第18話 三度の差し戻し
「結論から言います」
黒石ゆかりは、玄関のドアを開けたまま廊下でそう言った。
「あの規格には、動荷重の項目がありません」
「ないというのは」
「書いてないんです。最初から」
五月三十日。さいたま市のマンションの六階。梅雨入り前の、蒸した夕方だった。廊下の窓が開いていて、どこかの家の夕食の匂いがする。
一週間前、綿貫は郵便で二つの資料を送っていた。二十三件の型番リストと、潜行回数で割り直した等級別の死亡率である。手紙は付けなかった。
何を頼むかを書かなかった。頼むと、断る理由を相手に作らせることになる。数字だけを送れば、読むか読まないかは向こうが決められる。
返事は三日後に来た。本文は一行だけだった。
『三十日の十四時以降なら、家にいます』
◇
リビングのテーブルに、彼女は協会の規格書を広げた。
私物である。四年前に辞めた会社の備品ではない。表紙に付箋が七枚貼ってあって、どれも十年以上前の色に褪せていた。
規格書は協会が発行し、関係業者に配布する。設計者は毎日これを開く。開いた回数が、紙の角の丸まり方に出ている。
「第三章、第十七条」
彼女が開いたページを、綿貫は上から読んだ。
規格A、保証静荷重二十二キロニュートン。規格B、十五。規格C、九。
それだけである。
「規格Aには、動荷重の試験基準があります。ただし協会の規格ではなく、メーカーの自主基準です」黒石の指が条文の下を指した。「規格BとCには、それがありません。協会の規格にも、自主基準にも」
「なぜですか」
「十年前に、この規格が作られたからです」
彼女は麦茶をコップに注いで、二つ机に置いた。自分の分は飲まなかった。
「十年前、確保器は体重を支える道具でした。斜面で足を滑らせたときに、体を止める。ゆっくりかかる荷重に耐えればよかったんです」
「今は違うと」
「今は、落ちた人を止める道具として使われています」
支えるのと、止めるのは違う。支えるのは静かな荷重で、止めるのは一瞬の荷重である。三月に、綿貫は空き地でその違いを見ている。ゆっくり引けば百キロでも壊れず、一メートル落とせば一秒未満で壊れる。
同じ道具が、使い方の名前が変わるだけで別の道具になる。
陣内が顔を上げた。
「使い方が変わったってことですか」
「変わりました。五年前に」
彼女はそれ以上言わなかった。言わなくても、この部屋にいる三人は同じことを考えている。
五年前に何があったかを、綿貫はもう知っている。稟議書の件名も、起案者の名前も見た。黒石はその名前を口に出さず、綿貫も出さなかった。出さないほうが、話が早い場合がある。
「規格は、変わっていません」黒石が続けた。「十年前の想定のまま、そこにあります。誰も悪意で作ってません。作った人たちは、真面目に、当時の使われ方に合わせて数字を決めました」
「じゃあ、誰も悪くないってことですか」
陣内の声だった。
黒石が彼を見た。
「誰も悪くない設計で、二十三人死んでます」
◇
彼女が立ち上がって、隣の部屋から段ボールを持ってきた。
蓋を開ける。灰色の背表紙のファイルが、詰まっている。大宮の机の下にあったものと同じだった。
「二十三冊です」
綿貫は動かなかった。
「事故のたびに、新聞と、協会の発表文と、日付と型番を綴じてます。四年前に辞めてからも続けてます」
「なぜですか」
「集めてるだけです。何もしていません」
彼女は一冊を出して、表紙を綿貫のほうへ向けた。ラベルの日付は、四年より前だった。
大宮の机の下では、二十冊以上に見えた。実際は二十三冊で、綿貫が数えた二十三件と同じ数である。彼女は勧告の中身を知らない。知らないまま、同じ二十三件を集めていた。
同じものを見ていた人間が、協会の外に一人いた。
