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第3話 生き残った男

「弟の、荷物はいつ返してもらえるんでしょうか」


三嶋果穂の第一声は、それだった。


受話器を置いて、階段を降りて、衝立の内側に椅子を出すまでが四分だった。応接と呼んでいるが、実際には打ち合わせ用の隅を仕切っただけの場所である。安いパイプ椅子が四脚。壁に第七区画の断面図が貼ってあって、色が褪せている。外の雨は夕方から降り続いていて、分室の中は湿っていた。


三月五日、十九時二十分。協会の公式発表がウェブに出てから、二十分しか経っていない。


「回収品は、調査が終わるまでお返しできません」


「そうですか」


彼女は膝の上でハンカチを畳み直した。二十六歳。ドラッグストアの制服のまま来たらしく、名札を外した跡が胸に残っている。目の下が黒い。それだけが、彼女がどういう二週間を過ごしたかを示していた。


真実を聞きに来たのではない、と綿貫は理解した。


遺族が最初に求めるのは、たいてい手続きである。役所の窓口で何を出せばいいのか、保険はいつ下りるのか、荷物はどこにあるのか。悲しみは後から来る。目の前の書類を片づけないと、悲しむ時間が作れない。


「調査というのは、どのくらいかかるものですか」


「私の分は、もう出しています。認定は別の部署です」


「別」


「協会の安全管理本部です」


「そちらに聞けば、返してもらえますか」


「そちらは、回収品を持っていません」


果穂の指がハンカチの角で止まった。何かを言おうとして、やめた。彼女は分室を見回した。蛍光灯が一本切れたままの天井、灰色のファイルが四段、机の上の書類の高さ。


「あの」


「はい」


彼女は言葉を選んでいる。綿貫は待った。待つのは得意である。


「弟は、そんなに器用な子じゃなくて」


そこで一度、息を吸う音がした。


「無理なんて、できる子じゃないんです」


綿貫は口を開いた。開いて、閉じた。


言うべきことは頭の中にある。ロープのこと、確保器のこと、四食分の行動食のこと。順番も決まっている。文章にすれば四百字で足りる。四百字なら、彼はいつでも書ける。


声にならなかった。


現場では詰まったことがない。壊れた金具の前でなら、いくらでも喋れる。相手が生きていて、こちらを見ていて、その人の家族が死んでいるとき、彼の口は動かなくなる。十九年やって、この一点だけが上達しなかった。報告書なら書ける。書けるものを、声にする回路がどこかで切れている。


沈黙が三秒続いたところで、陣内が立ち上がって頭を下げた。


「お預かりしているものは、必ずお返しします」


果穂は陣内を見て、それから綿貫を見た。もう一度ハンカチを畳んで、鞄に入れた。


「お忙しいところ、すみませんでした」


彼女が出ていったあと、綿貫は自分の椅子に座らなかった。しばらく衝立の前に立っていた。


十九年で、四百十二通。遺族と話したのは、そのうちの何割になるだろう。数えたことはない。数えても、上手くなっていない。



二日後。


草加のアパートは、駅から十五分歩いた先にあった。


二階建ての、外階段が錆びている建物である。二〇三号室。呼び鈴を押すと、中で人の動く音がして、それからドアがチェーンの幅だけ開いた。


「協会の方ですか」


「災害調査室の綿貫です」


「もう終わったことだろ」


砂子悌の顔は、隙間の暗がりでよく見えなかった。声は大きい。大きいのに、語尾が下がる。


怒鳴る人間と、怯えて声が大きくなる人間は、息の使い方が違う。怒鳴るほうは息を吐きながら喋る。怯えるほうは吸ったまま喋るので、語尾で急に力が抜ける。現場でよく聞く声だった。


