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第22話 全部読んでいる

「座りなさい」


「本部長からお呼びとは、思いませんでした」


「十九年で、初めてかな」


久我は書類を見ずにそう言った。


七月四日。梅雨が明けて、窓から入る光が強い。協会本部十二階の執務室は、ブラインドを半分下ろしてあった。床に細い縞ができている。


七月一日付で、陣内は広報部に戻っている。綿貫は安全管理本部の書類審査担当として、二階の大部屋に机を一つ持っていた。月に三十件の書類をチェックする仕事である。現場には行かない。


廃止は次年度四月一日付だが、実務は先に動く。分室の書架はもう空で、段ボール二十四箱は総務の倉庫に積んである。書類審査の机には、電話とパソコンしかない。番号札も、巻尺も、置く理由がなかった。


「常磐に行ったそうだね」


久我はそう切り出した。


「はい」


「先方から協会に連絡が来た。登録クランだからな。協会の職員が来たとなれば、報告が上がる」


「そうですか」


「監視しているわけではない。そういう仕組みになっているというだけだ」


彼は湯呑みを持ち上げた。中身は麦茶らしい。


「用件は、それだけですか」


「それだけだ。確認した。以上」


久我は湯呑みを置いた。


置いてから、動かなかった。



綿貫は立たなかった。


十九年、この人と四十一回対立してきた。呼び出されたのは三度目である。前の二度は、部署の廃止案と、異動の打診だった。どちらも断った。断ったあとも、この人は同じ態度で接してきた。


聞くなら、今しかない。


十九年、聞かなかった。聞けば、答えが返ってくる。返ってきた答えが「読んでいない」なら、その先を続ける理由がなくなる。読まれていないと確認してしまえば、書く意味が消える。


確認しないことで、彼は十九年書いてきた。


「一つ、伺ってもよろしいですか」


「どうぞ」


「私の報告書を、一度でも読まれたことはありますか」


ブラインドの縞が、机の上でゆっくり動いた。雲が動いているのだと思う。


久我は答えなかった。


立ち上がって、壁のキャビネットのほうへ歩いた。鍵を出す。上着の内ポケットから出したので、常に持ち歩いているものらしい。


鍵が回った。


扉が開いた。



背表紙が並んでいた。


灰色。番号だけが打ってある。上から下まで、四段。奥行きの深いキャビネットで、手前と奥の二列に詰めてある。


綿貫は座ったまま、それを見た。


見て、番号を読んだ。


001から始まっている。


新藤克巳。十九年前の十月。書庫の一番下の段にあるものと、同じ番号である。


「君の報告書は、全部読んでいるよ」


久我は振り返らなかった。


「十九年ぶんだ。四百十二通。抜けはない」


彼は手前の一冊を抜いて、机に置いた。


綿貫は開かなかった。


久我が代わりに開いた。


余白に、書き込みがある。日付。疑問符。他の事案の番号。細かい字で、行間に入りきらない部分は付箋に書いて貼ってある。付箋の色が三種類あって、使い分けているらしい。


綿貫は書き込みの一つを読んだ。彼が第三節に書いた荷重の記述の横に、別の事案の番号が二つ書いてある。二つとも、彼が四年前と七年前に書いた案件である。


繋げて読んでいる。


十九年、綿貫は一件ずつ書いてきた。並べて読んだのは、今年の三月に陣内が「全部見せてください」と言ってからである。


この人は、最初から並べて読んでいた。


「協会の経費では落ちない。写しを取るのは、私費だ」


久我は次のページをめくった。


「月に三十通前後。読むのに二時間ほどかかる。二十年近くやっていると、癖になる」


綿貫は動かなかった。


十九年、彼は同じことを考えてきた。読まれていないから採用されない。読まれれば分かるはずだ。分かれば、何かが変わるはずだ。


その前提が、今、目の前で消えた。


「……では、なぜ」


声が出るまでに、少しかかった。


久我はファイルを閉じた。


「読んだ。そのうえで、採用しなかった」



「十七年前の数字を、君は知っているな」


「規制強化の年です」


「無登録潜行での死者が、年間二百十一人。今は六十人だ」


久我は椅子に戻った。座り方が、少し重くなった。


「稼働を止めれば、下請けの仕事が止まる。仕事が止まった人間は、登録の要らない場所に潜る。装備の点検も、二人一組も、深度制限もない場所だ。そこで死んだ人間は、統計にすら入らない」


