第6話 一通目
「四十一件、全部見せてください」
陣内は脚立の下でそう言った。もう「意味あります?」とは言わない。
「多いですよ」
「多いから見るんです。一件だけ見てても、たぶん何も分からないので」
二日前、この男は帰りの電車で自分の異動の話をした。内示が二月二十六日で、二日後には調査室にいた。三嶋悠が死んだのは、その五日後である。
綿貫はその日から、協会の人事の動きを一度も考えていない。考える材料がないからだ。代わりに、目の前の四十一件のほうを見ることにした。
一階の書庫は、旧・検査センターの倉庫をそのまま使っている。壁の三面が棚で、床から天井まで灰色のファイルが詰まっていた。空気が乾いていて、紙と埃と、機械油の残り香がする。二十年前まで、ここには装備の検査機械が置いてあった。
綿貫は脚立に上り、上から二段目のファイルを抜いた。埃が舞って、蛍光灯の光の中で一度だけ渦を作る。
十九年ぶんが、ここに全部ある。協会の文書管理規程では、重篤災害の報告書は原本を三十年保存すると決まっている。誰も読まなくても、捨てることはできない。紙は残る。人の記憶より、はるかに長く。
「一件、抜きます」
「なんでですか」
「順番に見ましょう」
陣内が脚立の脚を押さえたまま、綿貫を見上げた。
◇
四十一件を年代順に並べるだけで、午前中が終わった。
床に新聞紙を敷いて、その上に一冊ずつ置いていく。区画、深度、等級、死因、勧告の内容、採否。陣内が表を作り、綿貫が読み上げる。
「十二年前、第五区画十八層、C級、墜落。勧告は落下防止装置の点検周期について。不採用」
「九年前、第二区画七層、D級、圧死。勧告は退避経路の表示について。不採用」
「七年前、第九区画四層、E級、墜落。勧告は確保器の交換基準について。不採用」
「六年前——」
読み上げるほうは楽である。表を作るほうが手が止まる。一件ごとに氏名と年齢が入っていて、陣内はそこを飛ばして書き写せない性格らしい。二十四歳、三十一歳、十九歳。数字だけが四十一個並んでいく。
昼を回るころ、陣内の書く手が遅くなった。
「バラバラですね」
「そうですね」
「区画も違うし、深度も違うし、死因も違うし。年も散らばってて。共通点、無理じゃないですか」
無理かもしれない、と綿貫も思っていた。四十一件は十九年かけて集まったもので、集めたときに共通点を探していたわけではない。彼が勧告を付したのは、単に「本人の腕の問題ではない」と読めたからである。基準は一つだけだった。
それでも、表を眺めていると引っかかるものがある。
「勧告の文面を見てください」
「文面ですか」
「何について書いているかです」
陣内が表の右端をなぞった。指が途中で止まる。
「装備、装備、経路、装備、体制、装備……」
「数えてください」
数分後、陣内が顔を上げた。
「二十三件です。装備のことを書いてるのが」
四十一件のうち、二十三件。半分を超えている。
「多いんですか、これ」
「分かりません」綿貫は表を引き寄せた。「型番を見ると、メーカーが四社に分かれています。同じ製品ではありません」
「じゃあ、偶然ですか」
「偶然かもしれません」
「いや、そこは違うって言ってくださいよ」陣内が表から顔を上げた。「半分超えてるんですよ。四十一件中二十三件が装備の話って、僕、統計は素人ですけど、それでも多くないですか」
「多いかもしれません。比べる相手がいないので、分かりません」
「比べる相手」
「勧告を付さなかった死亡事故のほうです。あちらの型番は、記録がありません」
「記録がない?」
「協会は装備の型番を統計に取っていません」
陣内が口を開けたまま、しばらく黙った。
「……取らないんですか。人が死んでるのに」
「必要ないと判断されています」
彼はそれ以上言わなかった。言えることがなかった。二十三という数字を手帳に書いて、その下に線を引いた。
十九年、この数字を数えたことはなかった。一件ずつ書いてきたからである。目の前の一件を正確に書くことしか考えていなかったので、並べるという発想がそもそも無かった。
半分を超えているのが多いのか少ないのか、比べる相手がいない。協会は装備の型番を統計に取っていない。取る必要がないと判断されている。
