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第26話 最後の三十秒

「また来たのか」


「はい」


砂子悌はドアを開けたまま、綿貫の手元を見た。


「今日は、何も持ってきてないのか」


七月二十九日。夕方の十七時で、まだ明るい。草加のアパートの外階段に、日が斜めに当たっている。蝉が鳴いていた。この時期の夕方は、暑さが下がらない。


綿貫の手には、鞄も、封筒も、資料もない。


上着のポケットに、携行記録器が一つ入っているだけである。


「聞いてほしいものがあります」


「何だよ」


「それだけです」


砂子は何か言いかけて、やめた。


四月に、この男は綿貫の胸倉を掴んだ。手を上げて、途中で止めた。あのとき綿貫は資料を持ってきていた。時刻のズレを突きつけて、答えを取りに来ていた。


今日は、何も要求していない。


要求されていない人間は、追い返す理由を作れない。


四月に一度、綿貫はやり方を間違えている。果穂に拒まれた日の午後で、順番を守らずに来た。守らずに来ると、相手は身を守る側に回る。身を守っている人間から、何かを取ることはできない。


今日は、取りに来ていない。



外階段の踊り場で、綿貫は携行記録器を出した。


「三嶋悠さんの記録です」


砂子の顔が、そこで動いた。


「協会から写しをもらいました。遺族の方が請求されて、その控えです」


「なんで、あんたが持ってんだよ」


「三嶋果穂さんに預かりました」


砂子は手すりに手を置いた。爪の先が白くなっている。


「最後の三十秒です」


綿貫は再生ボタンに指を置いた。


「聞かなくていいなら、帰ります」


砂子は何も言わなかった。


綿貫は待った。


一分ほど、二人とも動かなかった。階段の下を、自転車が通っていった。


砂子が、階段の段に座った。


綿貫は再生ボタンを押した。



最初に入るのは、崩落の音である。


低い。連続している。岩が順に落ちる音で、綿貫は先週、同じ音を八層で聞いた。


それから、若い声がした。


『確保、維持します』


短い。落ち着いている。焦っている人間の声ではない。手順書を読み上げるときの、平坦な調子だった。


金属が擦れる音。確保器にロープが通る音である。四か月前、綿貫は同じ型の金具でこの音を聞いた。


『手、離さないでください』


その声は、下に向かって言っている。上ではない。上には誰もいない。


砂子が、両手で顔を覆った。


『大丈夫です』


若い声が続けた。


『規定荷重内です』


規定荷重内。


九キロニュートン。刻印にそう書いてある。書いてあるものを、この青年は信じた。訓練でそう習い、手順書にそう書いてあり、支給された道具にそう刻印されていた。


信じた人間が、間違っていたわけではない。


音が変わった。


短くて高い音である。金属が、一度に降参する音だった。三月に、綿貫は分室の裏の空き地で、同じ音を聞いている。


そのあと、何もない。


記録は、そこで終わっている。



蝉が鳴いていた。


綿貫は再生を止めて、記録器をポケットに戻した。


砂子は顔を覆ったままだった。階段に座り込んで、膝の上に肘をついている。


長い時間が経った。


「手え」


声が、掠れていた。


「手え、離してくれなかったんだよ、あいつ」


綿貫は何も言わなかった。


「俺が落ちて、五メートル下の斜面で止まって。上見たら、あいつが確保器のとこにいて、俺のロープ握ってて。離せって言ったんだよ、俺。何回も」


砂子は顔を上げなかった。


「離せば、あいつは助かってた。俺が落ちるだけで済んだ。五メートルだぞ。斜面だし、俺、肋骨三本で済んでんだよ」


蝉が鳴いている。


「離さないから、切れたんだ」



「なんで嘘をついたんですか」


聞かないつもりだった。


聞かなくても、砂子は喋るかもしれない。喋らなければ、それでもいい。今日は聞きに来たのではなく、聞かせに来たのだから。


それでも、口が動いた。


砂子は、しばらくして手を下ろした。目が赤い。


「前の日、八層に入ってた」


「はい」


「知ってんのか」


「今週、確認しました」


「そうか」


彼は膝に肘をついたまま、話しはじめた。


「大手の下請けで、下見だった。許可、下りてないの、俺も知ってた。悠には言ってない。あいつ真面目だから、知ったら断る」


