第8話 九キロニュートン
「土嚢、六十キロぶん買ってきました。あと単管パイプ四本。領収書は」
「私が立て替えます」
「経費で落ちないでしょう、これ」
「落ちません」
「ですよね」
陣内は軽トラの荷台から土嚢袋を下ろした。三月二十三日、日曜日。分室の裏の空き地には、朝の霜がまだ溶けきらずに残っている。土を踏むと、表面だけが薄く割れる音がした。
三日前の夜から、綿貫のスマートフォンには発信の履歴が三件ある。宛先はどれも同じで、通話時間はどれもゼロ秒だった。かけようとして、かけていない。
代わりに、彼は土嚢を買いに行った。
綿貫は単管を組んで、高さ二メートルの櫓を作っていた。上端に横棒を渡す。工具は自分のものである。二十代のころ、探索者だったときに買ったものが、まだ使えた。
「これ、業務ですか」
「趣味です」
陣内の手が止まった。
「今の、冗談ですか」
「休日に、私費で、上長の許可なくやっています。業務ではありません」
「……冗談ですよね」
「趣味です」
陣内は土嚢を三つ運んでから、腰を伸ばして空を見た。日曜の朝の空だった。
「僕、今日、友達の結婚式の二次会だったんですけど」
「行ってください」
「行きません。もう断りました」
「なぜですか」
「なんででしょうね」
彼はまた土嚢を持ち上げた。
◇
用意したものは四つあった。
悠が使っていたものと同型の確保器を、中古で三点。フリマアプリで一点四千円だった。同じ規格のロープを二十メートル。土嚢。そして体重計である。
「体重計、要るんですか」
「荷重を数字にしないと、報告書に書けません」
綿貫は土嚢を体重計に載せた。六十二キロ。人ひとりぶんに近い。
確保器を櫓の横棒に取り付け、ロープを通し、土嚢を吊るす。地面から浮かせて、そのまま止めた。
金具が一度だけ、乾いた音を立てた。それきり静かになる。
何も起きない。
「壊れませんね」
「はい」
彼はロープをゆっくり引いた。土嚢が少しずつ持ち上がり、確保器が軋む。八十キロ相当。百キロ相当。指の腹に、金属が擦れる細かい振動が伝わってくる。
ロープが張って、繊維の擦れる音が細く鳴る。土嚢の袋の縫い目が伸びる。確保器は動かない。
それだけだった。
「規格どおりです」
「規格どおり」
「この製品は、静かにかけた荷重に対して、決められた値まで保証されています。今の負荷では、保証の範囲に入っています」
陣内が確保器を覗き込んだ。傷ひとつない。
「じゃあ、不良品じゃないってことですか」
「そう見えます」
規格に適合した製品を、規格の想定どおりに使えば、規格どおりの結果になる。試験に通っているのだから当然である。この作業を三十分やっても、報告書には一行しか書けない。異常なし、と。
綿貫はポケットから写真を出した。悠の確保器を、六方向から撮ったものである。正面が、内側へ潰れている。
「ただ、この潰れ方が出ません」
「今のやり方だと?」
「今のやり方だと」
◇
二回目の準備には三十分かかった。
土嚢を櫓の上まで引き上げ、確保器を通したロープの余りを一メートル分だけ緩ませる。落下距離一メートル。それだけの違いである。
「これ、離すんですか」
「離します。二歩、下がってください」
陣内が下がった。綿貫はロープの結び目を確認して、手を離した。
音は一つだった。
金属の、短くて高い音。木が折れるのに近い。破裂ではない。何かが一瞬で降参した音だった。
土嚢は地面に落ちて、砂を吐いた。ロープの片端が櫓からぶら下がって、揺れている。霜の残った土に、土嚢の形が浅く残った。
陣内は動かなかった。
三十分かけた一回目には、何も起きなかった。二回目は、手を離してから終わるまでが一秒に満たない。
