第23話 石灰質ではない泥
「弟の荷物、見てもらえませんか」
ドアの外に、三嶋果穂が立っていた。
段ボールを二つ持っている。腕が下がっているので、重いのだと分かった。七月十一日。猛暑の日で、川口のアパートの外廊下は日が当たる。彼女の額に汗が浮いていた。
「どうして」
「私、あの日、サインしたって言いましたよね」
十週間ぶりだった。
「入ってください」
言ってから、綿貫は自分の部屋を思い出した。六畳一間で、床が段ボールで埋まっている。分室から持ち帰った私物と、写しの束と、業務ではない作業の途中のものが積んである。人を入れたことがない。
果穂は靴を脱いで、段ボールを置く場所を探した。置く場所がなかった。
彼女は玄関に置いた。
部屋の壁際に、分室から運んだ箱が四つ積んである。総務の倉庫に入りきらなかったぶんである。その上に、二十三件の写しを綴じた背表紙のないファイルが載っていた。業務ではないので、置き場所も業務外になる。
◇
「保険金、振り込まれたんです」
彼女は台所の前に立ったまま言った。座る場所も、あまりない。
「五月の末です。通帳を見て」
そこで一度、言葉が止まった。
「金額が、書いてありました」
綿貫はやかんを火にかけた。麦茶を作るつもりだったが、麦茶のパックがなかった。火を止めて、水を出し、コップを二つ洗った。洗剤の匂いが指に残る。
三割という数字を、彼は四十一回書類の上で見ている。書類の上では一行である。振り込まれた金額として通帳に載ると、行ではなくなる。
「三割減った、あとの金額です」
「はい」
「弟の値段が、はっきり書いてあるんです。数字で」
彼女は自分の手を見た。
「あの日、綿貫さんに来ないでくださいって言いました。生活があるって。……その生活のために、いくらもらったのかが、通帳に載ってて」
外で蝉が鳴きはじめた。今年初めて聞いた気がする。
「三か月、段ボールを開けられませんでした」
「はい」
「先週、開けたんです」
彼女は玄関のほうを見た。
「開けたら、何を見ればいいのか分からなくて」
◇
段ボールの一つ目には、衣類が入っていた。
作業着が三着。下着。タオル。悠のアパートを引き払ったとき、彼女がまとめたものである。
「見方を教えます」
綿貫はそう言った。
十九年、彼はこれを誰かに教えたことがない。教える相手がいなかった。陣内には手順を教えたが、あれは職員に対する引き継ぎである。
遺族に、遺品の読み方を教える様式は、協会に存在しない。
「まず、洗ってあるものと、洗っていないものを分けてください」
「はい」
「洗ってあるものは、その人が普段どう使っていたかが残ります。洗っていないものは、最後に何をしたかが残ります」
果穂は作業着を一枚ずつ広げた。
「装備の摩耗は、癖を残します。同じ場所ばかり擦れているなら、同じ動作を繰り返していたということです。行動食の減り方は、計画を残します」
「弟が、何を考えてたかも分かりますか」
「分かりません」
彼女が顔を上げた。
「何をしていたかだけです。何を考えていたかは、物には残りません」
果穂は、しばらくそのまま綿貫を見ていた。
「そうですか」
そう言って、また作業着に戻った。
その受け取り方を、綿貫は三月から何度も見ている。彼女は言われたことを、いったん全部同じ場所に置く。置いて、あとで一人で開ける。開けたときに何が起きるかは、こちらからは見えない。
通帳を見て動けなくなった三か月が、たぶんそれだった。
◇
三着目の裾に、染みがあった。
洗濯してある一着である。何度か洗ったらしく、繊維が毛羽立っている。それでも落ちきっていない。
裾の折り返しの内側。
赤褐色だった。
綿貫は動きを止めた。
立ち上がって、机の引き出しから手帳を出す。三月のものである。ページを繰った。
三月七日。
『砂子悌 作業靴 泥 赤褐色 —— 第七区画十二層 石灰質(白)』
