第19話 第四十四条
「初動を、事業推進本部の現地担当に一本化する」
議長役の総務課長が、資料の三ページ目を開いた。
「災害調査室は」
「書類が上がってから、読めばいい」
六月六日。梅雨に入って三日目で、朝から雨が続いている。協会本部の会議室は、窓を閉めているせいで湿っていた。誰かの傘から落ちた水が、床に丸い跡を作っている。
協会規程第四十四条。重篤災害の初動は災害調査室の管轄とする。十九年前、調査室の発足と同時にできた条文である。
この一行が、綿貫の十九年を支えてきた。権限は他に何もない。認定も押収もできず、証言を強制する手段もなかった。できるのは、誰よりも早く現場に入ることだけである。
早く入れるから読める。読めるから書ける。書いたものは採用されない。それでも、書ける。
その改定案が、机の上に配られていた。
「理由を説明します」
事業推進本部の担当者が立った。三十代の男である。四月の打ち切りの会議にもいた。あのときは一言も喋らなかった。
「初動の二重化により、稼働再開の判断が遅延しています。直近三年の平均で、一件あたり十九時間」
彼は資料をめくった。
「加えて、災害調査室は定員三名です。同時に二件の重篤災害が発生した場合、対応できません。実際、本年三月十四日の第三区画の件では、初動が二時間遅れています」
綿貫は資料の該当欄を見た。
事実である。あの日、彼は第七区画の案件を抱えたまま第三区画へ行った。移動に一時間かかり、六時間の周期に三時間しか残っていなかった。それは彼自身が報告書に書いている。
あの日、間に合わなかったわけではない。六時間の内側で読み切って、十一点を拾って出てきた。だが遅れたことは遅れたことで、報告書には正確に書いた。
正確に書いたものが、今、自分の権限を削る根拠になっている。
記録は、誰が読むかを選べない。
「以上です」
◇
「ご意見は」
議長が部屋を見回した。
綿貫は手を挙げた。
「災害調査室の綿貫です。反対の意見を申し上げます」
「どうぞ」
「現場は消えます」
彼は最初にそれを言った。
「一層から五層は六時間。六層から十二層は二十四時間。十三層以深でも七日です。書類が上がるのは、早くて三日後になります」
「三日で消えるものは、写真で残せばいいのでは」
久我が言った。
会議室の全員が、少しだけそちらを見た。彼は資料を開いていない。四月と同じである。
「写真は、撮った人間が何を見たかまでは残しません」
「それは君の技能の話だろう」
「そうです」
綿貫は認めた。認めない理由がない。彼の見方は十九年の経験に依っていて、他人に移せるものではなかった。移せないものを、制度の根拠にはできない。
「そのうえで申し上げます。現場を見た人間しか、その人が最後に何をしていたかを書けません」
久我が指を組んだ。少し間が空いた。
「気持ちは分かる」
彼はそう言った。皮肉ではない声だった。
「だが、稼働の遅延も人が死ぬ理由になる。仕事が止まった下請けが、無登録で潜る。この二つを天秤にかける立場にいる人間が、この部屋には私しかいない」
「はい」
「以上でいいか」
「以上です」
◇
議長が改定案の採決に入る前に、一度だけ確認をした。
「他にご意見は」
部屋が静かになった。
陣内は、綿貫の二つ隣に座っている。
彼は広報部にいた人間である。この会議体の作法を知っている。発言の順番も、資料の作り方も、どう言えば通りやすいかも知っている。この部屋で綿貫の側に立てる人間は、彼しかいない。
三月にこの男は、終わった事故を掘り返す意味が分からないと言った。四月には保険会社で二時間、明細を手で書き写した。五月には連休を切り上げて分室に来た。
ペンが動く音がしていた。
議事録を取る音である。
顔を上げれば、目が合う位置に座っている。
「他にはございませんね」
議長が確認した。
陣内は顔を上げなかった。
改定案は可決された。施行は次年度四月一日である。
◇
雨は昼になっても止まなかった。
非常階段の踊り場で、陣内が煙草を吸わないまま立っていた。吸わないのに、ここに出てくる癖がついている。
「すみません」
彼が先に言った。
「言えませんでした」
「立場があります」
「そうじゃないんです」
雨が非常階段の手すりを叩いている。鉄の匂いがした。
「僕、今日の議題、事前に知ってました」
綿貫は何も言わなかった。
「昨日、本部長に呼ばれたんです。用件は別のことでした。異動の話で、七月付けで広報に戻さないかっていう打診で。それで、帰り際に」
「はい」
「明日は静かにしていろって言われました」
「なるほど」
久我は、そういう言い方をする人である。命令の形を取らないので、逆らったことにもならない。逆らったことにならなければ、逆らわなかった事実も記録に残らない。
「僕、それを綿貫さんに言いませんでした」
陣内が手すりを掴んだ。
「言えばよかったのに、言いませんでした。言うと、綿貫さんが準備するじゃないですか。準備したら、たぶん本部長は別の方法を使う。そうなると、もっと悪くなる気がして」
「そうかもしれません」
「……それ、言い訳です」
「そうかもしれません」
雨の音だけが続いた。
◇
分室に戻って、綿貫は改定案の資料をもう一度出した。
条文の新旧対照表。理由書。参考資料。
彼は最後のページの、右下を見た。
小さな文字で、印刷日が入っている。会議資料には必ず入る。誰が刷ったか、いつ刷ったかを追えるようにするためである。
『五月十六日』
指を止めた。
五月十六日。
その日、彼は書庫の一番下の段から十九年前のファイルを下ろしている。新藤克巳の報告書を、二か月ぶりに開いた日である。
改定案は、その日に刷られている。
「陣内さん」
「はい」
「これを」
陣内が印刷日を見た。見て、しばらく黙った。
「……綿貫さんが、一通目を開けた日ですね」
「そうです」
「偶然ですか」
「分かりません」
綿貫は資料を閉じた。
条文の改定案を作るには、法規担当との調整が要る。理由書を書き、数字を集め、事業推進本部と合議する。最短でも三週間はかかる。五月十六日に刷られたのなら、起案はもっと前である。
四月に打ち切りが決まって、五月に彼は保険会社へ行き、書庫の一番下を開けた。
そのどれも、報告していない。室岡には結果だけを伝えた。協会に提出した文書もない。打ち切られた案件だからである。
なのに、動いた時期に合わせて手が打たれている。
誰かが、見ている。
◇
十九時に、室岡が上がってきた。
彼はファイルを一冊、綿貫の机に置いた。厚い。三年前の六月、第七区画十九層。
「あったぞ」
「ありがとうございます」
綿貫はファイルの表紙に手を置いた。開かなかった。
室岡が自分の椅子に座って、老眼鏡を外した。目のあたりを親指で押す。
「あのな」
「はい」
「来年度の予算、来てない」
雨が窓を叩いていた。
「まだ決まったわけじゃないぞ。例年も六月には出てる。今年は遅いってだけだ」
「はい」
「まあ、そういうこともある」
室岡は言い切らなかった。
綿貫は三年前のファイルを鞄に入れた。分室で読むつもりだったが、そうしなかった。
十九年で、業務書類を家に持ち出したのは、これが初めてである。