床の新聞紙が、めくれて足に貼りついた。書庫は湿気を吸う。棚の下のほうのファイルは、背表紙が波打っているものが多い。
その中の一冊が、他より強く波打っていた。
◇
陣内が上がったのは十八時だった。
「先に失礼します。明日、続きやりましょう」
「はい」
足音が階段を上っていく。ドアが閉まって、書庫に空調の音だけが残った。
綿貫は棚の一番下の段に膝をついた。
一番左の、背表紙が波打っている一冊。手前の埃だけが払われていない。誰も抜かないからである。
彼はそれを引き出した。
背が他より厚い。添付が多いからである。当時は現像代が高くて、枚数を絞れと言われた。絞らなかった。何を残すべきか判断できるようになるまでに、そこから五年かかっている。
膝の上に置いて、表紙を見た。
開かない。
表紙の日付は、十九年前の十月。番号は001。氏名の欄に、彼自身の字がある。今より線が荒い。文字の間隔が詰まっていて、書いた人間が急いでいたことが分かる。
『新藤克巳(24)』
その下に、事象名。
『ハーネス破断による墜落事象』
十九年前も、彼は事故と書かなかった。
書けなかったのだと思う。当時、原因を確定させるだけの知識も、装備の見方も、彼は持っていなかった。二十二歳だった。持っていたのは、目の前で腰のベルトが裂けたという記憶だけである。
第一発見者・通報者の欄に、名前がある。
『綿貫修司(22)』
紙が波打っているのは、一度濡れたからだ。表紙の右下が特に強い。雨か、それとも別のものか。十九年経っても乾ききらない紙などない。乾いたあとに形が残っているだけである。
彼は表紙をめくらなかった。
中身は覚えている。覚えているというより、書いた文章を一字も忘れていない。四百十二通のうち、そういう報告書はこれ一通だけである。
代わりに、最後のページを開いた。そこだけなら、指が動く。
勧告の採否欄。押された印は一つ。
『不採用』
インクが薄い。当時の朱肉は、この色だった。
綿貫はファイルを閉じ、埃を払った。払ってから、もう一度払った。それから元の位置に、背表紙の高さを揃えて戻した。
◇
二階に上がると、室岡がまだいた。
蛍光灯を一本だけ点けて、机で書類を読んでいる。ポットの湯が沸いた音がした。
「まだいらしたんですか」
「予算の資料。来年度のな」
室岡は老眼鏡を外して、目のあたりを親指で押した。
「悪い数字ですか」
「良かったためしがない」
彼は湯呑みを二つ出して、片方に湯を注いだ。もう片方には手が届かなかったらしく、紙コップを取った。自分の分を紙コップにして、湯呑みのほうを綿貫の机に置く。
「下、長かったな」
「四十一件、並べていました」
「そうか」
室岡は自分の席に戻り、紙コップの縁から湯気を吹いた。しばらく何も言わなかった。
「あれ、まだ置いてあるのか」
主語がない。それで通じた。
「はい」
「そうか」
彼は書類に目を戻した。
「捨てろとは言わんよ。俺が言う筋合いでもない」
「はい」
「ただな。十九年経っても開けんもんは、たぶん一生開けんぞ」
「そうかもしれません」
「開けたほうがいいとも言わん」室岡が紙コップを置いた。「開ける日が来るとしたら、そりゃ君の都合じゃないだろうしな」
「どういう意味ですか」
「さあな。年寄りの言うことだ」
彼は書類をめくった。
「まあ、そうだよなあ」
室岡が知っているのは、当然だった。この人は十九年、綿貫の書類を最初に読む立場にいる。読んで、上に上げて、返ってくるのを一緒に見てきた。一通目の顛末も、志願してきた二十二歳が何を言ったかも、全部その目で見ている。
聞かないのは、聞いても何も変わらないからだ。
湯呑みは、綿貫が普段使っているものではない。書架の一番上にしまってある、来客用の古いやつだった。縁が少し欠けている。
綿貫は座って、それを両手で持った。
四百十二通の一通目には、続きがある。
勧告が不採用になったあと、彼は探索者を辞めた。二か月後に災害調査室が発足し、自分から志願した。目的は一つで、それは十九年経っても果たされていない。
過去の認定は、覆らない。
だから彼は、次の一件から先を書き続けることにした。四十一件は、その結果である。




