第24話 稼働再開
「サンプル採取ですね。二時間で出てください」
「稼働は」
「今日は止まってます。安心してください」
管理棟の受付にいた若い職員は、名簿に判を押してそう言った。彼の手元にある入退場の端末は、画面が消えている。
七月十五日、九時。朝から気温が上がっていて、プレハブの中は既に暑い。扇風機が一台、首を振っていた。
綿貫が持っているのは、書類審査担当としての申請書である。第七区画八層の土質サンプル採取。目的欄には「規格再検討に係る参考資料の作成」と書いた。嘘ではない。土を持ち帰るのは事実だった。
四か月ぶりの現場である。
同行者はいない。陣内は広報部にいて、平日の午前に抜けられない。室岡は総務に移った。申請は一人分しか通らなかった。
「気をつけてくださいね」
「はい」
金網を抜けて、ゲートへ向かった。
◇
八層まで、降下路を二十五分。
区画の中の空気は、地上より涼しい。湿度は高い。石灰質の匂いが鼻の奥に来る。
四か月前、ここで人が死んだ。
その現場は十二層で、今日行くのは八層である。層が違えば土も匂いも変わる。八層の壁は赤みが強く、足元の土が柔らかい。踏むと、靴底に粘る感触があった。
入口で、綿貫は一分立った。
誰も見ていない。それでも同じことをする。
天井の稜線を目でなぞる。次に床。奥へ。手前へ。壁の窪み。
スケッチブックを出して、線を引いた。
膝は文句を言わなかった。四か月ぶりだが、下りる速さは以前と変わらない。
◇
作業跡は、思ったより広かった。
八層の再構成周期は二十四時間である。三月の痕跡は、とうに消えている。地形は元に戻り、足跡もない。
残っているのは、人が持ち込んだものだけだった。
岩の隙間に、銀色のものが挟まっている。
使い捨ての照明の電池パックだった。取り出して、番号を確認する。製造ロットと、封入日が印字されている。
三月三日。
もう一つ、二メートル離れた場所にあった。同じロット、同じ日付。
三つ目は、壁の窪みに落ちていた。
同じ日付である。
綿貫は三つを並べて、写真を撮った。番号札がないので、手帳を切って代用した。
三つ。
入場記録は、二名である。
彼は三つ目を手に取って、印字を読んだ。
メーカーが違う。他の二つは市販の汎用品で、これだけが大手クランの支給品ロットだった。刻印にクランの略号が入っている。
◇
十時三十分。
出口へ戻る通路の途中で、足元が震えた。
綿貫は立ち止まった。
震動が続いている。低い。区画の稼働に伴うものだった。掘削と搬出が始まると、この震え方をする。
止まっていると聞いた。
彼は端末を出した。圏外である。区画の中では当然だった。
震動が強くなった。
天井から、細かい砂が落ちてきた。ヘッドランプの光の中で、粉が斜めに流れる。
彼は壁際に寄った。
音がした。
短くはない音である。岩が一度に落ちるのではなく、順に落ちる。手前から奥へ、崩れていく音が続いた。
通路が塞がった。
砂埃が引くまで、二十秒ほどかかった。
◇
綿貫は、まず時計を見た。
十時三十四分。
次に、自分の位置を確認した。塞がったのは出口側である。反対側は十二層へ下る通路で、そちらは開いている。
彼は動かなかった。
二十五年前、C級の講習で最初に習ったことがある。区画内で退路を失ったとき、動くと死ぬ。動かなければ、たいてい助かる。理由は簡単で、区画は再構成するからである。二十四時間待てば、崩れた岩は元の位置に戻る。
八層の周期は二十四時間。
三時間から四時間で、探索者は入れるようになる。
彼はヘッドランプを一つ消した。二つ持ってきているが、点けるのは一つでいい。残量は八時間ぶんある。
壁に沿って座った。
背中の岩が冷たい。石灰質の粉が、口の中で少し苦い。
それから、手帳を出した。
◇
『10:34 震動発生 間隔約八秒 三回』
『10:35 天井剥離 手前から奥 剥離音なし』
『10:36 砂埃 視界二メートル 粉塵は石灰質』
彼は書いた。
ペンを持つ手が、少し震えている。それも書いた。
『10:38 筆記時の手の震え 軽度』
