第16話 十九年前の縫い目
「一番下の、あれ。まだ見せてもらってません」
陣内がそう言ったのは、五月十六日の朝だった。
鵜飼から連絡はまだない。二週間と言われて、四日が過ぎた。待っているあいだにできることを探して、綿貫は書庫の扉の前に立っていた。
そこへ、この男が来た。
「二か月、聞かなかったんですけど。四十一件並べたとき、一件だけ棚から下ろさなかったので」
「気づいていましたか」
「あんな分かりやすいの、気づきますよ」
綿貫は書庫の鍵を持ったまま、しばらく動かなかった。
二か月、この男は聞かずにいた。そのあいだに四十一件を並べ、記事の書式を追い、日曜に土嚢を運び、遺族の前で自分の罪を言った。順番として、今日が来るのは正しい。
それから、扉を開けた。
「脚立、押さえていてください」
◇
報告書番号001。
床に新聞紙を敷いて、その上に置いた。二か月前と同じ手順である。違うのは、今日は開けることだった。
背表紙のインクが、他の四十冊より濃い。当時の印字機の癖で、最初の三年分だけ文字が太い。書庫でこの束を探すとき、綿貫は番号を見なくても分かる。
綿貫は表紙をめくり、陣内に渡した。
「読んでください」
「僕がですか」
「私が読むと、覚えているところを飛ばします」
自分の書いたものを自分で読むと、書いたときの記憶が先に出る。目が文字を追わずに、意味だけを拾ってしまう。
陣内は座り込んで、膝の上でファイルを開いた。読みはじめて、すぐに指が止まる。
氏名の欄。
『新藤克巳(24)』
第一発見者・通報者の欄。
『綿貫修司(22)』
陣内が顔を上げた。何か言おうとして、言葉が出ない。
「十九年前の十月です。第三区画の九層」
彼は自分で言った。陣内に読ませるつもりだったが、この部分だけは自分の口から出た。
「私は当時C級でした。二人一組で、彼と組んでいました」
◇
事象の経過は、報告書の第二節に書いてある。
綿貫はそこを読み上げなかった。代わりに、添付の写真を出した。
三十七枚ある。当時は現像代が高くて、枚数を絞れと上に言われた。絞らなかった。何を残すべきか判断できなかったからである。
今なら十二枚で足りる。どこを撮れば意味が出るかを知っているからだ。二十二歳の彼はそれを知らず、代わりに全部を撮った。結果、あとから意味の出た写真が三枚含まれている。
知識のない網羅が、ときどき専門家の選択に勝つ。それを覚えたのも、この一件からである。
その中の、十四枚目。
ハーネスの腰部の拡大写真だった。ピントが甘い。手ぶれもしている。二十二歳の綿貫が、震える手で撮っている。
「裂けているのが分かりますか」
「分かります。縫い目のところですよね」
「縫い目の、どちら側です」
陣内が写真を目に近づけた。
「糸は、切れてないですね。生地のほうが」
「そうです」
綿貫は写真の縁を指した。
「縫製の強度が足りなかったのなら、糸が切れます。糸が残って生地が裂けているということは、生地そのものが荷重に耐えていません。当時の規格の、保証値の範囲内でです」
「じゃあ、装備の」
「当時、私はそこまで書けませんでした」
事実と、その意味のあいだには、規格の知識という橋が要る。橋のない人間にできるのは、正確に記録することだけである。記録は残った。橋は五年後にかかった。
彼は写真を戻した。
「書けたのは、裂けているという事実と、裂け方だけです。それが何を意味するかを言葉にする知識が、私にはありませんでした。二十二歳で、規格の条文を読んだこともなかった」
陣内が黙って写真を見ていた。
「五年かかりました。同じ写真を見て、同じことが言えるようになるまでに」
五年経ったときには、再審査の期限はとうに過ぎている。読めるようになったのは、読めても何もできない時期だった。
◇
認定の欄は、最後のページにある。
陣内がそこまでめくった。
『確保操作の誤り』
その下に、綿貫の証言が「参考」として付記されている。三行だけである。認定文の本体には、その三行は反映されていない。
参考、という語を、綿貫はこの一件で初めて見た。以後、四百十二回見ている。彼の文書は、いつも認定文の下三行にいる。
「あの日、彼が落ちました」
綿貫は床の新聞紙を見ていた。
