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第14話 手順どおり

「連休ですよ。何やってるんですか」


「二十三件を、読み直しています」


「何回目ですか、それ」


「四回目です」


電話の向こうで、子どもの声がした。陣内は実家に帰っている。世田谷だと言っていた。


「四回読んで、何か出ましたか」


「出ていません」


七日前から、綿貫には会いに行ける相手がいない。果穂には来るなと言われ、砂子には胸倉を掴まれた。玄関の三和土にあったベビーカーの意味は、いまだに一行も書けていない。


書けないものは、置いておくしかない。置いておいて、書けるもののほうへ戻る。


五月五日。分室には誰もいない。蛍光灯を一本だけ点けて、綿貫は机に二十三冊を積んでいた。窓を開けてある。連休の川口は静かで、遠くで工事の音もしない。ポットの湯が沸いて、自動で切れた。誰も注がない。


「綿貫さん、共通点を探してるんですよね」


「そうです」


「あの」


陣内が少し黙った。向こうで誰かが彼を呼んでいる。


「違うところを探したら、どうですか」


「違うところ」


「共通点が四回出ないなら、そもそも共通してないのかもしれないですし。逆に、二十三件と、それ以外の事故で違うところがあるなら、そっちのほうが早くないですか」


綿貫はメモを取らなかった。取る必要がなかった。


「今の、もう一回言ってください」


「え。共通点が出ないなら違うところを探したら、って話ですか」


「そこです」


「いや、思いつきですよ。僕、現場のこと何も分かってないので」


「分かっていないから言えたんだと思います」


「褒めてます?」


「切ります」


「あ、はい」



彼は書架から、別の束を出した。


勧告を付さなかった死亡事故の報告書である。十九年で二百八十七件。そのうち、直近十年ぶんを引っ張った。百十二件ある。


床に並べる。左に二十三件、右に百十二件。


比べる列を決めた。


規程違反の有無である。


装備の未点検、二人一組の不遵守、深度超過、許可外の区画への進入、報告義務の懈怠。協会は事故のたびにこれを確認し、報告書の第四節に書く。書かない年はない。書式で決まっているからである。


右の百十二件を、綿貫は先に見た。


一件目、装備の点検記録が二か月切れている。二件目、単独潜行。三件目、規定の休憩時間を取っていない。四件目、深度超過。


三十分で三十件を見た。書式が同じなので、第四節の位置は全部同じところにある。指で押さえて、目だけ動かせばいい。


三十件のうち、二十七件に何かしら書いてある。


人が死ぬときは、たいてい何かが守られていない。それは彼が十九年見てきたことである。守られていないから死ぬのではない。守られていないことが、事故のあとで見つかるのだ。誰でも何かは破っている。破っていない人間はいない。


指の腹が乾いて、紙がめくりにくくなってきた。台所で水をつけて、また戻る。


彼は左に移った。


二十三件。


一件目、第四節は空欄だった。


二件目、空欄。


三件目、『規程違反は認められない』。


四件目、空欄。


五件目、空欄。


綿貫は膝をついたまま、床の書類を見ていた。窓から入る風で、右の束の紙が一枚めくれた。


二十三件のうち、規程違反が書かれているものは、一件もなかった。



十三時を回っていた。


彼は台所で水を飲んだ。コップの縁が欠けている。分室の備品はどれも古い。飲んでから、また床に戻った。


違反がない。


これは、統計として異常である。


百十二件のうち、九割に違反の記載がある。二十三件では、ゼロ。同じ協会の、同じ様式の、同じ調査官が書いた書類である。書き手の癖では説明がつかない。書いたのは全部、綿貫だからだ。


十九年、彼は一件ずつ書いてきた。一件ずつだと、これは見えない。今回は違反がありませんでした、で終わる。次の件で同じことを書いても、前の件と並べないので何も起きない。


