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第4話 彼は逃げていません

「認定、明日付けで出ます。『本人の重大な過失』で」


「保険は」


「三割減額ですね。ご遺族にはもう説明済みです」


協会本部の三階、給湯室の前だった。事務担当は紙コップを片手に、廊下ですれ違いざまにそれを言った。悪意はない。彼にとっては、今日処理する二十件のうちの一件である。


「報告書は、まだ受理されていませんが」


「あ、そうなんですか。まあ認定は別ラインなので」


紙コップの縁から湯気が上がっていた。インスタントの、粉っぽい匂いがする。


「じゃあ、お疲れさまです」


彼は行ってしまった。


綿貫は廊下に立っていた。壁に協会の標語が貼ってある。『安全は、ひとりひとりの手のなかに』。何年前から貼ってあるのか、四隅が丸まっていた。


認定が先に出る。報告書は差し戻されたままである。順序が逆だが、規程上はどこも間違っていない。認定は安全管理本部が行い、調査室の文書は参考資料だからだ。参考にするかどうかは、参考にする側が決める。


「綿貫さん?」


陣内が追いついてきた。


綿貫は歩き出していた。


「あの、どこ行くんですか」


「行ってきます」


「いや、それ、行き先じゃないです」



さいたま市のアパートは、線路沿いにあった。


三階建ての、外廊下に洗濯機が並んでいる建物である。風が強い日で、誰かのシーツがベランダで鳴っていた。二階の突き当たりが二〇八号室だと、返却手続きの書類に書いてあった。


綿貫は外階段の踊り場で止まった。


そこから動かなかった。


「行かないんですか」


陣内が下の段から見上げている。


「何を言うか、決まっていません」


「え」


「決まっていません」


風が階段を吹き抜けた。近くの踏切が鳴りはじめる。遮断機の音が、金属の板を叩くように響いた。


十九年、この階段を何度も上っている。場所は違う。建物も違う。上る前に立ち止まる時間だけが、いつも同じだった。台詞は毎回、頭の中では完成している。順番も、言い方も。それが階段の途中で全部ばらける。ばらけたまま上ると、手続きの説明しかできない。


「じゃあ」


陣内が言った。


「決めないで行けばいいじゃないですか」


綿貫は振り返った。


二十六歳が、そこに立っている。三日前に遺族の前で頭を下げた男が、まだ何も分かっていない顔で、そう言った。


「決めてから行くから、間に合わないんですよ。たぶん」


「経験ですか」


「広報にいたとき、謝罪文を何十本も書きました。上に出す前に三回直して、法務に見せて、また直して」陣内が階段の錆を指でこすった。「全部、完璧な文章になりました」


「はい」


「僕、一本も間に合わせられなかったです。出るころには、相手はもう別のことで怒ってるので」


踏切が鳴り止んだ。


綿貫は上着の裾を、一度だけ直した。



三嶋果穂は、書類を持ったままドアを開けた。


A4の封筒と、ボールペン。彼女は手に持ったものを隠さなかった。隠すという発想がないのだと思う。玄関の三和土に、女物の靴が二足だけ並んでいる。もう一足あったはずのものは、ない。


「先日はどうも」


「突然すみません。回収品の件ではありません」


「そうですか」


彼女はドアを閉めなかった。閉めるつもりもないが、招き入れるつもりもない。その幅で立っている。


綿貫は封筒を見た。認定を受け入れる書類である。署名欄の位置まで分かる。四十一回、同じ様式を見ている。


「三点、お伝えしたいことがあります」


「はい」


「弟さんが使っていたロープが、切れています。切れた場所が、上でした」


果穂の目が、少しだけ動いた。


「上、というのは」


「ロープの、確保器に近いほうです。人の手から遠いほうです」


「……はい」


「ロープは、引かれたほうに負けます。自分が落ちて、下に引かれて切れたのなら、切れるのは手元に近いところです」


風が廊下を吹いて、洗濯機のホースが壁を叩いた。


「上で切れているということは、上に支点があって、下から引かれたということです」


果穂は動かない。


「弟さんは、落ちていません。落ちる側ではなく、支える側にいました」


彼女の指が、封筒の角を握った。紙が少し歪んだ。


「二つ目です。確保器が、一回で潰れています。じわじわではありません。一瞬です。誰かの体重が、落ちる速さで乗ったということです」


「……」


「三つ目。行動食が、四食分そのまま残っていました。長く潜るつもりの人は、こういう持ち方をしません」


綿貫は、そこで言葉を切った。


言うべきことは、あと一行だった。頭の中では完成している。四百字なら書ける。彼はいつでも書ける。


「彼は逃げていません」


自分の声が、思ったより小さかった。


果穂は何も言わなかった。


泣かなかった。怒鳴らなかった。ただ、封筒を両手で持ち直した。持ち直して、そのまま胸のあたりで止めた。


その持ち方を、綿貫は知っている。落としてはいけないものを持つときの持ち方だ。回収品を袋に入れて運ぶとき、若い職員が同じことをする。中身が壊れないようにではなく、自分の手を信用していないから、両手で持つ。


踏切がまた鳴りはじめた。三回、遮断機の音が響いて、電車が過ぎていく。


「そうですか」


それだけだった。


長い時間が経ったように思えたが、実際は十秒ほどだろう。


「あの」


果穂が言った。


「その報告書、私は読めないんですよね」


綿貫は答えられなかった。


報告書は非公開である。係争の可能性がある案件については、遺族にも開示しない。規程にそう書いてある。彼女が弟の死について公式に知ることができるのは、明日出る認定文の一枚だけだった。そこには『本人の重大な過失』と書いてある。


「読めません」


「はい」


彼女は、それを聞いても表情を変えなかった。知っていたのだと思う。事故から二週間のあいだに、彼女は同じ種類の返事を何度も受け取っている。所定の様式がございません、そちらは所管が異なります、係争の可能性がある案件ですので。全部、正しい日本語である。正しい日本語を並べると、人は何も知らないままにできる。


「それと」


果穂は封筒を見た。


「それを認めると、三割、減るんですよね」



ドアが閉まる音は、静かだった。


「ありがとうございました」と彼女は言った。丁寧に頭を下げた。そのあいだも封筒は両手にあった。


綿貫は閉まったドアの前に立っていた。


言うつもりだった続きが、まだ喉のところにある。書類のこと、これから何をするつもりかということ、時間はかかるが方法はあるかもしれないということ。全部、言えなかった。


「綿貫さん」


陣内が階段の下から呼んだ。


外廊下を歩き、階段を降りはじめる。手すりに手を置いたところで、綿貫は一度止まった。それから降りた。


錆の浮いた手すりに、指の跡が残った。綿貫はそれを見てから、手を下ろした。


陣内が下で待っている。何も言わない。


「あれ、意味なかったってことですか」


「分かりません」


「だって、あの人」


「分かりません」


風が強くなっていた。シーツがまだ鳴っている。


二階の突き当たりで、紙をめくる音がした。


封筒から、書類を出す音だった。署名欄の位置は、四十一回見ている。


三嶋果穂は、ボールペンの先をそこに置いた。


置いたまま、その日は、書かなかった。


綿貫は、それを知らない。


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