第26話 最後の三十秒
「また来たのか」
「はい」
砂子悌はドアを開けたまま、綿貫の手元を見た。
「今日は、何も持ってきてないのか」
七月二十九日。夕方の十七時で、まだ明るい。草加のアパートの外階段に、日が斜めに当たっている。蝉が鳴いていた。この時期の夕方は、暑さが下がらない。
綿貫の手には、鞄も、封筒も、資料もない。
上着のポケットに、携行記録器が一つ入っているだけである。
「聞いてほしいものがあります」
「何だよ」
「それだけです」
砂子は何か言いかけて、やめた。
四月に、この男は綿貫の胸倉を掴んだ。手を上げて、途中で止めた。あのとき綿貫は資料を持ってきていた。時刻のズレを突きつけて、答えを取りに来ていた。
今日は、何も要求していない。
要求されていない人間は、追い返す理由を作れない。
四月に一度、綿貫はやり方を間違えている。果穂に拒まれた日の午後で、順番を守らずに来た。守らずに来ると、相手は身を守る側に回る。身を守っている人間から、何かを取ることはできない。
今日は、取りに来ていない。
◇
外階段の踊り場で、綿貫は携行記録器を出した。
「三嶋悠さんの記録です」
砂子の顔が、そこで動いた。
「協会から写しをもらいました。遺族の方が請求されて、その控えです」
「なんで、あんたが持ってんだよ」
「三嶋果穂さんに預かりました」
砂子は手すりに手を置いた。爪の先が白くなっている。
「最後の三十秒です」
綿貫は再生ボタンに指を置いた。
「聞かなくていいなら、帰ります」
砂子は何も言わなかった。
綿貫は待った。
一分ほど、二人とも動かなかった。階段の下を、自転車が通っていった。
砂子が、階段の段に座った。
綿貫は再生ボタンを押した。
◇
最初に入るのは、崩落の音である。
低い。連続している。岩が順に落ちる音で、綿貫は先週、同じ音を八層で聞いた。
それから、若い声がした。
『確保、維持します』
短い。落ち着いている。焦っている人間の声ではない。手順書を読み上げるときの、平坦な調子だった。
金属が擦れる音。確保器にロープが通る音である。四か月前、綿貫は同じ型の金具でこの音を聞いた。
『手、離さないでください』
その声は、下に向かって言っている。上ではない。上には誰もいない。
砂子が、両手で顔を覆った。
『大丈夫です』
若い声が続けた。
『規定荷重内です』
規定荷重内。
九キロニュートン。刻印にそう書いてある。書いてあるものを、この青年は信じた。訓練でそう習い、手順書にそう書いてあり、支給された道具にそう刻印されていた。
信じた人間が、間違っていたわけではない。
音が変わった。
短くて高い音である。金属が、一度に降参する音だった。三月に、綿貫は分室の裏の空き地で、同じ音を聞いている。
そのあと、何もない。
記録は、そこで終わっている。
◇
蝉が鳴いていた。
綿貫は再生を止めて、記録器をポケットに戻した。
砂子は顔を覆ったままだった。階段に座り込んで、膝の上に肘をついている。
長い時間が経った。
「手え」
声が、掠れていた。
「手え、離してくれなかったんだよ、あいつ」
綿貫は何も言わなかった。
「俺が落ちて、五メートル下の斜面で止まって。上見たら、あいつが確保器のとこにいて、俺のロープ握ってて。離せって言ったんだよ、俺。何回も」
砂子は顔を上げなかった。
「離せば、あいつは助かってた。俺が落ちるだけで済んだ。五メートルだぞ。斜面だし、俺、肋骨三本で済んでんだよ」
蝉が鳴いている。
「離さないから、切れたんだ」
◇
「なんで嘘をついたんですか」
聞かないつもりだった。
聞かなくても、砂子は喋るかもしれない。喋らなければ、それでもいい。今日は聞きに来たのではなく、聞かせに来たのだから。
それでも、口が動いた。
砂子は、しばらくして手を下ろした。目が赤い。
「前の日、八層に入ってた」
「はい」
「知ってんのか」
「今週、確認しました」
「そうか」
彼は膝に肘をついたまま、話しはじめた。
「大手の下請けで、下見だった。許可、下りてないの、俺も知ってた。悠には言ってない。あいつ真面目だから、知ったら断る」