「はい」


「君は四十一人を数えている。私は百五十人を数えている」


「その百五十人と、この四十一人は、別の人間です」


「そうだ」


久我は否定しなかった。


「別の人間だ。私は選んでいる」


言い切った。逃げなかった。


十九年、綿貫はこの人が言い訳をするところを見たことがない。手続きで差し戻し、正論で封じ、そのすべてを自分の名前で行ってきた。


「選ぶ権利は、誰にもありません」


言ってから、綿貫は自分の声が低くなっているのに気づいた。


久我が、そこで初めて呼び方を変えた。


「綿貫さん」


十九年、彼はずっと「綿貫くん」だった。


「あなたは、選ばない権利があると思っているのか」



答えられなかった。


選ばなければ、四十一人は救えたかもしれない。そのぶん稼働は止まり、別の人間が別の場所で死んだ可能性もある。数は分からない。二百十一人という数字だけが、記録に残っている。


十九年、彼はその数字に反論する材料を持ったことがない。


「私の勧告は、四十一件です」


代わりに、彼はそう言った。


「四十一件のうち、二十三件が装備に言及しています。そのうち十九件が規格Cです。規格Cには、動荷重の試験基準がありません」


「知っている」


「六年前に、追加の提案がありました。三回」


「私が返した」


久我は隠さなかった。


「費用対効果、事故の実績、業界の協調。三回とも、私が理由を書いた」


「事故は、起きていました」


「起きていた」


「では、なぜ」


「そのときは、装備に起因すると分類されていなかったからだ」


久我は湯呑みを持ち上げて、飲まずに置いた。


「分類は、認定をした人間が付ける。認定は安全管理本部が行う。私の部署だ」


コードは十七年前に作られた。当時、事故を分類する仕組みが必要になり、区分と番号が決められた。決めたのが誰かは、公文書に残っている。


聞くまでもなかった。


彼はそこで、初めて綿貫から視線を外した。



十五時を過ぎていた。


「以上でよろしいですか」


「もう行きなさい」


綿貫は立ち上がった。


キャビネットは開いたままである。四百十二冊の背表紙が、ブラインドの縞の中にある。


立ったまま、彼は番号を目で追った。


十九年ぶん。年ごとに厚みが違う。忙しかった年と、そうでない年が、背の幅で分かる。この人は、それも知っているのだと思う。


三年前の段。


六月の位置。


一冊だけ、色が違って見えた。


正確には、色ではない。他の四百十一冊には、背表紙の上端に付箋の端が出ている。読み終えたときに貼るものらしい。


その一冊にだけ、付箋がない。


綿貫はそちらへ一歩、体を向けた。


久我が立ち上がった。


キャビネットの扉に手をかけて、閉めた。鍵は回さなかった。回す必要がなかった。閉めれば、それで終わりである。


「本部長」


「もう行きなさい」


久我は扉に手を置いたままだった。


綿貫のほうを見ずに、言った。


「一件だけ、私は間違えたかもしれない」



廊下に出て、非常階段の踊り場まで歩いた。


七月の階段は暑い。鉄の手すりが日を吸って、触ると熱かった。


綿貫は壁にもたれた。


四百十二通。全部、読まれていた。


十九年、彼は読まれない文章を書いてきたと思っていた。書き方が悪いのかもしれないと思った時期もある。もっと短くすれば、もっと図を入れれば、もっと感情を抜けば伝わるのかもしれないと。


読まれていた。


余白に書き込みがあった。付箋が三色に分けてあった。二時間かけて読まれていた。


読まれて、採用されなかった。


彼は自分の手を見た。それから、上着のポケットに入れたままの付箋を出した。


三年前、五月二十七日。


十二階のキャビネットの中に、書き込みのない一冊がある。


背表紙の日付は、三年前の六月だった。


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