第27話 TA-〇四一六
「開けてください。いるのは分かってます」
ドアの外に、二人立っていた。
三嶋果穂と、黒石ゆかりである。
「お二人は、面識が」
「ありません」果穂が答えた。「今日、駅で会いました」
「駅で」
「連絡は先週からしてました。会うのは初めてです」
八月二日。朝の十時で、もう気温が三十度を超えている。綿貫はドアを開けたまま、二人を見ていた。
四日間、彼は誰の連絡にも出ていない。柏木からの電話が三回、陣内からのメッセージが二回、鵜飼から一通。全部、画面で見て、そのままにしてある。
「入っても、いいですか」
黒石が言った。
「散らかっています」
「知ってます。この人から聞きました」
◇
果穂が段ボールを一つ、部屋の隅から引き出した。
七月に持ってきた二つ目である。中身は書類と細々したものだった。あの日、綿貫は一つ目の衣類までしか見ていない。
「まだ全部見てませんよね」
「はい」
「書けなくなった理由、聞きません」
彼女は蓋を開けながらそう言った。
「聞いても、たぶん、私にはどうにもできないので」
黒石が壁際のファイルに目をやった。背表紙のないやつである。手に取って、開いた。
「二十三件ですか」
「そうです」
「規格順に並べてますね」
「はい」
彼女はファイルを閉じて、元の位置に戻した。
「私、四年間、何もしませんでした」
黒石はそう言った。
「四日は、まだ短いです」
◇
黒石が果穂に告げたのは、その少しあとである。
「私、アンカーIII型の設計チームにいました」
果穂の手が止まった。
「弟さんが使っていた確保器です。荷重条件の担当でした」
部屋が静かになった。窓の外で蝉が鳴いている。エアコンがないので、扇風機だけが回っていた。
黒石は言い訳をしなかった。
「六年前に、動荷重の試験を追加するよう三回提案しました。三回とも通りませんでした。それで、四年前に会社を辞めました」
「はい」
「辞めてからも、事故の記事を集めてました。二十三件分あります。集めただけで、何もしていません」
彼女はそこで、少し間を置いた。
「申し訳ありませんでした」
果穂は、しばらく黙っていた。
それから、首を横に振った。
「すみません」
彼女は言った。
「それ、私が受け取っていいものじゃないと思うんです」
黒石が顔を上げた。
「受け取ったら、終わりにしちゃう気がして」
◇
「分かりました」
黒石はそう答えて、それ以上謝らなかった。
代わりに、鞄から規格書を出した。付箋が七枚貼ってある、彼女の私物である。
「説明していいですか。何が起きたのか」
「お願いします」
黒石は床に座って、規格書を開いた。
一時間かかった。
保証荷重の意味。静荷重と動荷重の違い。九キロニュートンが何を保証していて、何を保証していないか。七十キロの人間が一メートル落ちると、支点に何が起きるか。
数字でしか話さない。感情を混ぜない。
果穂は最後まで、一度も口を挟まなかった。
説明が終わったあと、彼女はこう言った。
「弟、その数字を信じてたと思います」
「はい」
「信じるのが、悪いことみたいになるんですね」
黒石は答えなかった。答えられなかったのだと思う。
◇
段ボールの中身は、書類が中心だった。
装備のカタログ。保証書。取扱説明書。領収書の束。
その中に、印刷した紙が数枚あった。
フリマアプリの取引画面である。
「弟、これ、印刷してました」
果穂がそれを綿貫に渡した。
「保証書がつかないから、代わりにって。そういうところは几帳面な子で」
日付は八か月前。
商品名。確保器。規格C。
出品者の商品説明が、そのまま印刷されている。
『協会放出品。故人の遺品につき、ご理解のある方に』
その下に、取引メッセージのやりとりが残っていた。
『質問失礼します。これ、泊さんのですか』
