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第25話 提出されなかった報告書

「あの日、もう一人、稟議を上げた人がいます」


電話は、前置きなしで始まった。


「黒石さんですか」


「私と同じ日に、協会側から。探索者からの意見具申でした」


七月二十二日。朝から気温が上がっている。綿貫は書類審査の机で、月次の点検記録を三十件処理する途中だった。肋骨が痛む。先週の崩落で打った場所である。医者には行っていない。


「十一時以降なら、家にいます」


電話が切れた。


彼は年休を取った。書類審査の職員が午前中に年休を取っても、誰も困らない。



黒石ゆかりの部屋は、五月末と同じだった。


テーブルに、古い書類の束が出してある。彼女は麦茶を注いで、今日も自分の分を飲まなかった。


「六年前、三回目の稟議を出した日です」


彼女は一枚の紙を出した。


協会の窓口の受付簿の写しである。社外の提出者が使う窓口で、受付順に番号と件名が並んでいる。


「私のが、二十七番です」


その一つ下。


二十八番。


『多人数確保退避手順に係る装備要件について』


提出者の欄。


『泊 玲司』



「同じ日ですか」


「同じ日です。私が三回目を差し戻された、その日に」


黒石は麦茶のコップを見ていた。


「私、これを四年前に見つけました。会社を辞める整理をしてるときに、控えの束の中から出てきて」


「見つけて、どうされましたか」


「何もしていません」


彼女はそう答えた。


「あの人がS級だってことは知ってました。だから、S級が同じことを言ってるなら、いずれ通るんだろうと思って」


外で蝉が鳴いている。マンションの六階まで届く音だった。


「一年後に、亡くなりました」


彼女はコップから手を離した。


「そのときに、思ったんです。私は、味方が一人いたのを、一年知らずにいたんだって」


綿貫は受付簿の写しを見ていた。


「証言します」


黒石が言った。


「五月に、まだ、って言いました。もう、まだじゃないので」


「どこで、ですか」


「どこでも。あなたが必要な場所で」


「まだ、そういう場所がありません」


「作ってください」


彼女はコップを片づけた。


「私、四年間、作らなかったんです。作れなかったんじゃなくて、作らなかった。……それが何なのかは、自分でよく分かってます」


「はい」


「だから、あなたが作るなら出ます。それだけです」


「ありがとうございます」


「礼はいりません。四年遅いので」


彼女は台所へ行って、コップを洗いはじめた。会話が終わったという合図だった。



協会本部の文書管理課は、地下一階にある。


閲覧室は六畳ほどで、窓がない。空調の音が大きい。机が二つと、椅子が四脚。


綿貫は請求書を出した。


三年前六月十一日、第七区画十九層、泊玲司の死亡事象。その報告書の添付資料一式である。


「これ、綿貫さんが書かれたやつですよね」


窓口の職員が確認した。三十代の女性で、面識がある。十九年、この課には何百回も来ている。


「そうです」


「じゃあ、大丈夫です。ご自分の文書の添付は、閲覧できます」


彼女は端末を叩いた。


「あ」


「何かありますか」


「目録に、一点だけ、変なのがあります」


「どう変ですか」


「受理番号がないんです。添付の目録に載ってるのに、受理されてない。……こういうの、たまにあるんですけど、普通は目録から落とすんですよ」


「落ちていない」


「落ちてません。誰かが、載せたまま残してます」


彼女はそこで一度、端末から目を離した。


「取ってきますね」



十五分後、彼女が段ボール箱を持ってきた。


添付資料一式。写真、回収品目録、現場図、証言記録。


その一番下に、クリアファイルが一枚。


目録には、こう記載されている。


『多人数確保退避手順の運用に係る検証結果について(案)/提出者 泊玲司/未受理』


受理日の欄が空白だった。決裁欄も空白である。


代わりに、右上に印が一つ押してある。


『保留』


その下に、小さく決裁の略号。


綿貫は上着から巻尺を出した。金属の帯を引き出して、印影の横に立て、天井の照明を反射させる。角度を変えた。


読めた。


久我である。


日付は、三年前の七月。


泊玲司が死んだ、翌月だった。



クリアファイルの中身は、六枚あった。


手書きではない。ワープロで打たれている。書式は協会の意見具申の様式に沿っていた。


綿貫は読んだ。


一枚目。


『多人数確保退避手順(以下、本手順)は、複数名を確保で接続したまま後退する方法である。落伍者が生じた場合も接続を維持する点が、従来手順との差である』


二枚目。


『本手順の実行時、落伍者の落下により発生する衝撃荷重は、確保支点に集中する。私が五年前に本手順を実行した際、私が使用していた確保器は規格A(保証荷重二十二キロニュートン)であった』


三枚目。


『規格Cの保証荷重は九キロニュートンである。体重七十キログラムの探索者が一メートル落下した場合、確保支点に生じる衝撃荷重は、条件により九キロニュートンを超える』


四枚目。


『本手順の標準化以降に発生した死亡事故のうち、私が確認できた二十件を検討した。うち十六件が、規格Cの確保器を使用し、本手順の記録を残している』


綿貫は、そこで手を止めた。


自分が二十三件を数えたのは、今年の三月である。この人は、三年前に二十件を数えている。


五枚目。


『本手順は有効である。ただし、それは私の装備を前提としている』


その下に、一行あけて、こう書いてあった。


『私は、それを言わずに広めました』



六枚目。


『本件については、実証が必要である。理論値のみでは、規格の改定を求める根拠として不十分と考える』


『よって、規格Cの装備を用いて、当該条件を再現する』


『結果は追記する』


そこで、文章が終わっていた。


追記は、ない。


綿貫は六枚を机の上に並べた。閲覧室の空調が、天井のどこかで鳴っている。


実証が必要である、と彼は書いた。


理論値では足りない。数字を並べても、規格の改定は動かない。それは、綿貫が四百十二通で経験してきたことと同じである。この人も、同じ結論に辿り着いていた。


辿り着いたあとの選択が、違った。


三年前の六月十一日。泊玲司は、私費で買った規格Cの確保器を持ち、規格Aの特注品を事務所に返し、携行記録器を二台持って、単独で十九層に入った。


一台は記録用。


もう一台も、記録用である。


追記するはずだった。



一枚目の右下に、作成日が入っている。


綿貫は、そこを最後に見た。


『三年前 五月二十六日』


彼は上着のポケットに手を入れた。


付箋を出す。三年経って茶色くなった紙である。


『13:40 泊玲司様 来訪 またお伺いしますとのこと』


日付は、三年前の五月二十七日。


作成日の、翌日だった。



閲覧室の椅子に、綿貫は座ったままだった。


書いた翌日に、この人は川口の分室に来ている。


協会に出しても受理されないことを、たぶん分かっていた。分かっていて、それでも出す前に、誰かに読ませようとした。


読ませる相手として選ばれたのが、四百十二通書いて一度も採用されたことのない男である。


協会で、その報告書を読む人間は誰もいないと思われていた。


だから選ばれた。


十三時四十分。彼は分室に来て、綿貫がいないと知って、受付に伝言を残して帰った。またお伺いします、と。


来なかった。


十五日後に死んだ。



閲覧室の閉室は十七時である。


十七時十分に、窓口の職員が声をかけに来た。


「綿貫さん。すみません、そろそろ」


「はい」


彼は立ち上がった。


椅子を戻すのを、忘れた。


十九年で、一度もなかったことである。


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