「はい」
「当日、十二層に回された。前の日の続きだと思ってたのに、朝になって場所が変わって。俺は文句言ったよ。E級連れて十二層は無理だって。そしたら、じゃあ他に回すって」
蝉の声が、少し遠くなった。
「断ったら、次から仕事が来ない」
「はい」
「あいつは、何も知らねえで来たんだ」
十二層はE級の許可深度を七層超えている。同行者がいれば通る運用があるので、書類上は問題にならない。運用は、断れる立場の人間を想定して作られている。
断れない人間が使うと、別のものになる。
砂子は、そこで初めて綿貫を見た。
「あの日、三人だった」
◇
「三人目は」
「知らねえ。下請けの手配してた男で、名前も本名かどうか分かんねえ。崩れたとき、そいつは先に上がってた」
「今は」
「連絡つかねえ。番号、変わってる」
綿貫は、電池パックの三つ目を思い出した。大手クランの支給品ロットである。
「聴取のとき、なんて言われましたか」
砂子は、しばらく黙っていた。
「病院に来たんだよ。協会の人が。あんた以外の」
「はい」
「無許可稼働がバレたら、下請けは登録抹消になる。俺も等級剥奪だ。もう潜れねえ」
彼は自分の手を見た。
「そのとき言われたんだ。単独ってことにすれば、あなたの登録は残りますって」
綿貫は、そこで初めて質問を挟んだ。
「誰が言いましたか」
「名前は知らねえ」
「顔は」
「覚えてねえよ。俺、あのとき肋骨三本折れてて、薬でぼーっとしてたんだ」
砂子は首を振った。
「ただ、職員証は下げてた。あんたと同じやつ」
綿貫は、それ以上聞かなかった。
聞いても、この人は答えを持っていない。持っていない答えを追い詰めて取るのは、調べることではない。
物からは、そこまでしか出ない。人からも、そこまでしか出ない。出ないものを出させようとしたときに、何が起きるかは四月に見ている。
「去年、子どもが生まれた」
砂子が言った。
「嫁が働けねえ。俺が潜るしかねえんだ」
「はい」
「……悪いと思ってねえわけじゃねえよ」
「分かりました」
◇
帰り際、砂子が階段の下まで降りてきた。
「あんた、これからどうすんだ」
「分かりません」
「証言しろって言わねえのか」
綿貫は足を止めた。
「言いません」
「なんでだよ」
「あなたが証言すれば、あなたの登録が消えます。子どもがいる家の収入が消えます」
「……」
「私はそれを引き受けられません。引き受けられないことを、人に求めることはしません」
砂子は、しばらく綿貫を見ていた。
「変な奴だな」
「よく言われます」
「言われねえだろ、そんなに」
彼は少しだけ笑った。すぐにやめた。
◇
電車に乗って、川口で降りた。
アパートの部屋に戻って、電気を点けた。段ボールが四つ、壁際にある。二十三件の写しを綴じたファイルが、その上に載っている。
机を出した。ノートパソコンを開いた。
新規文書。
一行目を打つ。
『第七区画十二層における墜落死亡事象について(第二報)』
そこで、指が止まった。
第二報を書けば、無許可稼働が記録に残る。砂子の等級が消える。子どもがいる家の収入が消える。
書かなければ、悠は「無理な単独潜行」のままである。
彼は画面を見ていた。
十九年、四百十二通。一行目で迷ったことはない。書くべきことは、いつも現場にあった。物証が言っていることを、そのまま順に書けばよかった。
書いた結果がどうなるかを、考えたことがなかった。考える必要がなかったからである。四十一回とも、結果は同じだった。不採用。誰も読まない。
読まれない文章は、誰も壊さない。
今も、物証は言っている。
それを書くと、生きている人間が壊れる。
彼はパソコンを閉じた。
しばらくして、また開いた。
一行目は消えていない。カーソルが点滅している。
閉じた。
三度目は、開かなかった。
◇
部屋の電気を消した。
段ボールの間に座って、壁にもたれた。
十九年、彼は書けないと思ったことがない。読まれないと思ったことは、四百十二回ある。
書けないのは、初めてだった。
真実は、出た。
書く人間が、いなくなった。




