第4話 彼は逃げていません
「認定、明日付けで出ます。『本人の重大な過失』で」
「保険は」
「三割減額ですね。ご遺族にはもう説明済みです」
協会本部の三階、給湯室の前だった。事務担当は紙コップを片手に、廊下ですれ違いざまにそれを言った。悪意はない。彼にとっては、今日処理する二十件のうちの一件である。
「報告書は、まだ受理されていませんが」
「あ、そうなんですか。まあ認定は別ラインなので」
紙コップの縁から湯気が上がっていた。インスタントの、粉っぽい匂いがする。
「じゃあ、お疲れさまです」
彼は行ってしまった。
綿貫は廊下に立っていた。壁に協会の標語が貼ってある。『安全は、ひとりひとりの手のなかに』。何年前から貼ってあるのか、四隅が丸まっていた。
認定が先に出る。報告書は差し戻されたままである。順序が逆だが、規程上はどこも間違っていない。認定は安全管理本部が行い、調査室の文書は参考資料だからだ。参考にするかどうかは、参考にする側が決める。
「綿貫さん?」
陣内が追いついてきた。
綿貫は歩き出していた。
「あの、どこ行くんですか」
「行ってきます」
「いや、それ、行き先じゃないです」
◇
さいたま市のアパートは、線路沿いにあった。
三階建ての、外廊下に洗濯機が並んでいる建物である。風が強い日で、誰かのシーツがベランダで鳴っていた。二階の突き当たりが二〇八号室だと、返却手続きの書類に書いてあった。
綿貫は外階段の踊り場で止まった。
そこから動かなかった。
「行かないんですか」
陣内が下の段から見上げている。
「何を言うか、決まっていません」
「え」
「決まっていません」
風が階段を吹き抜けた。近くの踏切が鳴りはじめる。遮断機の音が、金属の板を叩くように響いた。
十九年、この階段を何度も上っている。場所は違う。建物も違う。上る前に立ち止まる時間だけが、いつも同じだった。台詞は毎回、頭の中では完成している。順番も、言い方も。それが階段の途中で全部ばらける。ばらけたまま上ると、手続きの説明しかできない。
「じゃあ」
陣内が言った。
「決めないで行けばいいじゃないですか」
綿貫は振り返った。
二十六歳が、そこに立っている。三日前に遺族の前で頭を下げた男が、まだ何も分かっていない顔で、そう言った。
「決めてから行くから、間に合わないんですよ。たぶん」
「経験ですか」
「広報にいたとき、謝罪文を何十本も書きました。上に出す前に三回直して、法務に見せて、また直して」陣内が階段の錆を指でこすった。「全部、完璧な文章になりました」
「はい」
「僕、一本も間に合わせられなかったです。出るころには、相手はもう別のことで怒ってるので」
踏切が鳴り止んだ。
綿貫は上着の裾を、一度だけ直した。
◇
三嶋果穂は、書類を持ったままドアを開けた。
A4の封筒と、ボールペン。彼女は手に持ったものを隠さなかった。隠すという発想がないのだと思う。玄関の三和土に、女物の靴が二足だけ並んでいる。もう一足あったはずのものは、ない。
「先日はどうも」
「突然すみません。回収品の件ではありません」
「そうですか」
彼女はドアを閉めなかった。閉めるつもりもないが、招き入れるつもりもない。その幅で立っている。
綿貫は封筒を見た。認定を受け入れる書類である。署名欄の位置まで分かる。四十一回、同じ様式を見ている。
「三点、お伝えしたいことがあります」
「はい」
「弟さんが使っていたロープが、切れています。切れた場所が、上でした」
果穂の目が、少しだけ動いた。
「上、というのは」
「ロープの、確保器に近いほうです。人の手から遠いほうです」
「……はい」
「ロープは、引かれたほうに負けます。自分が落ちて、下に引かれて切れたのなら、切れるのは手元に近いところです」
風が廊下を吹いて、洗濯機のホースが壁を叩いた。
「上で切れているということは、上に支点があって、下から引かれたということです」
果穂は動かない。
「弟さんは、落ちていません。落ちる側ではなく、支える側にいました」
彼女の指が、封筒の角を握った。紙が少し歪んだ。
「二つ目です。確保器が、一回で潰れています。じわじわではありません。一瞬です。誰かの体重が、落ちる速さで乗ったということです」
「……」
「三つ目。行動食が、四食分そのまま残っていました。長く潜るつもりの人は、こういう持ち方をしません」
綿貫は、そこで言葉を切った。
言うべきことは、あと一行だった。頭の中では完成している。四百字なら書ける。彼はいつでも書ける。
「彼は逃げていません」
自分の声が、思ったより小さかった。
果穂は何も言わなかった。
泣かなかった。怒鳴らなかった。ただ、封筒を両手で持ち直した。持ち直して、そのまま胸のあたりで止めた。
その持ち方を、綿貫は知っている。落としてはいけないものを持つときの持ち方だ。回収品を袋に入れて運ぶとき、若い職員が同じことをする。中身が壊れないようにではなく、自分の手を信用していないから、両手で持つ。
踏切がまた鳴りはじめた。三回、遮断機の音が響いて、電車が過ぎていく。
「そうですか」
それだけだった。
長い時間が経ったように思えたが、実際は十秒ほどだろう。
「あの」
果穂が言った。
「その報告書、私は読めないんですよね」
綿貫は答えられなかった。
報告書は非公開である。係争の可能性がある案件については、遺族にも開示しない。規程にそう書いてある。彼女が弟の死について公式に知ることができるのは、明日出る認定文の一枚だけだった。そこには『本人の重大な過失』と書いてある。
「読めません」
「はい」
彼女は、それを聞いても表情を変えなかった。知っていたのだと思う。事故から二週間のあいだに、彼女は同じ種類の返事を何度も受け取っている。所定の様式がございません、そちらは所管が異なります、係争の可能性がある案件ですので。全部、正しい日本語である。正しい日本語を並べると、人は何も知らないままにできる。
「それと」
果穂は封筒を見た。
「それを認めると、三割、減るんですよね」
◇
ドアが閉まる音は、静かだった。
「ありがとうございました」と彼女は言った。丁寧に頭を下げた。そのあいだも封筒は両手にあった。
綿貫は閉まったドアの前に立っていた。
言うつもりだった続きが、まだ喉のところにある。書類のこと、これから何をするつもりかということ、時間はかかるが方法はあるかもしれないということ。全部、言えなかった。
「綿貫さん」
陣内が階段の下から呼んだ。
外廊下を歩き、階段を降りはじめる。手すりに手を置いたところで、綿貫は一度止まった。それから降りた。
錆の浮いた手すりに、指の跡が残った。綿貫はそれを見てから、手を下ろした。
陣内が下で待っている。何も言わない。
「あれ、意味なかったってことですか」
「分かりません」
「だって、あの人」
「分かりません」
風が強くなっていた。シーツがまだ鳴っている。
二階の突き当たりで、紙をめくる音がした。
封筒から、書類を出す音だった。署名欄の位置は、四十一回見ている。
三嶋果穂は、ボールペンの先をそこに置いた。
置いたまま、その日は、書かなかった。
綿貫は、それを知らない。




