第21話 三十二人分
「泊さんの話ですか」
「はい」
「うち、あの人の話はしないんです」
そう言って、常磐のリーダーは笑った。
池袋の雑居ビルの四階。クラン常磐の事務所は、思ったより狭かった。装備の棚が壁の二面を埋めていて、残りの壁に区画の地図が貼ってある。机が四つ。応接はソファではなく、折り畳みの椅子だった。
六月二十七日。梅雨明けが近くて、朝から蒸している。窓を開けているので、下の通りの音が入ってきた。
写真も、表彰盾も、どこにもない。
十一年在籍したS級の痕跡が、部屋に一つもなかった。壁の地図は新しい。棚の装備も現行品ばかりで、古いものは処分されている。片づいているというより、片づけられている。
「三年前まで、あの人はここにいたんですよね」
陣内が聞いた。
「いましたよ。十一年」
リーダーは元A級で、四十四歳だという。腕に古い傷がある。
「うちの創業メンバーです。看板でした。あの人がいたから仕事が取れてた」
「なのに、何も置いてないんですね」
「置くと、みんな見るので」
彼はそれ以上説明しなかった。
英雄を出したクランは、英雄の名前で仕事を取る。取れているあいだはいいが、その英雄が死ぬと、事務所に置いてあるものが全部、値札に見えてくる。外した理由は、たぶんそれに近い。
◇
綿貫は住所を伝えて、何を調べているかは言わなかった。言えば断られると思った。
「三年前の十九層の件で、伺いたいことがあります」
「協会の調査は終わってますよね」
「終わっています」
「じゃあ、なんで来たんですか」
「終わり方が、他と違うので」
言い方を選んだ。真相を探しているとは言わない。調べているのは事務処理の齟齬であり、それは事実である。事実の一部だけを言うのは嘘ではないが、正直でもない。十九年で、綿貫はこの言い方を覚えた。覚えたことを、あまり良いと思っていない。
リーダーの表情が変わった。笑うのをやめた、というほうが近い。
「……どう違うんですか」
「装備が協会に引き取られています。保険の弁済請求も出ていません。私が調べた範囲で、他に例がありません」
彼は椅子の背に体を預けた。しばらく天井を見ていた。
「うちも、そう思ってました」
◇
「あの人、英雄になってから、笑わなくなったんですよ」
リーダーはそう切り出した。
「五年前です。九区画の暴走で、あの人が十四人まとめて連れ出した。それが手順になって、名前がついて、協会が表彰して」
「泊式」
「そう。それから取材と講習会ばっかりで、現場に入る日が減りました。うちとしては仕事が増えてありがたかったんですけどね」
彼は机の引き出しを開けて、古い携行記録器を出した。旧型で、今のものより一回り大きい。
「これ、四年前のやつです。潜行中の音声が残ってます」
「業務記録ですか」
「いや、私物です。あの人、記録器を二台持つ癖があって。一台は協会提出用で、もう一台は自分用に」
彼は機械を机に置いた。
「自分用のほうは、後輩に貸してました。あとで聞き直して、どこが下手だったか教えるのに使うんです。これ、返ってきたまま入れっぱなしでした」
再生ボタンを押した。
◇
雑音が入った。呼吸の音、金属が擦れる音、足音。区画の中の音は、地上とは反響の仕方が違う。壁が近い場所の音だと、聞けば分かる。
しばらく何もない。
それから、男の声がした。
『六十八パーセントってのは、三十二人分の話だぞ』
若い声が返した。『何がですか』
『生還率だよ。三十一から六十八に上がったって、みんな喜んでる』
『上がったじゃないですか』
短い間があった。
『上がった。だから、残りの三十二が見えなくなった』
足音が続いた。それから、笑い声が入った。泊のものだと分かる。低くて、短い。
『まあ、な。そういうもんだ』
音声はそこで途切れた。
事務所の窓の外を、救急車が通っていった。サイレンが遠ざかるまで、誰も喋らなかった。
三十二人。生還率が六十八パーセントということは、三十二パーセントが帰らないということである。百人の想定なら三十二人。それを、この人は割合ではなく人数で数えていた。
割合で数えると、成果になる。人数で数えると、名前のある誰かになる。
「これ、四年前ですか」
陣内の声が掠れていた。
「四年前です。表彰の一年後ですね」
◇
綿貫は、その日から泊のことを別の枠で考えはじめた。
生還率を上げた男が、生還率という言葉を嫌っている。数字が上がったことを喜ばずに、残ったほうを数えていた。
これは、事故調査官の数え方である。
綿貫は十九年、四十一件を数えてきた。四十一という数字は、彼にとって割合ではない。一件ずつの区画名と深度と回収品の点数がついている。
同じ数え方をする人間が、協会の外に、もう一人いた。
「この人、他に何かしていませんでしたか」
「何かって」
「事故の記録を集めるとか、そういうことです」
リーダーが眉を寄せた。
「……ああ。やってました」
彼は椅子を引き寄せた。
「二年前くらいから、うちの記録を全部見せろって言い出して。過去の潜行記録、装備の点検簿、あと事故報告の写しも。何に使うんだって聞いたら、勉強だって」
「勉強」
「そう言われたら、こっちは何も言えないですよね。S級ですし」
「協会には行っていましたか」
「行ってました。月に何回か。誰に会いに行ってたかは知りません」
綿貫は、上着のポケットに手を入れた。
中に、三年前の付箋がある。
◇
「最後の日のことは、聞いていますか」
「聞いてません」
リーダーの答えは早かった。
「あの日、うちは誰も一緒に行ってません。単独申請です。協会には出てますけど、うちには何も言わずに行きました」
「単独ですか」
「単独です。だから、後輩を庇ったっていう発表を見たとき、うちは全員びっくりしました」
陣内が顔を上げた。
「え。庇う後輩、いないんですか」
「いません。あの日、十九層に入ったのはあの人一人です」
事務所が静かになった。下の通りで、誰かが自転車のスタンドを蹴る音がした。
「うちも協会に聞いたんですよ」リーダーが続けた。「そしたら、別クランの探索者を庇ったって説明でした。名前は個人情報だから出せないと」
「確認は」
「できませんよ。そんなの」
◇
装備の台帳を見せてもらった。
三年前六月十一日。泊玲司が事務所から持ち出したものの記録である。
ロープ二本。照明。行動食。
確保器の欄が、空白だった。
「あの人の確保器は、返却されてるんですね」
「返してます。前の日に」
リーダーが台帳の前のページをめくった。五月三十日、返却の記録がある。規格A、特注品。十一年使っていた道具である。
「返して、自分のを持って行きました。私費で買ったやつです。規格C」
「なぜですか」
「分かりません。聞いてないので」
ロープ二本というのも、綿貫は気になった。単独で入るなら一本で足りる。二本要るのは、支点を二つ取るときか、荷重を分散させるときである。
台帳の最後の行に、もう一つ記載があった。
『携行記録器 二台 持出』
綿貫はその行を三度読んだ。
一台は協会提出用。もう一台は自分用。
自分用の記録は、後輩に貸すために取っていた。
三年前の六月十一日、泊玲司には貸す相手がいない。単独である。
それでも、二台持って行った。
◇
帰りの電車で、陣内が窓の外を見ながら言った。
「協会の誰に会いに行ってたんでしょうね」
綿貫はポケットから付箋を出した。
三年前、五月二十七日。十三時四十分。
陣内が受け取って、日付を読んだ。そして、その手が止まった。
「これ」
「私です」
綿貫は窓の外を見た。
「会いに来て、会えずに帰っています」




