第15話 内訳
「四十一件のうち、三十四件を私が査定しました」
「多いですね」
「担当が私しかいないんです。この分野は儲からないので」
鵜飼隆之は、名刺を裏返して机に置いた。そういう置き方をする人を、綿貫は初めて見た。裏が白いほうを上にして、そこに何か書くつもりでいるらしい。実際、彼は面会のあいだに二度、そこにペンを走らせた。
新宿の労災査定センターは、雑居ビルの六階にある。応接は三畳ほどの区切りで、壁が薄い。隣のブースの電話の声が聞こえていた。五月十二日、曇。
泊式の稟議書の起案者名を見てから、綿貫は協会の内側で誰にも相談していない。相談すれば、相談した相手が困る。困らせずに済む相手は、協会の外にしかいない。
この四日、綿貫は協会の外にいる人間を順に当たった。装備メーカーは面会を断り、規格委員会の元委員は退任していて連絡がつかず、労働基準監督署は所管が違うと言った。残ったのが保険である。
保険会社は、金を払うために事実を調べる。協会が調べない列を、金の側は持っていることがある。
「日本ダンジョン協会の、災害調査室」鵜飼は綿貫の名刺を読んだ。「そういう部署があるのは知ってました。書類は見たことがあります」
「私の報告書をですか」
「いえ。あなたの部署の名前が、認定文の参考資料欄に載っているのを見ただけです」
彼は眼鏡を上げた。四十五歳。丁寧だが、声が乾いている。
「守秘義務があります。個別の案件はお話しできません」
「承知しています」
綿貫は資料袋から書類を出した。
「公表されている統計の範囲で伺います。協会の年報から、私が作りました」
鵜飼が受け取った。三枚ある。彼は一枚目を見て、二枚目を見て、三枚目で手を止めた。
「……準備してこられたんですね」
「はい」
「珍しいです。たいてい、こちらに調べさせに来ます」
◇
陣内が、机の端の書類の束に目をやっていた。
未決の箱に、稟議書らしいものが積んである。表紙に押された印が見えた。同じ形の印が、何枚も重なっている。
「あの、それ」
「ああ、これは」鵜飼は隠さなかった。「減額分の再検討を上に出したやつです。全部、却下です」
「全部ですか」
「四十一件のうち、三十四件ぶん。三十四回出して、三十四回却下されました」
彼はその束を引き出しにしまった。しまい方が乱暴ではない。整理して、揃えて、しまった。
三十四回という数字を、この人は正確に言った。数えていなければ出ない数字である。数えているということは、忘れていないということだ。
「無駄なことをしている自覚はあります」
「なぜ出すんですか」
「出さないと、記録に残らないので」
その一言を、綿貫は自分でも何度か言ったことがある。言い方も、抑揚も、ほとんど同じだった。違うのは、この人が三十四回で済んでいて、自分は四百十二回だということだけである。
綿貫は鵜飼の顔を見た。
鵜飼のほうは、綿貫を見ていなかった。書類を揃え直しているだけである。
◇
「支払調書の文言を、見せていただけますか」
「氏名を伏せてなら」
鵜飼はキャビネットから四枚を出し、上部を紙で隠して机に並べた。
事故の状況欄は、四枚とも違う。区画も、深度も、日付も、状況の説明も違う。
認定理由の欄だけが、同じだった。
『本人の重大な過失(手順の不適切な適用)による』
一字一句、同じである。句読点の位置も同じだった。
書式が同じ文書は、世の中にいくらでもある。請求書も、契約書も、同じ形で回っている。形が決まっているから早い。早いから、たくさん処理できる。
処理される側には、一件しかない。
「コピーみたいでしょう」鵜飼が言った。「実際、コピーです。テンプレートですから」
陣内の手が、膝の上で止まった。
綿貫は四枚を見ていた。紙の質が協会のものとは違う。保険会社の書式は罫線が細く、余白が広い。
十九年、彼が書いた報告書は四十一通りに違う。区画も深度も、壊れた場所も、残っていたものも、全部違う。同じ死に方をした人間は一人もいない。
それが、この欄では一種類になる。
「これ、誰が決めるんですか」鵜飼が聞いた。「認定の文言です。うちは受け取るだけなので」
「安全管理本部です」
「あなたの部署ではないんですね」