「これを見て、何かしたことは一度もありません」
言い方が乾いている。自分を責める調子でもない。事実を読み上げているだけの声だった。
◇
段ボールの底に、クリアファイルが一枚あった。
彼女はそれを出して、三枚の紙を机に並べた。
稟議書の写しである。
一枚目。六年前、四月。件名『規格B・Cに係る動荷重試験基準の追加について(提案)』。起案者、黒石ゆかり。
差し戻し欄に、朱書きがある。
『費用対効果の説明が不十分』
二枚目。同じ年の八月。同じ件名。
『現行規格で事故は発生していない』
三枚目。翌年の一月。
『業界他社との協調が必要』
「三回出して、三回返されました」
綿貫は三枚を並べ替えて、朱書きの部分だけを続けて読んだ。
三回とも、内容を否定していない。
危険ではない、とは書いていない。数字が間違っている、とも書かれていなかった。費用の説明が足りない。事故が起きていない。他社と足並みを揃えろ。
全部、手続きの話だった。
内容に踏み込まなければ、否定したことにならない。否定していない以上、責任も生じない。責任が生じなければ、誰も傷つかずに済む。
傷つかない仕組みの外側で、人が死ぬ。
彼は自分の四十一件を思い出した。差し戻しの理由は、いつもこの形をしている。要請書が事後提出である。写真の角度が足りない。予算がない。
「同じですね」
「何がですか」
「私の四百十二通も、同じ返され方をしています」
黒石が初めて、綿貫の顔をまっすぐ見た。
◇
決裁欄は、三枚目の右下にある。
社内の合議印が四つ。その隣に、協会側の受付印と、担当課の合議印が押してあった。
印影が薄い。朱肉が古かったのか、押し方が弱かったのか、名字の輪郭がぼやけている。
コピーを重ねると、朱色は最初に飛ぶ。この写しは、たぶん写しの写しである。
綿貫は上着から巻尺を出した。
金属の帯を十センチほど引き出して、印影の横に立てる。窓からの光を、金属の面で反射させた。角度を三度ほど変える。
影の向きが変わって、線が浮いた。
読める。
『安全管理課長 久我昭平』
陣内が息を止めたのが分かった。
「六年前です」黒石が言った。「あの人は、まだ課長でした」
「本部長になったのは」
「四年前です。ちょうど、私が辞めた年です」
綿貫は巻尺を戻した。
「六年前から知ってたってことですよね」陣内が言った。「知ってて、三回とも止めたってことに」
「知っていたとは限りません」
綿貫の声は低かった。
「え」
「印を押しただけかもしれません。合議印は、担当課長が内容を精査せずに押すこともあります。年に何百枚も回ってきます」
「でも」
「分かりません。印からは、そこまでしか出ません」
陣内が口を閉じた。
黒石が、麦茶のコップを持ち上げた。持ち上げただけで、飲まなかった。
「私も、そう思うことにしていました」
彼女は言った。
「四年間」
◇
帰るとき、彼女は三枚の稟議書をクリアファイルごと差し出した。
「持っていってください」
「よろしいんですか」
「写しです。原本は会社にあります。……たぶん、もう捨てられてますけど」
綿貫は両手で受け取った。
「証言は、しません」黒石が言った。「まだ」
「はい」
「私は、三回で諦めました」
彼女は玄関のドアに手をかけた。
「あなたは何回ですか」
綿貫は少し考えた。数えるまでもない数字である。
「四百十二回です」
黒石の口の端が動いた。笑ったのだと思う。笑ってから、彼女は目を伏せた。
ドアが閉まる直前、彼女は一言だけ足した。
「その数え方、変ですよ」
「そうですか」
「四十一回でしょう。勧告を出したのは」
「はい」
「じゃあ、なんで四百十二なんですか」
綿貫は答えなかった。
答えは持っている。ただ、それを声にする言葉を、彼はまだ持っていない。




