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第27話 TA-〇四一六

「開けてください。いるのは分かってます」


ドアの外に、二人立っていた。


三嶋果穂と、黒石ゆかりである。


「お二人は、面識が」


「ありません」果穂が答えた。「今日、駅で会いました」


「駅で」


「連絡は先週からしてました。会うのは初めてです」


八月二日。朝の十時で、もう気温が三十度を超えている。綿貫はドアを開けたまま、二人を見ていた。


四日間、彼は誰の連絡にも出ていない。柏木からの電話が三回、陣内からのメッセージが二回、鵜飼から一通。全部、画面で見て、そのままにしてある。


「入っても、いいですか」


黒石が言った。


「散らかっています」


「知ってます。この人から聞きました」



果穂が段ボールを一つ、部屋の隅から引き出した。


七月に持ってきた二つ目である。中身は書類と細々したものだった。あの日、綿貫は一つ目の衣類までしか見ていない。


「まだ全部見てませんよね」


「はい」


「書けなくなった理由、聞きません」


彼女は蓋を開けながらそう言った。


「聞いても、たぶん、私にはどうにもできないので」


黒石が壁際のファイルに目をやった。背表紙のないやつである。手に取って、開いた。


「二十三件ですか」


「そうです」


「規格順に並べてますね」


「はい」


彼女はファイルを閉じて、元の位置に戻した。


「私、四年間、何もしませんでした」


黒石はそう言った。


「四日は、まだ短いです」



黒石が果穂に告げたのは、その少しあとである。


「私、アンカーIII型の設計チームにいました」


果穂の手が止まった。


「弟さんが使っていた確保器です。荷重条件の担当でした」


部屋が静かになった。窓の外で蝉が鳴いている。エアコンがないので、扇風機だけが回っていた。


黒石は言い訳をしなかった。


「六年前に、動荷重の試験を追加するよう三回提案しました。三回とも通りませんでした。それで、四年前に会社を辞めました」


「はい」


「辞めてからも、事故の記事を集めてました。二十三件分あります。集めただけで、何もしていません」


彼女はそこで、少し間を置いた。


「申し訳ありませんでした」


果穂は、しばらく黙っていた。


それから、首を横に振った。


「すみません」


彼女は言った。


「それ、私が受け取っていいものじゃないと思うんです」


黒石が顔を上げた。


「受け取ったら、終わりにしちゃう気がして」



「分かりました」


黒石はそう答えて、それ以上謝らなかった。


代わりに、鞄から規格書を出した。付箋が七枚貼ってある、彼女の私物である。


「説明していいですか。何が起きたのか」


「お願いします」


黒石は床に座って、規格書を開いた。


一時間かかった。


保証荷重の意味。静荷重と動荷重の違い。九キロニュートンが何を保証していて、何を保証していないか。七十キロの人間が一メートル落ちると、支点に何が起きるか。


数字でしか話さない。感情を混ぜない。


果穂は最後まで、一度も口を挟まなかった。


説明が終わったあと、彼女はこう言った。


「弟、その数字を信じてたと思います」


「はい」


「信じるのが、悪いことみたいになるんですね」


黒石は答えなかった。答えられなかったのだと思う。



段ボールの中身は、書類が中心だった。


装備のカタログ。保証書。取扱説明書。領収書の束。


その中に、印刷した紙が数枚あった。


フリマアプリの取引画面である。


「弟、これ、印刷してました」


果穂がそれを綿貫に渡した。


「保証書がつかないから、代わりにって。そういうところは几帳面な子で」


日付は八か月前。


商品名。確保器。規格C。


出品者の商品説明が、そのまま印刷されている。


『協会放出品。故人の遺品につき、ご理解のある方に』


その下に、取引メッセージのやりとりが残っていた。


『質問失礼します。これ、泊さんのですか』


『はい。整理された品と伺っています』


『だったら絶対に大事にします。よろしくお願いします』



綿貫は、その紙を持ったまま動かなかった。


果穂が横から覗いた。


「弟、あの人のこと、すごく好きだったんです。中学のときにダンジョンの特番があって、それで探索者になるって言い出して」


「はい」


「私、止めたんですけど」


彼女はそこで言葉を切った。


「止めたんですけど、学費が出せなくて。あの子、それを知ってたので」


蝉の声が高くなった。


綿貫は取引画面をもう一度読んだ。


協会放出品。


協会は、三年前に泊玲司の装備を引き取っている。保険会社に弁済請求を出していない。引き取ったものは、通常なら廃棄される。


されなかった。


放出品として、中古市場に出ている。



彼は立ち上がって、段ボールの一つを開けた。


分室から持ち帰った箱である。中に、三年前の書類が入っている。室岡が七月に出してくれたファイルと、その添付一式の写しだった。


床に広げる。


『泊玲司 死亡事象』


三年前、六月十一日。第七区画十九層。


添付3。回収品目録。


彼はページをめくった。


十四行目。


『確保器 一点 規格C 打刻 TA-〇四一六』



綿貫は、その行を見ていた。


見て、動かなかった。


三月三日の未明、彼は川口分室で回収品リストの清書をしている。十九点あった。十七行目に、確保器の打刻を書き写した。


TA-〇四一六。


三年前の六月にも、彼は同じ番号を書いている。


同じ現場ではない。同じ人でもない。同じ確保器だった。


泊玲司の遺体とともに回収され、協会が引き取り、廃棄されずに放出され、八か月前に三嶋悠が買った。


悠は、それが泊のものだと知って買った。大事にすると書いて買った。


三月三日、その確保器が壊れて、彼は死んだ。


果穂が、床の紙を覗き込んだ。


「これ」


彼女は十四行目を指した。


「綿貫さんの字ですよね」



十九時に、綿貫は分室へ行った。


川口の旧・検査センターの二階は、空になっている。書架がない。机が二つ残っていて、椅子は片づけられていた。蛍光灯は、切れたままの一本を含めて四本ある。


室岡が待っていた。


果穂が電話をしたのだと、あとで聞いた。


「痩せたな」


「そうですか」


「座れ。……椅子がないな」


室岡は窓枠に腰を掛けた。綿貫は立ったままだった。


「私も、読まなかったんです」


彼はそう言った。


十九年、誰にも言わなかったことを、この一週間で二度言っている。


「三年前に、泊玲司が分室に来ています。私は現場に出ていて、伝言が机に置かれました。書類の下に埋もれて、そのままになりました」


「そうか」


「二週間後に、あの人は死にました」


室岡は、しばらく何も言わなかった。


窓の外で、蝉が鳴いている。


「なあ、綿貫」


「はい」


「読まなかった人間が、読ませようとしてるんだろ」


「はい」


「それでいいじゃないか」


彼は窓枠から降りた。


「俺なんかな。十九年、読んだうえで何もしなかったんだぞ」


室岡は上着のポケットから、鍵を出した。


「君のほうが、まだマシだ」



鍵は、旧・検査センターの一階書庫のものである。


「原本は、まだあそこにある」


室岡が言った。


「廃止に伴って、保存年限が過ぎたぶんから順次廃棄する予定だ。決裁は九月に回る。それまでは、あそこにある」


「四百十二冊です」


「ああ」


「持ち出せば、規程違反です」


「そうだな」


室岡は鍵を綿貫の手のひらに置いた。


「俺は明日、退職届を出す」


「室岡さん」


「定年まで一年半だが、まあ、いいだろう。退職する人間が鍵を返し忘れることは、たまにある」


彼は上着を取った。


「返し忘れることにする」


綿貫は鍵を握った。握って、頭を下げた。


「やめてくれ」


室岡はそう言って、階段を降りていった。


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