第5話 六時間
「一層です。落下。現着できますか」
「何時何分に発生しましたか」
電話の向こうで、紙をめくる音がした。
「えっと、十一時前かと。二時間ほど前ですね」
「あと四時間です」
「は?」
綿貫は受話器を肩に挟んだまま、机の引き出しから番号札の束を出した。
「行きます。現場保存を、こちらが着くまでお願いします」
受話器を置く。壁の時計は十三時を回っていた。
「陣内さん。第三区画です。行きます」
「え、今からですか。伝票、途中なんですけど」
「四時間しかありません」
「四時間って、何がですか」
「現場がです」
◇
第三区画は、川崎の埋立地にある。首都高が渋滞していて、車の中の時間が長くなった。ハンドルは陣内が握っている。綿貫は助手席で図面を広げていた。
「六時間なんですよ」
「はい?」
「一層から五層までの再構成周期です。六時間で、区画は元に戻ります」
陣内の指がハンドルの上で動いた。
「じゃあ、今もう二時間経ってるから」
「あと四時間。移動に一時間かかります。実質三時間です」
「三時間で、何ができるんですか」
「消えるものを捨てて、残るものだけ拾います」
車が少し進んだ。ラジオが交通情報を読み上げている。
深い層のほうが調査は楽だ、と言うと大抵の人間は驚く。深いほど周期が長いからである。二十一層以深なら三十日ある。三十日あれば、予算の議論をしてから行ける。一層は六時間しかない。だから浅い層の死は、たいてい調べられずに終わる。
死亡率が低いのは浅い層である。数が少ないから、優先度も低い。優先度が低いから、誰も見ない。見ないので、何が起きているのか誰も知らない。
そういう構造になっていることを、綿貫は十九年かけて理解した。理解しただけで、変えられてはいない。
「あの、聞いていいですか」
「はい」
「今回のって、うちの案件なんですか。第七区画のほうは、まだ差し戻されたままですよね」
「重篤災害の初動は、規程で調査室の管轄です」
「両方は回せませんよね。三人しかいないのに」
「回せません」綿貫は図面を畳んだ。「だから、片方を後回しにします」
◇
第三区画一層は、天井が低かった。
かがまなくても歩けるが、ヘッドランプの光がすぐ壁にぶつかる。空気が乾いていて、鼻の奥が痛くなる匂いがした。第七区画の湿った石灰とはまるで違う。区画にはそれぞれ癖がある。
事故現場に着いたのは十四時二十分だった。
「……消えてる」
陣内が声に出した。
床の足跡が、輪郭を失いかけている。踏まれて凹んだはずの砂が、平らに戻りつつあった。壁の擦過痕も浅い。手を触れると、指の腹に残る感触が普通の岩と変わらなかった。
見ていて分かるほどの速さではない。目を離して、また戻すと、少しだけ違っている。氷が溶けるのに似ているが、氷は水になる。これは何も残さない。人が転んだ跡も、掴もうとして壁を掻いた指の跡も、二時間前まではここにあった。あと四時間で、この場所は今朝と同じ顔に戻る。
「見えますか」
「見えます。今、見てるあいだにも」
「では、地形は捨てます」
綿貫はスケッチブックを開いたが、線は三本しか引かなかった。位置関係だけを取る。
「持ち込んだ物だけ拾います。番号札です」
彼は札の束を半分、陣内に渡した。
「え、僕がですか」
「一人では終わりません。私が指した順に置いてください。置いたら写真、それから袋です」
「順番、意味あるんですか」
「あります。あとで位置が要るので」
陣内が札を握り直した。手が少し震えている。緊張か、寒さか、たぶん両方だろう。
「一番。ランプ」
「一番、ランプ」
「二番。手袋。片方だけです」
「二番、手袋」
三時間の作業が始まった。
札を置き、写真を撮り、袋に入れ、位置を記録する。順番を崩さない。焦ると必ずどこかが飛ぶ。飛んだ一点は、二度と取り返せない。現場が残っていないからだ。