「私の文書は参考資料です」
鵜飼が眼鏡を外した。レンズを拭いて、しばらくかけ直さなかった。
拭き終わっているのに、指が布を持ったまま止まっている。この動作を、綿貫は現場でも見たことがある。技術者や査定者が、目の前のものを認めたくないときに手が先に止まる。
◇
「もう一枚、見ていただけますか」
綿貫は四枚目の資料を出した。四十一件の等級別内訳である。
S級、A級、B級を合わせて三件。C級が七件。D級が十三件。E級が十八件。
四十一件のうち、三十一件がD級とE級に集まっている。
「E級が十八件です」
「多いですね」鵜飼が言った。「ただ、E級は登録者数が一番多い。全国で七万人を超えてます。母数が違うので、この表だけでは何とも」
「僕もそう思いました」陣内が言った。「人数が多いから、死者も多いだけじゃないかって」
正しい反論である。この表を作った日、綿貫も同じところで止まった。母数の違うものを並べても、意味は出ない。
数字は、割り方を決めるまでは何も言わない。
綿貫は最後の一枚を出した。
「潜行回数あたりに直しました」
鵜飼の手が止まった。
「E級は五層までしか入れません。一回あたりの潜行時間も短い。年間の潜行回数は、B級以上の三分の一以下です。人数ではなく回数で割ると」
彼は数字を指した。
「E級の死亡率は、B級以上の九倍になります」
隣のブースの電話が切れた。急に静かになった。空調の音だけが、天井のどこかで低く続いている。
九倍という数字そのものは、綿貫が発明したものではない。年報に載っている数字を、潜行回数で割っただけである。割り算をした人間が、これまでいなかった。
鵜飼はレンズを拭き終わっていた。かけ直さないまま、その紙を手に取った。
「……この計算、うちの数理でもやってません」
「協会もやっていません」
「なぜですか」
「必要がないからです。等級別の死亡者数は年報に載っています。載っているので、集計は済んでいることになっています」
鵜飼が眼鏡をかけた。
「等級が上がると、良い装備が使えるんですよね」
「規格Aは、S級とA級だけです」
「その下は」
「BとCで規格B。D級とE級は、規格Cです」
「規格Cが、一番弱いと」
「保証荷重が九キロニュートンです。規格Aの半分以下です」
鵜飼は、しばらく紙を見ていた。
保険の側から見れば、これは料率の話である。危険度に応じて保険料が決まるはずが、等級ごとの料率は同じだった。
E級の探索者は、九倍の危険を負って、同じ額を払っている。
「つまり」
彼は言葉を選んだ。選んだ結果、選ばなかった言い方をした。
「いちばん弱い道具を、いちばん人数の多い人たちが使ってるってことですね」
◇
エレベーターホールまで、鵜飼が送ってきた。
窓から新宿の高層ビルが見える。曇っているので、上のほうが霞んでいた。
「一つ、言っておきます」
鵜飼はエレベーターのボタンを押した。
「私の仕事は、支払額を決めることです。減額の根拠を探すのも仕事のうちです。私は、味方ではありません」
「はい」
「率で言うと」
彼は少し間を置いた。
「私の仕事は、安い命を安く払うことです」
綿貫は返せなかった。
今日思いついた言い方ではない。何年か言い続けて、言葉のほうが磨り減って、この形に落ち着いたのだと思う。
エレベーターが来た。扉が開く。鵜飼は名刺をもう一枚出して、裏に何かを書いて渡した。
「二週間ください」
「何がですか」
「私の側にも、まだ見ていない列があります」
扉が閉まった。
◇
下りのエレベーターで、陣内が言った。
「あの人、味方ですかね」
「分かりません」
「でも、二週間って」
「数字は味方です」
綿貫は名刺を裏返した。
ボールペンの筆圧が強い。急いで書いたのではなく、確かめながら書いた字だった。
数字が四つ書いてある。四十一件のうち、鵜飼が査定した三十四件の、支払年度の内訳だった。それだけである。約束の証文のようなものだと思った。
一階に着いた。
外は曇ったままで、雨は降っていない。
四十一枚の支払調書。事故の状況欄は、四十一通りに違う。
認定理由の欄は、四十一枚とも同じだった。
『手順の不適切な適用による』
適用は、適切だった。