綿貫は櫓に近づき、確保器を外した。手袋越しでも、金属が熱を持っているのが分かる。落下のエネルギーは、どこかへ行かなければならない。行き先の一つが熱で、もう一つが変形だった。
正面が、内側へ潰れている。
写真を横に並べる。角度を合わせる。歪みの向き、深さ、縁の巻き込み方。二つは同じ形をしていた。
ロープの端を拾う。切断面が白く毛羽立っている。切れたのは、確保器の縁に触れていた部分——上側だった。
「同じです」
陣内が近づいてきた。しゃがんで、地面に落ちた確保器の破片を拾う。指の先で持って、なかなか置かなかった。
「今の、一メートルですよね」
「はい」
「一メートル落ちただけで、これですか」
「人ひとりが、一メートル落ちただけです」
風が空き地を渡って、土嚢の砂を撫でていった。遠くで日曜日の子どもの声がする。自転車のベルが二回鳴って、遠ざかった。
崩落で足元が抜けたとき、人はもっと落ちる。三メートル落ちることも、五メートル落ちることもある。一メートルで済んだのは、この実験が一メートルしか用意していないからだった。
綿貫は確保器の側面を陣内に向けた。刻印がある。小さくて、傾けないと読めない。
『9kN』
「これ、何の数字ですか」
「保証している荷重です」
「じゃあ、今の落下は、それを超えてたってことですよね」
「そうです」
「どのくらい超えてたんですか」
綿貫は少し間を置いた。
「計算はできます。ただ、私は計算した数字を報告書に書けません」
「なんでですか」
「私が計算しても、根拠になりません。試験機を持っている人間が測った数字でないと、協会は受け取りません」
陣内が破片を握ったまま立ち上がった。
「試験機って、どこにあるんですか」
「メーカーです」
「作った会社が、自分の製品を試験するんですか」
「協会の規格に適合しているかを確かめる試験は、そうです」
「それ、大丈夫なんですか」
「制度としては、そういう仕組みです」
陣内は破片を持ったまま、しばらく何も言わなかった。
◇
追補の作成には、日が暮れるまでかかった。
写真を十二枚。荷重条件。使用した中古品のシリアル。潰れの深さは、擦れた巻尺を当てて測った。六十センチ付近の目盛りが読めないので、そこは指で押さえて位置を覚える。三ミリと少し。
「新しいの、買いましょうよ」
「読めますから」
「読めてないじゃないですか、六十のとこ」
「覚えています」
陣内はそれ以上言わなかった。
追補は四ページになった。表題は『多人数確保退避手順の運用時に確保器に生じる荷重について(追補)』。提出先は安全管理本部。決裁は久我である。
文中に「危険」とは書かない。「不当」とも書かない。荷重条件と、その結果生じた変形と、現物との一致だけを書く。感想を入れると、感想の部分だけを引かれて返される。十九年でそれを覚えた。
「これ出したら、通りますよね」
綿貫は答えなかった。
書架を見上げる。四十一件のうち、装備について書いた勧告が二十三件ある。二十三件とも、同じ場所に提出して、同じように返ってきた。写真の角度も、荷重の数字も、そのときは十分に揃っていたはずである。
「二十三件、あります」
「え」
「装備のことを書いた勧告です。四百十二通のうち、二十三件」
彼は追補を封筒に入れ、宛名を書いた。
「二十三件とも、不採用です」
陣内が封筒を見た。
「じゃあ、二十四件目ですか、これ」
「そうなります」
「……綿貫さん、それ分かってて書いてるんですよね」
「はい」
「なんで書くんですか」
綿貫は宛名の字を、指の腹で乾かした。
「書かないと、無かったことになるので」
窓の外はもう暗い。空き地に置いたままの櫓が、街灯の光で細く見えた。
確保器の側面には、小さく刻印がある。
『9kN』
綿貫は、この数字が何を保証していないのかを、まだ言わなかった。
陣内も、まだ聞かなかった。




