第28話 議事録
「綿貫さん。僕、辞表、書いてもいいですか」
電話は、朝の八時にかかってきた。
「なぜ私に聞くんですか」
「書いたら、たぶん止められないので」
八月八日。協会本部の一階ロビーで待ち合わせた。
陣内律は広報部の制服を着て、立っていた。七月に戻ってから一か月である。髪が短くなっている。手に封筒を二つ持っていた。
「一つは辞表です」
「もう一つは」
「僕のノートの写しです。五冊分あります」
綿貫は封筒を見た。厚い。
「あなたは、まだ二十六です」
「知ってます」
「広報部に戻れば、あと三十年以上あります。ここで辞めれば」
「綿貫さん」
陣内が遮った。
初めてのことだった。
「あなたは十九年、書いても読まれませんでした」
彼はそう言った。
「僕は五か月で、書いたら読まれるところにいます」
ロビーを人が通っていく。始業前で、職員が次々に入ってくる。誰も二人を見ていない。
「使わないほうが、おかしいでしょう」
綿貫は封筒を見ていた。
この男は五か月前、終わった事故を掘り返す意味が分からないと言った。分からないまま土嚢を運び、明細を手で書き写し、遺族の前で自分の罪を言い、そして監視役だったと知った。
知ったあとで、これを持ってきている。
「僕、意味あるかどうかは、まだ分かってません」陣内が言った。「でも、意味は後から誰かがつけるものらしいので」
「誰が言いましたか」
「綿貫さんです。五月に」
言った覚えがなかった。言ったのかもしれない。
◇
神保町の雑居ビルの三階に、柏木彩の事務所があった。
事務所というより、六畳の部屋である。机が一つ、書棚が二つ、床に本と紙束が積んである。エアコンが古くて、音が大きい。
「散らかってます」
「うちも同じです」
綿貫がそう言うと、柏木は少し笑った。
三人でノートを開いた。
五冊ある。表紙に日付の範囲が書いてあって、二月から七月までが続いている。書き方は五冊とも同じだった。
陣内の議事録は、二層になっている。
上半分に、会議の正式な記録がある。議題、発言者、決定事項。広報部で叩き込まれた書式のとおりに、簡潔に整理されている。
下半分の余白に、別のものが書いてある。
「これ、なんですか」
柏木が指した。
「聞こえたことです」陣内が答えた。「会議室って、正式な発言以外もけっこう聞こえるんですよ。独り言とか、隣の人との私語とか」
「それも書くんですか」
「広報にいたとき、会見の準備で使ってました。本当に問題になるのは、正式発言じゃなくて、その周りなので」
記録には、二種類ある。残すために書くものと、残ることを意識せずに書くものである。公式の議事録は前者で、精査され、削られ、角が取れてから残る。
この男の余白は、後者だった。誰も読むと思っていない場所に書かれたものが、いちばん正確に残っている。
綿貫の四百十二通と、逆の理由で同じ場所に辿り着いている。
柏木がページを繰った。
四月二十四日。
『(本部長 独語)「あれは、開けてはいけない箱だ」』
六月五日。
『(本部長→自分)「明日は静かにしていろ。君のためだ」』
三月十八日。
『(本部長→広報部 加瀬課長)「調査室の報告書から、この三段落だけ抜いて記者に渡してくれ」』
◇
柏木の手が止まった。
「これ」
「三月十八日です。会見の二日前です」
陣内は自分のノートを見ずに言った。
「僕、その打ち合わせに同席してました。異動する前の引き継ぎで、広報部に一度戻った日です。議題は別のことでした。三月の会見の想定問答の確認で」
「そのときに」
「本部長が、帰り際に課長に言いました。僕は末席に座ってたので、聞こえました」
柏木がノートを持ち上げた。手が止まっている。
「三段落。私が渡された資料、三段落でした」
彼女は自分の書棚から、古いクリアファイルを出した。三月に受け取ったものである。
机の上に並べた。
抜かれた三段落と、その日付。
一致した。
柏木はそれをしばらく見ていた。それから、自分の書いた三月の記事を上に置いた。三枚が縦に並ぶ。指示があり、資料が渡り、記事になった。順番が、紙の上で見える。