『はい。整理された品と伺っています』
『だったら絶対に大事にします。よろしくお願いします』
◇
綿貫は、その紙を持ったまま動かなかった。
果穂が横から覗いた。
「弟、あの人のこと、すごく好きだったんです。中学のときにダンジョンの特番があって、それで探索者になるって言い出して」
「はい」
「私、止めたんですけど」
彼女はそこで言葉を切った。
「止めたんですけど、学費が出せなくて。あの子、それを知ってたので」
蝉の声が高くなった。
綿貫は取引画面をもう一度読んだ。
協会放出品。
協会は、三年前に泊玲司の装備を引き取っている。保険会社に弁済請求を出していない。引き取ったものは、通常なら廃棄される。
されなかった。
放出品として、中古市場に出ている。
◇
彼は立ち上がって、段ボールの一つを開けた。
分室から持ち帰った箱である。中に、三年前の書類が入っている。室岡が七月に出してくれたファイルと、その添付一式の写しだった。
床に広げる。
『泊玲司 死亡事象』
三年前、六月十一日。第七区画十九層。
添付3。回収品目録。
彼はページをめくった。
十四行目。
『確保器 一点 規格C 打刻 TA-〇四一六』
◇
綿貫は、その行を見ていた。
見て、動かなかった。
三月三日の未明、彼は川口分室で回収品リストの清書をしている。十九点あった。十七行目に、確保器の打刻を書き写した。
TA-〇四一六。
三年前の六月にも、彼は同じ番号を書いている。
同じ現場ではない。同じ人でもない。同じ確保器だった。
泊玲司の遺体とともに回収され、協会が引き取り、廃棄されずに放出され、八か月前に三嶋悠が買った。
悠は、それが泊のものだと知って買った。大事にすると書いて買った。
三月三日、その確保器が壊れて、彼は死んだ。
果穂が、床の紙を覗き込んだ。
「これ」
彼女は十四行目を指した。
「綿貫さんの字ですよね」
◇
十九時に、綿貫は分室へ行った。
川口の旧・検査センターの二階は、空になっている。書架がない。机が二つ残っていて、椅子は片づけられていた。蛍光灯は、切れたままの一本を含めて四本ある。
室岡が待っていた。
果穂が電話をしたのだと、あとで聞いた。
「痩せたな」
「そうですか」
「座れ。……椅子がないな」
室岡は窓枠に腰を掛けた。綿貫は立ったままだった。
「私も、読まなかったんです」
彼はそう言った。
十九年、誰にも言わなかったことを、この一週間で二度言っている。
「三年前に、泊玲司が分室に来ています。私は現場に出ていて、伝言が机に置かれました。書類の下に埋もれて、そのままになりました」
「そうか」
「二週間後に、あの人は死にました」
室岡は、しばらく何も言わなかった。
窓の外で、蝉が鳴いている。
「なあ、綿貫」
「はい」
「読まなかった人間が、読ませようとしてるんだろ」
「はい」
「それでいいじゃないか」
彼は窓枠から降りた。
「俺なんかな。十九年、読んだうえで何もしなかったんだぞ」
室岡は上着のポケットから、鍵を出した。
「君のほうが、まだマシだ」
◇
鍵は、旧・検査センターの一階書庫のものである。
「原本は、まだあそこにある」
室岡が言った。
「廃止に伴って、保存年限が過ぎたぶんから順次廃棄する予定だ。決裁は九月に回る。それまでは、あそこにある」
「四百十二冊です」
「ああ」
「持ち出せば、規程違反です」
「そうだな」
室岡は鍵を綿貫の手のひらに置いた。
「俺は明日、退職届を出す」
「室岡さん」
「定年まで一年半だが、まあ、いいだろう。退職する人間が鍵を返し忘れることは、たまにある」
彼は上着を取った。
「返し忘れることにする」
綿貫は鍵を握った。握って、頭を下げた。
「やめてくれ」
室岡はそう言って、階段を降りていった。