「はい」


「当日、十二層に回された。前の日の続きだと思ってたのに、朝になって場所が変わって。俺は文句言ったよ。E級連れて十二層は無理だって。そしたら、じゃあ他に回すって」


蝉の声が、少し遠くなった。


「断ったら、次から仕事が来ない」


「はい」


「あいつは、何も知らねえで来たんだ」


十二層はE級の許可深度を七層超えている。同行者がいれば通る運用があるので、書類上は問題にならない。運用は、断れる立場の人間を想定して作られている。


断れない人間が使うと、別のものになる。


砂子は、そこで初めて綿貫を見た。


「あの日、三人だった」



「三人目は」


「知らねえ。下請けの手配してた男で、名前も本名かどうか分かんねえ。崩れたとき、そいつは先に上がってた」


「今は」


「連絡つかねえ。番号、変わってる」


綿貫は、電池パックの三つ目を思い出した。大手クランの支給品ロットである。


「聴取のとき、なんて言われましたか」


砂子は、しばらく黙っていた。


「病院に来たんだよ。協会の人が。あんた以外の」


「はい」


「無許可稼働がバレたら、下請けは登録抹消になる。俺も等級剥奪だ。もう潜れねえ」


彼は自分の手を見た。


「そのとき言われたんだ。単独ってことにすれば、あなたの登録は残りますって」


綿貫は、そこで初めて質問を挟んだ。


「誰が言いましたか」


「名前は知らねえ」


「顔は」


「覚えてねえよ。俺、あのとき肋骨三本折れてて、薬でぼーっとしてたんだ」


砂子は首を振った。


「ただ、職員証は下げてた。あんたと同じやつ」


綿貫は、それ以上聞かなかった。


聞いても、この人は答えを持っていない。持っていない答えを追い詰めて取るのは、調べることではない。


物からは、そこまでしか出ない。人からも、そこまでしか出ない。出ないものを出させようとしたときに、何が起きるかは四月に見ている。


「去年、子どもが生まれた」


砂子が言った。


「嫁が働けねえ。俺が潜るしかねえんだ」


「はい」


「……悪いと思ってねえわけじゃねえよ」


「分かりました」



帰り際、砂子が階段の下まで降りてきた。


「あんた、これからどうすんだ」


「分かりません」


「証言しろって言わねえのか」


綿貫は足を止めた。


「言いません」


「なんでだよ」


「あなたが証言すれば、あなたの登録が消えます。子どもがいる家の収入が消えます」


「……」


「私はそれを引き受けられません。引き受けられないことを、人に求めることはしません」


砂子は、しばらく綿貫を見ていた。


「変な奴だな」


「よく言われます」


「言われねえだろ、そんなに」


彼は少しだけ笑った。すぐにやめた。



電車に乗って、川口で降りた。


アパートの部屋に戻って、電気を点けた。段ボールが四つ、壁際にある。二十三件の写しを綴じたファイルが、その上に載っている。


机を出した。ノートパソコンを開いた。


新規文書。


一行目を打つ。


『第七区画十二層における墜落死亡事象について(第二報)』


そこで、指が止まった。


第二報を書けば、無許可稼働が記録に残る。砂子の等級が消える。子どもがいる家の収入が消える。


書かなければ、悠は「無理な単独潜行」のままである。


彼は画面を見ていた。


十九年、四百十二通。一行目で迷ったことはない。書くべきことは、いつも現場にあった。物証が言っていることを、そのまま順に書けばよかった。


書いた結果がどうなるかを、考えたことがなかった。考える必要がなかったからである。四十一回とも、結果は同じだった。不採用。誰も読まない。


読まれない文章は、誰も壊さない。


今も、物証は言っている。


それを書くと、生きている人間が壊れる。


彼はパソコンを閉じた。


しばらくして、また開いた。


一行目は消えていない。カーソルが点滅している。


閉じた。


三度目は、開かなかった。



部屋の電気を消した。


段ボールの間に座って、壁にもたれた。


十九年、彼は書けないと思ったことがない。読まれないと思ったことは、四百十二回ある。


書けないのは、初めてだった。


真実は、出た。


書く人間が、いなくなった。


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