「私、道具でしたね」
「そうですね」綿貫は言った。「私もです」
「え」
「その三段落を書いたのは、私です」
彼女は顔を上げなかった。
◇
「これ、出所を守れません」
柏木が最初に言ったのは、それだった。
「記事にするなら、いつの会議の記録かを書かないといけません。書けば、その場にいた人間は限られます。あなた、特定されます」
「知ってます」
陣内は封筒をもう一つ、机に置いた。
「だから、これを先に出しました」
辞表である。
柏木がしばらく黙った。
「……綿貫さん」
彼女は綿貫のほうを見た。
「止めないんですか」
「止めました」
「止まってませんけど」
「止まりませんでした」
◇
柏木が用意しているものは、五つあった。
一つ。綿貫の報告書のうち、四十一件の勧告部分。非公開文書だが、綿貫本人が閲覧を許可し、彼女が現物を確認した。
二つ。黒石ゆかりの稟議書三枚と、差し戻しの朱書き。決裁欄の印影。
三つ。等級別の死亡率の統計。潜行回数で割り直したもの。
「これ、検算しました」柏木が言った。「知り合いの、保険数理の人に見てもらいました。名前は出せません」
「大同海上の方ですか」
「言えません」
彼女は表情を変えなかった。
四つ。泊玲司の未提出報告書。協会の文書目録に『未受理』として記載されている事実は、情報公開請求で確認できる。文面は綿貫が閲覧したものを、記憶と手控えで再構成した。
五つ。陣内の議事録。
五つとも、綿貫が一人で集めたものではない。黒石が四年ぶんの沈黙を破って渡し、鵜飼が規則を破らずに検算し、陣内がキャリアを賭け、柏木が誤報を確かめ直した。果穂が請求を出した。
彼が持ってきたのは、四十一件の報告書だけである。
「これを全部出したら、協会は反論できません」柏木は机の上を見た。「でも」
「でも」
「私一人の記事だと、三日で消えます」
彼女は椅子の背にもたれた。
「ウェブメディアの記事は、三日で流れます。バズっても一週間です。協会は『調査中です』と言い続ければいい。半年経てば、誰も覚えてません」
「では、どうしますか」
「国会に持っていきます」
◇
「四十一件は労災の認定に関わってます。規格は経済産業省の所管です。協会は特殊法人で、監督官庁があります」
柏木は指を折った。
「行政の所管事項なら、国会で聞けます。閉会中審査っていう仕組みがあって、この時期でも委員会は開けます」
「議員に伝手が」
「あります。ただ、記事が先です。記事がないと、議員が動く理由がない」
彼女は綿貫を見た。
「それと、もう一つ要ります」
「何ですか」
「遺族です」
◇
綿貫はその日の夕方、果穂に電話をかけた。
説明に三分かかった。
情報公開請求を出していること。それが「検討中」で止まっていること。記事が出れば、その請求は意味を持つ。国会の委員会に、遺族として意見を出す道もある。
名前が出ること。
「出します」
彼女は即答した。
「考えなくていいんですか」
「三か月考えました」
電話の向こうで、何かを置く音がした。
「もう考えました」
◇
柏木の記事が出たのは、八月八日の二十時である。
見出しは二行あった。
『四十一件の「本人の過失」/協会規格に落下衝撃の試験基準なし』
三時間で、三月の記事の百倍読まれた。
コメント欄が伸びた。今度は、綿貫を責めるものではなかった。
協会からの連絡はない。
二十二時を回っても、電話は鳴らなかった。声明も出ない。否定も肯定もない。
沈黙のほうが怖い、と綿貫は思った。何も言わない組織は、何かを準備している。
◇
二十三時十分。
柏木からメッセージが来た。
『閉会中審査、八月十五日で決まりました。経済産業委員会。参考人招致の名簿、添付します』
画像が一枚。
参考人名簿。三名。
黒石ゆかり(元・帝洋装備工業株式会社 設計課)——招致
綿貫修司(日本ダンジョン協会 災害調査室)——招致
三人目。
久我昭平(日本ダンジョン協会 安全管理本部長)
備考欄に、四文字。
『本人申出』
◇
綿貫は、その四文字を三度読んだ。
呼ばれたのではない。
あの人は、自分から出ると言っている。




