです」
「想定は、誰がしましたか」
質問を、綿貫は一つずつ出す。相手が答えられる大きさに切って出す。十九年で覚えたやり方だった。
黒石が黙った。
ロビーの床は磨いてあって、蛍光灯が細長く映り込んでいる。誰かが受付の前を通って、ICカードをかざした。電子音が短く鳴った。
この人は、答えを持っている。持っているものを出さないと決めている。決めた理由が四年ぶんあって、その四年に綿貫は何の関わりもない。
「協会です」
「規格の数値を決めたのは、という意味ですか」
「そうです。メーカーは規格に合わせて作ります。合わせて作らないと、納入できません」
「では、その規格の想定は」
「規格を作った人が想定したことになります」黒石はそこで、初めて言葉に詰まった。「……想定しなかったのは、私たちですけど」
彼女は自分でその一言を言って、自分でそれを聞いた顔をした。
会話を切ったのは、彼女のほうだった。切る前に、答えを半分置いていった。置いていったことに、たぶん本人が一番驚いている。
◇
「これ以上は、業務時間中なので」
黒石が社員用のドアのほうへ歩き出した。カードリーダーにICカードをかざす。
ドアが開いた。
その向こうに、事務スペースが見えた。パーティションで区切られた島が四つ。手前から二番目の席が、彼女のものらしい。ディスプレイの位置と、椅子の高さでそう分かる。
机の下に、ファイルが積んであった。
灰色の背表紙。厚みが揃っている。二十冊以上。個人用のキャビネットに入りきらず、床に置いてあるという積み方だった。
一番手前の背表紙に、手書きのラベルが貼ってある。
年と、月と、日付。
綿貫の位置からは、四桁の年だけが読めた。四年より前の年である。
彼女がこの会社に来る前の日付だった。
ドアが閉まった。
「綿貫さん」陣内が寄ってきた。「今の、なんかありました?」
「机の下に、ファイルが積んでありました」
「え、それだけですか」
「二十冊以上です。この会社の業務ではありません」
「なんで分かるんですか」
「背表紙のラベルの日付が、この会社に入る前です」
陣内が振り返ってドアを見た。もう閉まっている。
「何のファイルですか、あれ」
「分かりません」
◇
大宮から川口までは、電車で三十分ほどかかる。
車内は空いていた。綿貫は資料袋から、二十三件の一覧表を出した。第6話ぶんの作業で陣内が作った表である。装備に言及した勧告だけを抜いてある。
「型番の列を見てください」
陣内が横から覗いた。
「四社ですよね。帝洋、日邦、あと二つ」
「四社です」
「じゃあ、一社の欠陥じゃないってことになりませんか」陣内が言った。「たまたま似た事故が四社ぶん起きただけ、とも言えますよね。僕が協会側なら、そう返します」
正しい反論である。同じことを、久我なら三十秒で言う。
綿貫は表の別の列を指した。
「保証荷重の列です」
陣内が指を下へ滑らせた。
止まった。指がそこから動かない。
「全部、九キロニュートンです。四社とも」
「四社とも同じです」
「なんで」
「規格Cの数字だからです」
電車が減速して、駅の名前を告げた。ドアが開いて、閉まった。車内の広告が一斉に同じ商品を映している。
四社が競争して、たまたま同じ弱点を持つ製品を作ったわけではない。四社は同じ試験に通るために、同じ数字を目標にして設計している。目標が同じなら、限界も同じところに来る。
「四社が同じ数字を使っているのは、四社が悪いからではありません。協会がその数字を決めているからです」
陣内は表を見たまま黙っていた。
「じゃあ、その数字は誰が」
「黒石さんも、同じことを言っていました」
綿貫はスマートフォンを出して、協会の装備規格の条文を開いた。第三章、第十七条。規格の区分。保証静荷重。規格Aが二十二、Bが十五、Cが九。
条文はそれだけだった。
彼は指で画面を送った。次の条は、表示に関する規定である。その次は、点検の周期。
一度、上へ戻した。
もう一度、第十七条を読む。
読んで、そのまま次へ進んだ。
彼の目は、そこに何が書かれているかを追っていた。何が書かれていないかには、まだ気づいていない。
改札を出たところで、スマートフォンが震えた。
黒石からのメールだった。本文は一行しかない。
『その数字を、誰が決めたのか調べてください。私じゃありません』
送信時刻は、綿貫たちがロビーを出た三分後になっていた。
四年前に辞めた会社の製品の資料を、あの人はまだ机の下に置いている。
辞めた人間が、なぜ持ち続けているのか。