四か月、この一行は手帳の中にあった。意味を書かなかったのは、意味が出なかったからである。靴に泥がついている。色が違う。それだけでは、どこの泥かまでは言えない。
比べる相手が、今、床の上にある。
彼はその行を、果穂に見せなかった。代わりに、パソコンを開いた。
協会の公開資料。首都圏各区画の地質調査報告。第七区画の項目を出す。
層ごとの土質が、表になっている。
十二層。石灰質。白色系。
彼は上へスクロールした。
八層。粘土質。赤褐色。
◇
「弟さん、事故の前日はどこにいましたか」
「前の日ですか」
「はい」
果穂は少し考えた。
「普通に出かけました。朝、七時くらいだったと思います。夜は、いつもより早く帰ってきました」
「何か言っていましたか」
「疲れたって。それだけです」
彼女は作業着を持ち上げた。
「これ、その日の分だと思います。前の日に洗って、干して、事故の日は別のを着ていったので」
「間違いありませんか」
「たぶん。……洗濯機を回した日は、覚えてます。あの日、私が回したので」
綿貫は表を見た。
赤褐色の粘土質が出るのは、第七区画では八層だけである。
砂子の靴と、悠の作業着。二人とも、同じ色の泥をつけている。同じ日に同じ場所へ入ったなら、当然そうなる。
「三嶋さん」
「はい」
「事故の前日、弟さんは第七区画の八層に入っています」
「そうなんですか」
「八層は、規制解除の審査が保留中の区画です。稼働許可が下りていません」
果穂の手が止まった。
「入っちゃいけないところってことですか」
「そうです」
「じゃあ、弟が悪いってことに」
「なりません」
綿貫はパソコンの画面を彼女のほうへ向けた。
「E級の探索者に、入る区画を選ぶ権限はありません。仕事を受けるか、断るかだけです。断れば、次の仕事が来ません」
彼はもう一つの窓を開いた。第七区画の稼働情報である。三月の日付を出す。
八層は、今も審査保留のままだった。
「入れたのは、下請けに仕事を出した側です」
八層の審査が保留のまま四か月動いていないのは、資源の見込みが立っていないからである。見込みが立たない区画に人を入れるのは、下見のためだ。下見の結果が良ければ、正式に申請する。
申請する前に人が死ぬと、下見をしていた事実そのものが消える。
◇
行動食が四食分、残っていた。
三月に、綿貫はその意味を保留にしている。長く潜るつもりのない人間の持ち方である、というところまでは分かっていた。なぜ短い予定で十二層まで行ったのかが、分からなかった。
今は分かる。
彼らの予定は、八層の続きだった。短時間の作業のはずだった。それが十二層に変わっている。当日に変わったのだと思う。
だから食料が足りている。
「もう一つ、伺います」
綿貫は携行記録器のデータの写しを開いた。三月に解析したものである。
「弟さんの記録に、装備の消費電力が残っています」
「はい」
「照明の同時点灯数です」
彼は数字を指した。
「入場記録は二名です。弟さんと、砂子さんの二人」
「はい」
「照明は、三つ点いています」
果穂が画面を覗き込んだ。
「予備、かもしれません」
綿貫はそう付け加えた。付け加えないと、断定になる。
「そうですね」
彼女はそう答えた。
二人とも、そうは思っていなかった。
◇
蝉の声が、日が傾くにつれて数を増した。窓を開けているので、部屋の中まで入ってくる。
日が傾いて、壁の段ボールが赤くなった。
果穂は二つ目の段ボールを開けていた。中身は書類と、細々したものである。カタログ、保証書、領収書の束。
「これ、どうしましょう」
「私が見ても構いませんか」
「お願いします」
彼女はそう言って、少し黙った。
「あの、綿貫さん」
「はい」
「調べてください」
綿貫はカタログの束から手を離した。
「私には、もう権限がありません」
「知ってます。部署がなくなったって、新聞に小さく出てました」
彼女は玄関のほうを見た。段ボールが二つ、置いてある。
「でも」
彼女は言った。
「私にはあります。遺族ですから」