「足場が抜けて、先に落ちたのは彼です。私はロープを持っていました。持っていて、支えて、それで腰のところが裂けました」
「支えたのは、綿貫さんですか」
「そうです」
陣内が顔を上げた。
「じゃあ、確保操作の誤りって」
「私の操作の誤り、という意味ではありません。彼の、という意味です」
「え」
「落ちた人間が、落ちる前に何かを間違えたことになっています」
死んだ人間は反論しない。反論がなければ、認定は通る。通ったものが記録として残る。
十九年後、同じ構造が四十一件並んでいる。
分室の書庫は、空気が乾いている。紙と埃と、二十年前の機械油の匂い。上の階でポットが沸いた音が、床越しにかすかに届いた。
支えた、という言葉で片づけている。実際にはロープが手の中で走り、手袋の内側が焦げた。右の親指の付け根に、今も跡がある。ロープが止まったのは、腰のベルトが裂けて荷重が抜けたからだった。
支えていた時間は、四秒に満たない。
「反論しました。当時の担当者に、三回」
「通らなかったんですね」
「通りませんでした。それで、探索者を辞めました」
恐怖で辞めたと思われることが多い。違う。人が死ぬところを見たからではなく、死んだ理由が間違って書かれるのを見たからだった。前者なら、たぶん戻れた。
「辞めて、どうしたんですか」
「二か月後に、災害調査室ができました」
綿貫はファイルを閉じた。
「志願しました」
当時の調査室は、定員二名だった。室岡と、綿貫である。室岡はそのとき四十三で、まだ現場に入っていた。面接らしいものは無かった。志願する人間が他にいなかったからである。
◇
「書き直すつもりでした」
彼は言った。
「この報告書を、自分で書き直すつもりで入りました。それが目的でした」
「できたんですか」
「できません」
「なんでですか」
「過去の認定は、覆らないからです」
彼はファイルの背表紙を指でなぞった。
「再審査には申立ての期限があります。九十日です。私が調査室に入ったのは、事故から二か月と少し。書き直すには、認定を覆す根拠が要る。根拠を作るには調査が要る。調査をするには権限が要る。権限を得るまでに、期限が過ぎました」
陣内が何か言おうとして、やめた。
「だから、次の一件から先を書くことにしました」
「次の一件」
「四十一件は、その結果です」
沈黙が長かった。上の階で電話が鳴って、誰も出ないまま切れた。
十九年、綿貫はこの話を誰にもしていない。室岡は最初から知っている。それ以外の人間に説明する機会は、来なかったのではなく、作らなかった。
「じゃあ、四百十一通は」
陣内がそこまで言って、口を閉じた。
綿貫は答えた。
「一通目のために書いています。全部」
彼はそこで、自分の言い方が変わったことに気づいた。今の一文だけ、「私」と言っていない。十九年、報告書の中でも会話の中でも、彼はその一人称を使わない。
「……俺が書き直せなかったので」
言い直さなかった。
陣内は、そこに触れなかった。触れないことのほうが、この男には難しかったはずである。
◇
二階に上がったのは、十九時だった。
陣内が二十三件の表と、十九年前の報告書を並べた。
「綿貫さん。これ、同じですよね」
「どこがですか」
「構造です」
彼は指を二つ置いた。
「十九年前は、生地が荷重に耐えなかった。認定は『確保操作の誤り』。今の二十三件は、確保器が荷重に耐えてない。認定は『手順の不適切な適用』」
「はい」
「どっちも、装備の限界を、人の腕の問題にしてます」
綿貫は表を見ていた。
「協会ができたのは十九年前の十二月です」彼は言った。「新藤が死んだのは、その年の十月です」
「二か月前ですね」
「災害調査室は、最初の一人に間に合っていません」
窓の外は五月の夕方で、まだ明るい。空き地の櫓は先週片づけた。跡だけが四つ、土に残っている。
綿貫は机の上の巻尺を手に取った。
金属の巻尺で、外装の塗装が剥げている。六十センチ付近の目盛りが擦れて読めない。
「それ、ずっと使ってますよね」
「はい」
「なんで買い替えないんですか。前も聞きましたけど」
綿貫は巻尺を三十センチほど引き出して、また戻した。金属が鳴った。
「これ、あいつのです」
陣内は、それ以上聞かなかった。