一時間ほどで、陣内の声から余計な抑揚が消えた。復唱が短くなり、手が先に動くようになる。三十分もすれば人はこの手順を覚える。覚えられる程度の手順にしてあるのは、覚えられない手順は現場で守られないからである。
◇
死んだのは五十四歳の男性だった。B級。二十年以上潜っている。第三区画は彼の主戦場で、一層は通り道にすぎない。
その通り道で、彼は三メートル落ちた。
「B級で、一層で落ちますかね」陣内が袋の口を縛りながら言った。「僕でも歩けそうな高さですけど」
「落ちています」
「いや、そうですけど」
綿貫はヘッドランプを持ち上げた。落下の衝撃で外装が割れているが、基板は生きている。裏蓋を開けて、電池を抜いた。
残量計に目をやる。
「点灯時間が短い」
「短いって、どのくらいですか」
「この型は連続八時間です。残量から逆算すると、点いていたのは一時間前後です」
陣内が首を傾げた。
「入場記録、見せてください」
彼が端末を出した。ゲートの入退場ログである。
「入場、八時十二分」
「落下は十時五十分前後です」
「二時間半以上ありますね」
「はい」
綿貫は割れたランプを掌に載せたまま、動かなかった。
「二時間半、灯りをつけずに何をしていたか、です」
一層は暗い。区画に自然光は入らない。灯りなしでは五メートル先が見えない。B級が目を慣らして歩ける明るさでもなかった。ここには慣れるための光がそもそもない。
「歩けないですよね、それ」
「歩けません」
陣内が黙った。ランプを覗き込み、それから顔を上げた。
「もう一個、持ってたってことですか」
綿貫は、その言葉を待っていた。
「そう考えると、時間が合います」
「でも、装備リストには一個しか」
「載っていません。載っていないものを持っていた、ということです」
彼は回収した袋を順に見た。十一点。そのうちの一つ、番号七番の袋に、割れていないランプがもう一つ入っている。陣内が拾ったものである。型が違う。市販品だった。
「規定外ってことですよね。それ、この人が悪いことになりませんか」
「なりません」
綿貫は七番の袋を持ち上げた。
「支給品の照度が、この型の三分の一だからです」
◇
区画を出たのは十六時二十分だった。
管理棟のプレハブで、綿貫は回収品の数を数え直した。十一点。番号と写真と位置の照合が終わって、彼はようやく座った。
外の空気が、区画の中より暖かい。三月の陽は、もう傾きはじめていた。
第一報の写しが机の上にあった。『装備不備による視界不良が原因と推定される』。
不備なのは、この人ではない。この人は、暗いから自分で買った。買ったものが規定に載っていないというだけである。
支給品の照度は十年前の規格に合わせてある。当時はそれで足りた。装備が変わり、潜る深さが変わり、作業の内容が変わっても、規格の数字だけが同じ場所に残っている。現場はそれを、自腹で埋めている。埋めているうちは、誰も困らない。困らないので、誰も直さない。
陣内がペットボトルを二本買ってきて、一本を差し出した。彼はまだ番号札を握っている。返すのを忘れているらしい。
「間に合いました?」
「間に合いました」
「ぎりぎりですね」
「はい」
綿貫は陣内が書いた回収品リストを見た。字は丸いが、揃っている。位置の書き方も、教えたとおりになっていた。
「読みやすいです」
陣内が動きを止めた。ペットボトルの蓋を回しかけたまま、しばらくそのままだった。
「……そうですか」
彼は蓋を開けて、半分ほど飲んだ。それから、思い出したように言った。
「僕、なんでここに配属されたんでしょうね」
綿貫は答えなかった。
「広報から調査室って、普通ありますか。志望も出してないんですよ。内示、二月二十六日でした。二日後には、もうあの部屋にいたんです」
夕方の風が、金網を鳴らした。
二月二十六日。
三嶋悠が死んだのは、その五日後である。