並べて初めて、空欄が二十三個並ぶ。


二十三人は、何も破っていない。


装備は点検済み。二人以上で入っている。深度も許可の範囲内。休憩も取っている。全員が、正しく仕事をしていた。


死んでいる。


腕がなかったわけではない。若かったから、というわけでもない。二十三人の年齢は十九から四十六まで散らばっている。等級も違う。区画も違う。


違わないものが、一つだけ残っている。


彼は次の列に移った。


行動記録の最終項目である。携行記録器は、探索者が所定の操作をすると自動で記録を残す。訓練で体に入れさせるので、緊急時でもほとんどの者が押す。


二十三件のうち、記録が残っているのは十九件。


十九件を、一つずつ読み上げるように目で追った。


『多人数確保退避手順(泊式)開始』


『多人数確保退避手順(泊式)開始』


『多人数確保退避手順(泊式)開始』


十九件。全部、同じだった。


残る四件は、記録器そのものが破損していた。分からないものを数に入れないのが、綿貫のやり方である。


十九件で足りた。



階段を上ってくる足音がした。


十六時。ドアが開いて、陣内が入ってきた。私服で、荷物も持っていない。


「なんで来たんですか」


「電話、切り方が変だったので」


彼は床の書類を見て、そのまま靴を脱いで上がった。二十三件の側に膝をつく。


「これ、何の列ですか」


「第四節です。規程違反の有無」


「空欄ばっかりですね」


「二十三件とも空欄です」


陣内が右の束のほうを見た。彼は数分かけて、十件ほどをめくった。紙の音が、静かな部屋で規則的に鳴る。


「こっち、書いてありますね。点検切れとか、単独とか」


「九割に書いてあります」


陣内の手が止まった。


「ちょっと待ってください」


彼は左に戻って、もう一度めくった。それから右。また左。


「守ってる人が死んでるってことですか」


「そう読めます」


「いや、待ってください。おかしいでしょ。だって、こっちの百十二件は違反があって死んでるんですよね」


「あります」


「じゃあ普通は、違反したほうが危ないじゃないですか」


「普通はそうです」


「なのに、違反ゼロの二十三人が死んでるって、どういうことですか」


「違反していないことが、この二十三件では危険側だった、ということです」


「いや」陣内が床に座り込んだ。「逆じゃないですか」


「逆です」


「守らなかったから死んだ、じゃなくて」


「守ったから死んでいます」


綿貫は行動記録の列を指した。十九件の同じ文字列。


陣内はそれを読んだ。読んで、しばらく黙っていた。


彼が何を思い出しているかは、綿貫にも分かった。この男は四十一件のうち十一件の発表文を打っている。その文面が、床に並んだ書類の隣にある。


『手順の不適切な適用による』


十九件とも、認定の文言はそれだった。


適用は、適切だった。


不適切だったのは、手順のほうである。


「僕、この文章、何回打ったんでしょうね」


陣内の声は低かった。


「……この人たち、手順を守って死んでるんですね」


「そうです」


「言われたとおりにやって」


「はい」


「真面目な人ほど死んでるってことですよね、それ」


「そう見えます」


「……綿貫さん、それ、僕、たぶん一生忘れないやつです」


風が入って、紙が鳴った。綿貫は窓を閉めた。



十九時。


二人で床の書類を片づけながら、綿貫は悠の資料を最後に置いた。


行動食が四食分残っていた。長く潜るつもりのない人間の持ち方である。それは三月の時点で分かっていた。分かっていて、意味が出なかった。


今は出る。


泊式は多人数の手順である。一人では開始できない。支える相手がいなければ、そもそも始まらない。


悠のログには、開始の記録がある。


協会の認定は、無理な単独潜行。


「単独潜行だと、この記録が残らないんですよね」


「残りません」


「じゃあ、認定文が自分で矛盾してることになりませんか」


「なります」


綿貫は机の引き出しから、四月三日の通知を出した。


『なお、多人数確保退避手順(泊式)に係る部分は、本勧告の対象外とする』


二人でそれを見た。


「これ、書いた人は」陣内が言った。「分かってて書いてますよね」


綿貫は答えなかった。答えるには材料が足りない。


代わりに、別のことを言った。


「これは、事故じゃありません」


十九年で、彼が声に出してそう言ったのは初めてだった。報告書には、まだ書かない。書くには足りない。



翌日、彼は協会の文書管理課に照会をかけた。


泊式退避手順を標準化した稟議書の写しである。五年前。公開文書ではないが、協会職員なら閲覧できる。


三日後に届いた。


一枚目。件名、『多人数確保退避手順の標準化について』。


起案部署、安全管理本部。


起案者の欄に、名前がある。


久我昭平。


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