第20話 伝言メモ
「次年度をもって、災害調査室は廃止だ」
室岡は座ったまま、そう言った。
「業務は」
「安全管理本部の書類審査に統合される。現場には行かない」
六月十三日。雨が朝から降っている。分室の窓枠のどこかから、規則正しい間隔で水が落ちる音がしていた。今年の雨漏りの位置は、去年より窓寄りだった。
机の上に、A4の紙が一枚ある。
『災害調査室の廃止について(通知)』
十九年で、最も短い書類だった。本文は六行しかない。次年度四月一日付。綿貫は安全管理本部の書類審査担当へ配置換え。室岡は総務に移り、そこで定年を迎える。陣内については記載がない。
「早いですね」
綿貫はそう言った。
「予算がついてないんだ。決まったも同然だと思ってたよ」室岡が老眼鏡を外した。「先週、来てないって言っただろう」
「はい」
「あれは、そういう意味だった。悪いな」
「いえ」
「言わなかったのは、決まってなかったからだ。決まってから言うのが筋だと思ってな」
「はい」
「筋を通したところで、何も変わらんかったが」
室岡が椅子を回して、窓のほうを向いた。
「俺は君を守れんかった」
十九年前、同じ台詞を聞いている。あのときは、守れない、だった。今は過去形になっている。
綿貫は立って、頭を下げた。
「やめてくれ」
室岡が手を振った。
「やめてくれ。頼むから」
彼は部屋を出ていった。
◇
十三時に、陣内が戻ってきた。
彼は午前中、本部に呼ばれていた。戻ってきたとき、傘を持っていなかった。分室から本部までは電車で四十分ある。
「綿貫さん」
「はい」
「僕、七月付けで広報に戻ります」
「聞いています」
「昨日、本部長に呼ばれました。用件はそれです」
陣内は座らなかった。机の横に立ったままである。
「本部長が、こう言ったんです。『もういい。ご苦労だった』って」
彼はそこで一度、口を閉じた。
「僕、意味が分からなくて。聞き返したんです。何がですかって」
雨の音が強くなった。
「そしたら」
「はい」
「『君の役目は終わりだ』って言われました」
◇
「二月の異動のとき、本部長に呼ばれてます」
陣内は続けた。早口ではなかった。一語ずつ確かめるように喋っている。
「災害調査室に行ってくれって。断る理由もなかったので、はいって答えました。そのあと、こう言われました」
彼は自分のノートを見なかった。覚えている。
「『綿貫くんが何を調べているか、月に一度、報告してくれ』」
綿貫は動かなかった。
「『彼のためでもある。彼は一人で抱え込みすぎる』って」
「そう言われましたか」
「言われました」
陣内が机に手をついた。
「僕、それを、悪いことだと思わなかったんです」
「はい」
「本部長の言い方が、そういう言い方じゃなかったので。心配してるんだなって思って。実際、綿貫さん、一人で抱え込むじゃないですか。それは本当だし」
「はい」
「三回、書きました」
雨が窓を叩いている。
「三月末に一回。四月末に一回。五月末に一回」
彼は指を折らなかった。折る必要がなかった。
「三月は、綿貫さんが二十三件を読み直してるって書きました。四月は、保険会社に接触したって。五月は、十九年前の一件の資料を書庫から出したって」
「文量は」
「三行です。毎回、三行くらいでした。事実だけ書けばいいって言われてたので」
三行。綿貫の証言が、十九年前の認定文に付記された行数と同じである。
綿貫は、机の引き出しを開けた。
打ち切り命令書の写し。起案日、三月三十一日。
規程第四十四条の改定案。印刷日、五月十六日。
「日付を合わせてください」
陣内が受け取って、二枚を見比べた。
三月末の報告。その直後に、打ち切りの起案。
五月末の報告。ではなく——五月十六日。
「五月のは、報告する前です」
「そうです」
「じゃあ、なんで」
「分かりません」綿貫は書類を戻した。「報告以外にも、経路があるということです」
陣内が椅子に座った。座って、両手で顔を覆った。すぐに下ろした。
「僕、何をしてたんですか」
綿貫は少し考えた。
考えて、答えを一つに絞った。
「あなたのせいではありません」
