第17話 二十三件
「二週間、と言いましたので」
鵜飼は茶封筒を机に置いた。厚みがある。二センチはあった。
「これは、何ですか」
「私が見ていなかった列です」
五月二十三日。新宿の査定センターは、前と同じ三畳のブースだった。壁が薄いのも同じで、隣で誰かが電話をしている。初夏の陽が窓から入って、机の端だけが明るい。
十一日前、この人は二週間くださいと言った。約束の日を、一日早めてきた。早めた理由を、鵜飼は説明しない。
「保険の支払いには、装備の弁済が含まれます」鵜飼は封筒を開けなかった。「破損した装備は、原則として実費で填補します。だから、うちには型番とシリアルの記録が残ります」
「協会には、それがありません」
「そうらしいですね。年報を見て驚きました」
金を払う側は、払う対象を特定しなければならない。特定するには、型番と個体番号が要る。協会は金を払わない。払わないので、そこまで記録する理由がない。
同じ事故を、二つの組織が別の目的で記録している。記録の粒度が違うのは、目的が違うからである。
彼は封筒の口を指で押さえた。
「四十一件のうち、私が査定した三十四件ぶんです。装備の損害明細を綴じてあります」
綿貫が手を伸ばした。
鵜飼が、封筒を引いた。
「守秘義務があります。お見せするだけです。写しはお渡しできません。持ち出しも駄目です」
「拝見します」
「ここで、ですよ」
陣内が鞄からノートを二冊出した。
「書き写します」
鵜飼が彼を見た。
「三十四件ぶんですよ」
「書きます」
◇
二時間かかった。
型番、規格、製造年、シリアル番号の下四桁、破損部位。一件につき七項目。陣内が読み上げ、綿貫が書く。途中で交代して、また戻した。
写真に撮れば三分で終わる。撮影は許可されていない。許可されていないことをやると、この人がここに座っていられなくなる。だから手で書く。
手で書くと、書いたものが頭に残る。三十四件目を書くころには、二人とも規格の列を見なくても分かるようになっていた。
隣のブースの電話は、そのあいだに四回鳴った。
鵜飼は最初の三十分ほど自席に戻っていたが、途中から戻ってきて、ブースの外に立っていた。座らない。何も言わない。ただ、書き写す音を聞いている。
見張っているのだと思った。あとで考えると、たぶん違う。
三十四件目を書き終えて、陣内が手首を回した。
「終わりました」
「早いですね」鵜飼が言った。「私は三日かかりました」
「え」
「その明細を一覧にするのに、です。十一年ぶん、遡りました」
彼はそれ以上説明しなかった。
◇
分室に戻ったのは、十七時である。
綿貫は書き写した三十四件を、二十三件の一覧表と突き合わせた。
装備に言及した勧告は二十三件。そのうち、鵜飼の明細に含まれているのが十九件。残り四件は、鵜飼の担当外だった。
十九件の型番を、規格の列で分ける。
規格C。
規格C。
規格C。
「全部Cですね」陣内が横から言った。
「はい」
「メーカーは四社なのに」
「四社です」
綿貫は次に、製造年で並べ替えた。八年前から三年前までに集まっている。アンカーIII型が発売されたのが八年前で、他社の同型製品もその前後に出ている。
構造が同じだった。
規格Cの保証荷重は九キロニュートン。四社は、その数字に合わせて設計する。合わせて設計すると、部材の厚みも、支点の位置も、似た形に収束する。
似た形は、似た壊れ方をする。
四社が示し合わせたわけではない。競争して、それぞれ最善を尽くして、同じ穴に落ちた。目標が同じなら、限界も同じところに来る。
穴を掘ったのは、目標を決めた側である。
「二十三件です」
綿貫が言った。
「え」
「装備に言及した勧告が二十三件。その内訳を、初めて数字で説明できます」
陣内が手を止めた。彼は二月から数えて、この数字を三回聞いている。
「同じ数字ですね。書庫で数えたやつと」
「同じです」
「偶然じゃなかったんですね」
「偶然かどうかは、まだ分かりません」綿貫は表を見ていた。「ただ、繋がりました」
◇
一覧を年代順に並べ直したのは、十九時を過ぎてからだった。
八年前から順に、一件ずつ。氏名の欄は鵜飼の明細では伏せられていたので、綿貫の報告書の側から埋めていく。
十七件目まで来た。
十八件目。
十九件目。
指が止まった。
日付。三年前、六月十一日。
見覚えのある日付だった。見覚えがあるという以上のものが、すぐには出てこない。
場所。第七区画、十九層。
回収装備。確保器、規格C、一点。ロープ一式。携行記録器一台、破損によりデータ抽出不能。
氏名の欄に、綿貫は自分の報告書から名前を書き写した。
『泊 玲司』
陣内が横から覗いて、そのまま動かなくなった。
「……これ」
「はい」
「泊玲司って、あの」
「三年前に亡くなった、S級です」
分室が静かになった。廊下の自動販売機が低く唸っている。窓の外は暗くなりかけていて、五月の終わりの湿った空気が入ってきていた。
その名前を、綿貫は制度の用語として二か月扱ってきた。手順の名前であり、稟議書の件名であり、勧告の但し書きに出てくる語である。
人として現れたのは、これが初めてだった。
「なんで、この人がここにいるんですか」
「二十三件の一つだからです」
「いや、そうじゃなくて」陣内が椅子を引いた。「S級ですよね。規格Aが使えるはずですよね」
「使えます。特注もできます」
「なのに、規格Cの確保器を持って」
「十九層です」
「十九層って、B級でも二十層までですよね。S級が、E級の装備で、十九層」
綿貫は表から目を離さなかった。
「装備を間違えたんじゃないですか」
「S級が、確保器を間違えますか」
陣内は答えなかった。
◇
もう一つ、明細に違いがあった。
三十四件のうち、三十三件には保険会社から協会への求償記録がある。装備の破損について、協会が管理責任を問われる可能性がある場合、保険会社は形式的に照会をかける。ほぼ全件で行われる事務である。
三年前六月十一日の一件だけ、その欄が空白だった。
代わりに、備考にこう書いてある。
『装備は日本ダンジョン協会が引き取り。弁済請求なし』
「引き取ってるんですね」
「そうです」
「これ、普通ですか」
「普通ではありません」綿貫は指で欄をなぞった。「協会が装備を引き取った例を、私は思い出せません」
「じゃあ、誰が引き取ったんですか」
「回収したのは調査室です」
彼はそこで、自分の言葉に引っかかった。
三年前の六月。第七区画十九層。S級探索者の死亡事象。
その現場に入ったのは、綿貫である。
回収品に番号を振ったのも、彼である。
四百十二通のうちの一通で、彼は確かにそれを書いた。書いた記憶はある。だが、何を回収したかまでは出てこない。四百十二通ぶんの回収品目録の中身を、全部覚えている人間はいない。
彼は分室の電話を取った。
「室岡さん。三年前の六月のファイル、出しておいてもらえますか。第七区画、十九層です」
受話器の向こうで、書類をめくる音がした。
「泊のか」
「はい」
「……あれ、君が書いたんだったな」
「そうです」
電話を切って、綿貫は上着を取った。歩く速度が、いつもより速かった。