震えは事実である。事実は書く。
十九年、彼は現場で起きたことを書いてきた。書くのは、あとで誰かが読むためである。読む人間がいるかどうかは、書く側の判断することではない。
十一時を過ぎた。
震動は止んでいる。稼働が止まったのか、区画の別の場所で続いているのかは分からない。
彼は巻尺を出した。
通路の幅を測った。二メートル十四。
測る意味はない。塞がった通路の幅を知っても、出られるようにはならない。
それでも測って、書いた。
『11:12 通路幅 二一四センチ』
六十センチ付近の目盛りは読めない。いつものように、指で押さえて位置を覚えた。
◇
助けが来たのは、十三時四十分である。
三人だった。協会の現地担当と、事業推進本部の職員が二人。
「綿貫さん! いますか!」
「います」
岩の向こうから、声が届いた。
「今、機械入れてます。三十分待ってください」
「分かりました」
「怪我はないですか」
「ありません」
「動かないでください。そこにいてください」
「動いていません」
若い声だった。急いでいるのが分かる。急いでいる人間に向かって、綿貫が返せることは一つしかない。
彼はそのまま座っていた。
出られると分かってから、手帳をもう一行足した。
『13:40 救助の呼びかけを確認』
十三時四十分という時刻を、彼は最近どこかで見ている。
三年前の付箋である。
◇
十四時二十分に、通路が開いた。
管理棟に戻ると、若い職員が真っ青な顔で立っていた。
「すみません、本当に、すみません。今朝、稼働再開の決裁が下りてて、それが、連絡が」
「稼働の予定は、いつ決まりましたか」
「今朝の八時です。八時に決裁が下りて、九時半から機械を入れました」
「私が入ったのが九時十分です」
「はい。……名簿に、判、押しました。押したのに」
「連絡先は」
「関係部署に一斉配信されるんですけど、災害調査室が、その、リストから」
彼はそこで言葉に詰まった。
「外れてました」
四月に廃止が決まって、六月に通知が出た。配信リストの更新は、たぶん七月の頭に行われている。悪意はない。誰かが名簿を整理して、無くなる部署を消しただけである。
「誰が、私がいることを気づいたんですか」
「電話がありました。十二時過ぎに」
「どちらから」
「ご遺族の方です。三嶋様と」
職員は名簿を見た。
「情報公開請求の進捗を聞きたいって電話で、そのとき、今日は綿貫さんが第七区画に入ってますよねって言われて。それでこっちが確認して、稼働の記録と突き合わせて」
綿貫は、しばらく何も言わなかった。
「そうですか」
「あの、綿貫さん」
「はい」
「本当に、すみませんでした」
「あなたのせいではありません」
言ってから、綿貫は六月にも同じ言い方をしたことを思い出した。あのときは、相手にとって欲しくない言葉だった。
今度は、この職員は頭を下げた。下げたまま、しばらく上げなかった。
◇
管理棟の外に、女が一人立っていた。
三十そこそこ。ノートパソコンの入った鞄を肩にかけている。三月の会見室で、八人目に手を挙げた記者である。
「柏木です」
「取材はお断りします」
「知ってます。今日は謝りに来ました」
彼女は日陰に入らなかった。日向に立ったまま話しはじめた。
「三月の記事です。あれ、協会の広報から資料をもらって書きました」
「はい」
「渡してきた人は言えません。それは、勘弁してください」
「はい」
「ただ」
柏木は鞄の持ち手を握り直した。
「渡された資料、あなたの報告書の抜粋でした。三段落だけ抜いてあって、前後がありませんでした。私、それを確かめずに書きました」
「そうですか」
「抜き方が、恣意的でした」
彼女はそう言った。
「あれを渡した人は、報告書を読んでます。読んで、どこを抜けば意味が変わるか分かってて抜いてます」
蝉が鳴いていた。プレハブの屋根が日を反射して、目に痛い。
「一点だけ」
柏木が言った。
「あなたの報告書、全部読ませてもらえませんか」
「非公開です」
「知ってます」
彼女は綿貫を見た。
「今度は、私が確かめます」