「聴取は受けた。何回来るんだよ」


「協会の聴取とは別です。私は認定をする部署ではありません」


「同じだろ、そんなの」


「違います。私は、何が起きたかだけを調べます」


「知らねえよ」


チェーンが動いた。閉まる方向に。


「一つだけ、お聞きします」綿貫はドアの前から動かなかった。「撤退を始めたのは、何時何分でしたか」


沈黙があった。ドアの向こうで、部屋の奥のほうから物音がした。テレビの音か、それとも別の何かか。


「……二十時二十分」


「ありがとうございました」


綿貫は頭を下げた。それ以上は何も聞かなかった。ドアが閉まる。鍵の回る音が二回した。


外階段を下りながら、陣内が振り返った。


「今の、それだけですか」


「はい」


「わざわざ来て、一個ですか」


「一個で足ります」



「二十時十八分です」


路上に出て、綿貫はスマートフォンの画面を陣内に見せた。二日前に解析した、携行記録器の記録である。


「記録は二十時十八分。あの人は二十時二十分と言いました」


「二分ですよね」


「二分です」


「いや、それ、普通に言い間違いじゃないですか」陣内が首を傾げる。「二週間前ですよ。しかも人が死んでる現場で、時計なんか見てないでしょ。僕だって自分が何時に家出たか、正確には言えないですし」


「そうかもしれません」


「え、認めるんですか」


「ありえます。だから、これだけでは何も言えません」


綿貫は画面を消した。三月の風が、雑居ビルの隙間を抜けてくる。埃と、どこかの店の油の匂いが混じっていた。


「もう一つあります」


「何ですか」


「靴です」


陣内が来た道を振り返った。


二〇三号室のドアの外、共用廊下の隅に、作業靴が一足置いてあった。探索者が使う、爪先に補強の入ったやつである。綿貫は階段を下りるときに横目で見ている。


「泥がついていました」


「まあ、そういう仕事ですよね」


「色が違います」


陣内が黙った。


区画ごとに、床の色は違う。第七区画の浅い層は粘土質で赤みが強く、深くなるにつれて石灰の白に変わる。探索者は毎日それを踏んでいるので、自分の靴の色を気にしない。気にする理由がないからだ。区画に入らない人間が見て初めて、その色は情報になる。


「第七区画の十二層は石灰質です。白い。乾くともっと白くなります」綿貫はポケットから手帳を出した。「あの靴についていたのは、赤褐色でした」


「……別の場所ってことですか」


「そう見えます」


「じゃあ、あの人、噓ついてるってことですよね。なんでですか」


綿貫は手帳を開いたまま、しばらく答えなかった。


「分かりません」


「え」


「それは、物からは出ません」


陣内が口を開けて、閉じた。二日前、十二層で同じ答えを聞いている。


「じゃあ、どうするんですか」


「訊きに行くしかありません」


「今のあれで?」


「何度でもです」


綿貫は手帳に一行だけ書いた。


日暮里で乗り換える電車の中で、陣内が窓の外を見ながら言った。


「あの、正直に言うと」


「はい」


「僕、この仕事、嫌われに行く仕事だと思ってなかったです」


「そうですね」


「向いてる人、いるんですか、これ」


「いません」


綿貫はつり革を持ち直した。空いた手でスマートフォンを開き、第七区画の稼働情報を出す。十二層は四十八時間で再開している。八層は、規制解除の審査が保留のままだった。


指を止めた。


止めて、画面を閉じた。今は、それどころではない。



分室に戻ったのは十八時過ぎだった。


室岡はもう帰っている。ポットの電源が落ちていた。冷えた部屋に、廊下の自動販売機の低い唸りだけが届いていた。


綿貫は写真の撮り直し分をパソコンに取り込み、破断面を二方向から並べた。角度を変えると、繊維のほつれる向きがはっきりする。久我の指摘は正しかった。正しい指摘だけを、あの人はする。十九年、間違ったことを一度も言われていない。それが厄介だった。間違ったことを言われれば、直せる。


手帳を開いて、その日のページを見た。


一行だけ書いてある。


『砂子悌 作業靴 泥 赤褐色 —— 第七区画十二層 石灰質(白)』


意味は、まだ書いていない。


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