陣内が顔を上げた。
その顔を見て、綿貫は自分の言葉が正しくなかったことを知った。この男が今いちばん欲しくないのが、それだった。
赦しは、赦す側の都合で出る。出された側は、それを持って帰るしかない。持って帰って、置き場所に困る。
十九年、遺族の前で言葉に詰まってきた理由の一つが、これだった。何を言っても、相手の役に立たない。
◇
十八時。
陣内を帰らせて、綿貫は一人で片づけを始めた。
段ボールは総務から二十枚もらってきた。書架の四百十二冊を、年代順に詰めていく。一箱に十七冊入る。二十四箱かかる計算だった。
窓の外は暗い。雨は弱くなって、また強くなった。切れていない蛍光灯が三本、段ボールの上に薄い影を落としている。
ガムテープを切る音だけが、規則的に鳴った。
書類を詰める作業に、感慨はない。順番を崩さないことだけを考えている。番号順に入れないと、次に出すときに探せなくなる。次に出すことがあるかどうかは、この際どうでもいい。
十九年で、この部屋から出したものは何もなかった。増える一方だった。減らすのは今日が初めてである。
書架が空くと、壁の色が違うことに気づいた。棚のあった部分だけ、塗料が焼けていない。十九年前の壁の色が、そこに残っている。
三箱目を詰め終えて、机に移った。
自分の机の一番下の引き出しを引く。
十九年ぶんの雑物が入っていた。使い終わった手帳。壊れた蛍光ペン。名刺の束。区画の古い断面図。備品の請求書の控え。
その底に、三年前の書類の束があった。
輪ゴムで留めてある。ゴムは劣化して、触ると切れた。
日付順に並んでいる。三年前の五月から六月。第四区画の十七層で圧死が一件、その処理の書類である。捨てそびれた控えの束である。捨てる理由も、残す理由もなかった。
束をめくった。紙が乾いていて、指で分けるのに少し力が要る。
三枚目と四枚目のあいだに、小さい紙が挟まっていた。
色の変わった付箋である。もとは黄色だったらしい。今は茶色に近い。
受付の筆跡だった。
『13:40 泊玲司様 来訪 またお伺いしますとのこと』
◇
綿貫は、その付箋を持ったまま動かなかった。
日付が書いてある。付箋の右上に、小さく。
三年前、五月二十七日。
彼は鞄を引き寄せた。中に、室岡が出してくれたファイルが入っている。一週間、開かずに持ち歩いていた。
取り出して、表紙を見た。
『泊玲司 死亡事象』
その下に、日付。
三年前、六月十一日。
十五日。
彼は付箋をもう一度見た。それから、自分の手帳の束を引き出しから出した。三年前のものを探す。五月のページを開いた。
五月二十七日。
『第四区画十七層 圧死 現着13:10 回収品22点』
その日、彼は現場にいた。
十三時四十分に、泊玲司が分室に来ている。綿貫は第四区画にいた。夜に帰ってきて、机の上に書類が積んであって、いつものように上から順に片づけた。
付箋は、三枚目と四枚目のあいだに挟まった。
そのまま、三年経った。
◇
分室の蛍光灯は、四本のうち一本が切れている。
十九年、誰も替えなかった。替えてくれと言えば、総務は替えてくれたはずである。言わなかった。
綿貫は床に座った。
十九年で、この部屋の床に座ったことはない。
付箋を両手で持っている。紙は薄い。指の力を抜かないと、それだけで折れそうだった。
付箋の裏に、糊の跡が残っている。どこかに一度、貼られていた。書類の表紙か、机の上か。三年前の彼の目に入る場所に、この紙はあったはずである。
見なかったわけではないと思う。見て、あとで読むつもりで、書類の山に置いた。山の下から順に片づけていけば、いつかは出てくる。出てこなかったのは、山が減らなかったからだ。
彼は十九年、同じことを言ってきた。
誰も俺の報告書を読まない。
四百十二通、書いた。四十一件に勧告を付けた。一件も採用されなかった。読まれていないからだと思っていた。読まれていれば、こうはならないはずだと思っていた。
十三時四十分。泊玲司様、来訪。またお伺いしますとのこと。
彼は、また来なかった。
来なかったのではない。
その二週間後に、死んでいる。




