第13話 来ないでください
「今、いいですか」
「あの」
ドアは、前回より狭くしか開かなかった。
四月二十八日。晴れていて、この時期にしては暑い。外廊下の洗濯機の上に、洗剤の箱が出しっぱなしになっている。線路のほうから、踏切の音が聞こえた。
一か月ぶりだった。前に来たのは桜が三分咲きの日で、今は葉ばかりになっている。同じ階段を、同じ順で上ってきた。三段目が軋むところまで覚えている。
来る前に、伝えるべきかどうかを二日考えた。考えて、結論は出ていない。出ないまま来たのは、出るのを待っていたら次の月になるからだった。
「調査の状況を、お伝えに来ました」
「はい」
三嶋果穂は、ドアの隙間から出てこなかった。前より痩せている。目の下の色は変わっていない。
「勧告が一件、採用されました。四月三日です。確保器の安全性を再検証するようにという内容で、十九年で初めてです」
「そうですか」
「ただ、二十四日に打ち切りが決まりました」
彼女は何も言わなかった。
「打ち切られましたが、私は続けます。業務としてはできませんので、別の形になりますが」
言いながら、綿貫は自分が何をしているのかを考えていた。報告する義務はない。彼女は依頼人でもなかった。伝えたところで、彼女にできることは何もない。
それでも、伝えるべきだと思った。
彼女が知る権利を持っている唯一の人間だからである。
「あの」
果穂が言った。
「あの記事のあと、お店に電話が来たんです」
◇
「弟さんのことでお金取るんですかって、お客さんが」
彼女の声は、いつもと同じ高さだった。低くも高くもならない。
ドラッグストアのレジは、客の顔がよく見える。名札もつけている。記事には勤務先も名前も出ていない。それでも、どこかから届く。届く経路を辿ることはできるが、辿ったところで止められない。
「三回来ました。同じ人かどうかは分かりません。店長が、しばらくレジは他の人に代わってって」
綿貫は何も言えなかった。
「あと、この部屋にも一回、知らない人が来ました。取材ですって。どこの人かは言わなかったです」
「申し訳ありません」
謝る資格があるのかどうかも、彼には分からなかった。記事を書いたのは彼ではない。だが記者に一言だけ答えたのは彼である。答えなければ、記事は別の形になっていたかもしれない。ならなかったかもしれない。
確かめる方法がない。
「綿貫さんが悪いんじゃないです」
彼女はそう言った。言ってから、少し黙った。
「悪いんじゃないんですけど」
ドアの隙間の幅は、変わらない。
「書類、サインしました」
綿貫の指が、資料袋の持ち手で止まった。
「先週です。認定を受け入れるやつ。保険は三割減りました。減った金額で、来年の家賃と、母のときの分割の残りが払えます」
「はい」
三割という数字を、綿貫は四十一回見ている。書類の上では一行である。行の下に、来年の家賃と、母親の医療費の残りがあることまでは、様式に書く欄がない。
「弟が逃げてないっていうのは、信じてます」
彼女は、そこで初めて綿貫の顔を見た。
「本当です。あの日、あれを聞いて、ずっと考えてました。ロープが上で切れてたっていうの。あの子、そういうことする子なので」
「はい」
「でも」
「はい」
「それだけじゃ、どうにもならないんです」
洗濯機のホースが、風で壁を叩いた。乾いた音が二回した。
「私、生活があるんです」
彼女の声が、そこで小さくなった。怒鳴りはしない。詰りもしない。最後まで丁寧語だった。
一度も語気を強めない人が、それでも最後まで言い切るということが、どういうことなのか。綿貫はドアの隙間の幅を見ていた。二十センチほどである。開いているとも閉じているとも言える幅だった。
「もう、来ないでください」
◇
ドアが閉まる音は、前と同じだった。
静かに閉まって、鍵が回った。
綿貫は階段を降りた。今度は途中で止まらなかった。手すりも掴まなかった。降りきったところで、陣内が待っている。
「綿貫さん」
「行きます」
「今日はもう、やめましょう」
「一件、残っています」
「綿貫さん」
彼は歩き出していた。
十九年、彼は現場の順番を守ってきた。入口で一分立ち、全体を見て、それから手をつける。順番を崩すと必ずどこかが飛ぶ。
その日、彼は入口で立たなかった。
◇
草加の駅から十五分。二〇三号室の呼び鈴を、三回押した。
出てきた砂子悌は、部屋着だった。前に来たときと同じ、日焼けした腕をしている。ドアはチェーンを外して開いた。それが、前回との違いだった。
「まだ来るのか」
「二十時十八分です」
綿貫は前置きをしなかった。
「携行記録器の記録です。撤退開始は二十時十八分。あなたは二十時二十分と言いました。二分、どこにいましたか」
砂子の顔が変わった。
「なんだよ、いきなり」
「二分です。思い違いなら、思い違いで結構です。ただ、三嶋さんのログの最後の四十秒と、その二分が重なりません」
「知らねえよ」
「重ならないんです」
「知らねえって言ってんだろ!」
砂子が一歩出た。
綿貫の胸元を掴む。作業で鍛えた手だった。押されて、背中が外廊下の手すりに当たる。金属が鳴った。
砂子の右手が上がった。
止まった。
上がったまま、動かない。
「なんで俺なんだよ」
彼の声は、大きくなってすぐ小さくなった。
「なんで俺のとこばっか来るんだよ。他に生きてるやつ、いねえだろうが。俺しかいねえんだよ。だから俺なんだろ」
「そうです」
そう答えてしまってから、綿貫は自分の声を聞いた。低い。いつもと同じ高さで、いつもと同じ短さで、内容だけが正しくなかった。
正しくない、という判断が遅れて来た。
「ふざけんな」
陣内が階段を駆け上がってきて、二人の間に入った。
「すみません、今日は、すみません」
砂子は手を下ろした。下ろしてから、自分の手のひらを見た。
「もう終わったことだろ」
「終わっていません」
「終わってるんだよ。もう終わったことだろ。……終わったことだろうが」
三回、同じことを言った。三回目は、ほとんど聞こえなかった。
◇
砂子が部屋に戻り、ドアが閉まる。
閉まる途中の一秒か二秒、玄関の中が見えた。
三和土に、ベビーカーが畳んで立てかけてあった。
壁に紙が貼ってある。予防接種の日程表だった。市の様式で、印刷された枠にシールが貼ってある。上から順に、途中まで。
生後八か月ぶんだった。
ドアが閉まった。
◇
帰りの電車で、陣内が言った。
「子ども、いるんですね」
「そうですね」
「あの、綿貫さん。それ、関係あると思いますか」
綿貫は窓の外を見ていた。夕方の光が、川の水面で細かく割れている。
「分かりません」
「でも、なんかあるでしょ。あんな追い詰められ方して、あんな部屋で」
「あるかもしれません」
「じゃあ」
「分かりません」
彼はそれ以上、言葉を持っていなかった。
ベビーカーがそこにあることは分かる。予防接種の日程表がどこまで進んでいるかも読める。何か月の子どもがいるかまで、数えられる。
それが、あの人の嘘とどう繋がっているかは、分からない。
物からは、そこまでしか出ない。
電車が鉄橋を渡った。音が変わって、また戻った。
十九年で、彼が現場から家に直帰したことは一度もない。どんな日でも、必ず分室に寄って、その日拾ったものに番号を振ってから帰る。
その日、綿貫は乗り換え駅で、分室のほうの電車に乗らなかった。




