第12話 打ち切り
「第八号勧告に基づく再検証だが、打ち切る」
久我は資料を配らなかった。会議室のテーブルには、綿貫の側の書類しか載っていない。
「まだ何も始まっていません」
「始められないんだ」
四月二十四日。曇。窓の外は虎ノ門の交差点で、傘を持った人間が半分ほど混じっている。降ってはいないが、天気予報が当たると思っている人の数が見える。
大宮からの帰りに届いたメールに、綿貫はまだ返信していない。その数字を誰が決めたのか調べてください、と黒石ゆかりは書いてきた。調べるつもりでいた。今日の会議が終わってから取りかかるつもりで、資料の請求書も鞄に入っている。
「調査対象が、もう存在しない」
久我はそこで一度、綿貫の顔を見た。
「第七区画十二層の再構成周期は七日だ。事故から五十二日になる。現場の状態は、事象発生前に復元されている。違うか」
「違いません」
「なら、検証すべき対象がない」
事業推進本部の担当者が、資料をめくる音を立てた。三十代の男で、この会議で一度も発言していない。彼の役目は、稼働を止めない側の人間がこの場にいるという事実そのものである。
正しい。
綿貫は自分の書類を見た。反論を五つ用意してきて、そのうち四つは今の一言で消えた。世界のルールとして、久我の言っていることには一分の隙もない。
区画は自分の形を戻す。戻すのを止める方法はない。十九年、彼の仕事はその性質を前提に組み立てられてきた。最先着で入り、六時間なり七日なりの内側で読み切る。間に合えば読める。間に合わなければ何も残らない。
同じ性質が、今は退路を塞ぐ側に回っている。
残った一つを出す。
「物は残っています」
久我の眉が動いた。
「回収品はすべて協会の保管庫にあります。確保器一点、ロープ、携行記録器。区画は消えても、持ち込んだ物は消えません」
「実物試験をやれと」
「規格Cの動荷重条件で、試験機による測定を求めます」
久我は答えを急がなかった。指を組んで、しばらく綿貫を見ていた。
「予算は」
「……ありません」
「なら、できないな」
正論である。試験機を使うには金がいる。金は稟議で決まる。稟議を通すには、通す理由が要る。理由になる資料は、試験をしないと作れない。
十九年で、綿貫はこの輪を四十一回まわっている。
「以上でいいか」
「一点だけ」綿貫は書類を閉じた。「打ち切りの理由を、文書でいただけますか」
久我の手が止まった。ほんの短い時間である。
「出す。そういう規程だ」
◇
分室に戻ったのは十五時だった。
陣内が打ち切り命令書の写しを机に広げている。彼は書類を読むとき、まず本文を読まない。ヘッダーとフッターと、右上の番号を先に見る。広報にいたころの癖だと言っていた。
「綿貫さん」
「はい」
「これ、順番おかしくないですか」
綿貫は椅子を寄せた。
命令書の右下に、決裁の欄がある。日付が二つ並んでいた。
決裁日、四月二十二日。
起案日、三月三十一日。
「起案が三月三十一日です」
綿貫は日付をもう一度見た。
第八号勧告が採用されたのは、四月三日である。
「採用の四日前に、打ち切りが起案されています」
分室の窓を、細かい雨が叩きはじめた。ポットの湯が沸いて、自動で切れる音がした。
「採用する前から、止めるつもりだったってことですか」
「そう読めます」
「じゃあ、あの『よくやった』は何だったんですか」
綿貫は答えなかった。あの日の久我の声を、彼は思い出せる。皮肉ではなかった。皮肉を言う人ではない。本心で「よくやった」と言い、本心で四日前に打ち切りを起案している。その二つは、この人の中で矛盾していない。
「もう一つあります」
十九年、綿貫は現場の物を読んできた。装備、消耗品、記録。そこにあるものと、無いものの両方を見る。
紙も物である。日付も数字である。
彼は理由欄を指した。
『調査対象の物理的消失により、再検証は実施不能と判断する』
「起案されたのは三月三十一日です。十二層の周期は七日。事故は三月三日」
陣内が計算した。
「三十一日の時点だと、事故から二十八日ですよね。もう消えてます」
「消えています。ただ」
綿貫は指を止めた。
「消えていることを、三月三十一日の時点で理由にするなら、四月三日に採用する必要はありません」
「え」
「消えているのに採用した、ということになります」
雨の音が強くなった。陣内が書類を持ち上げて、光にかざした。この一週間で癖になったらしい。
「採用したのは、なんでですか」
「分かりません」
◇
十七時に、室岡が本部から戻ってきた。
上着を椅子にかけて、そのまま座った。老眼鏡を外し、目のあたりを親指で押す。この人がそれをやるのは、良くない報告を持ち帰ったときである。
「言うだけは言っといたよ」
「ありがとうございます」
「通らんかった。まあ、想定内だがな」
「何を言われましたか」
「対象がない、の一点だ。それだけ言われると、こっちは何も言えん」室岡が椅子の背にもたれた。「予算をつけろとまでは言った。鼻で笑われもせんかったよ。真面目な顔で、検討しますと言われた」
「検討」
「検討は、するんだろうよ。永遠にな」
彼は湯呑みに手を伸ばして、空なのに気づいて置いた。第10話の日から、この湯呑みは彼の机の上にある。
「会議で、本部長は何て言ってました」
陣内が聞いた。
「対象の消失、の一点張りだ。それ以上は何も言わん」
「議事録には、それしか残らないですよね」
「残らんな」
陣内が自分のノートを引き寄せた。四月二十二日のページを開く。この男は会議に出ていなくても、本部から回ってくる資料の要点を書き写している。
ページの右端、余白のところ。
「本部長、会議のあと、独り言みたいに言ってたそうです。うちの部長が聞いてて、僕に伝えてくれたんですけど」
彼はそこを読み上げた。
『あれは、開けてはいけない箱だ』
室岡が老眼鏡をかけ直した。
「箱ってのは、何のことだ」
「分かりません。そのまま書いただけなので」
陣内はペンでその行の頭に点を打って、ノートを閉じた。彼にとっては、その日書いた三十行のうちの一行である。
◇
二十時。
分室に残っているのは綿貫だけだった。雨は止んでいる。窓の外の空き地に、三月に組んだ櫓がまだ立っていた。片づける時間がなかった。
彼は第七区画の報告書を開いた。
差し戻されたまま、受理されていない文書である。打ち切りが決まったので、この案件は公式には終了した。原因は確定していない。確定していないまま、終了した。
一行目を見る。
『第七区画十二層における墜落死亡事象について』
事象、のままだった。
彼はファイルを閉じ、新しいファイルを一冊作った。背表紙には何も書かない。
そこに、二十三件の写しを入れはじめた。
コピー機の光が、暗い部屋を二十三回横切った。一枚ずつ、綴じる。順番は年代順ではなく、装備の規格順に並べ替えた。
規格Cが十九件。規格Bが四件。規格Aは、一件もない。
その意味を、彼はまだ言葉にしていない。数字を並べただけである。並べただけの表を、彼は十九年ぶんの他の資料と同じ棚には置かなかった。
これは業務ではない。命令は打ち切りである。打ち切られた案件を続けるなら、業務時間の外でやるしかない。
彼はタイムカードを押した。
押してから、席に戻った。
四十一人ぶんの報告書の見出しには、全部、同じ語が入っている。
墜落死亡事象、圧死事象、窒息死亡事象。
彼の書類の中では、四十一人はまだ誰も、事故で死んでいない。




