第2話 所見なし
「所見なし、で出しておくから」
安全管理本部の担当者は、綿貫の報告書を横に置いたまま言った。表紙をめくってもいない。
「読んでいただけましたか」
「読むよ。順番に」
窓の外は雨だった。虎ノ門の合同庁舎は十四階まであって、災害調査室にはこの建物に机がない。綿貫は月に二度、書類を持ってここへ来る。エレベーターの階数表示を見上げる時間が、いつも少し長く感じる。
会議室には四人いた。担当者、その上席、記録係、それから壁際に一人。
「その報告書だが」
声は静かだった。
「現場保存の要請書が、事後提出になっている」
久我昭平は、椅子から立たなかった。手元には何も置いていない。五十七歳。安全管理本部長。綿貫が十九年、四十一回、書類を突き返されてきた相手である。
「三月三日の二十二時十分に口頭で要請しました。文書は翌朝です」
「規程では事前だね」
「現場は七日で消えます。文書を作る時間はありませんでした」
「そうか」
久我が指を組んだ。責める調子はない。判決文を読み上げる人間の声でもない。強いて言えば、天気の話をするときの声に近い。
「なら、規程のほうを直す提案を出すといい。今の規程では、この報告書は受理できない。差し戻す」
紙が滑る音がした。担当者が報告書を綿貫のほうへ押し戻す。表紙に、雨で湿った指の跡が一つ残った。
手続きで返すのは、いちばん静かなやり方である。内容に触れないので、争点が生まれない。書いた側は反論しようがなく、返した側は何も否定していない。十九年で四十一回、綿貫の勧告はこの形で止まってきた。誰も嘘をつかず、誰も声を荒らげず、書類だけが往復する。
隣で、陣内がノートに何か書いている。会議が始まってから、彼はずっと書き続けていた。広報部で三年やっていたと聞いている。発言のない会議でも手が止まらないのは、そういう癖のつく部署なのだろう。
久我が席を立った。ドアの手前で足を止める。
「綿貫くん」
「はい」
「破断面の写真、角度が足りないな。次は二方向から撮ってくれ」
ドアが閉まった。
雨の音だけが残った。
◇
川口分室に戻ると、室岡が電気ポットの前に立っていた。
「差し戻しか」
「はい」
「まあ、そうだよなあ」
室長は湯呑みに湯を注ぎ、自分の席に戻った。六十二歳。定年まで一年半。十九年、綿貫の上司をやっている。
「言うだけは言っといたよ。予算のことも、人のことも」
「ありがとうございます」
「礼を言われるほどのことはしとらん」室岡は湯呑みを両手で持った。「先に言っとくがな。俺は君を守れんぞ。今回もだ」
「はい」
「それでもやるか」
「はい」
室岡は湯を一口飲んで、それきり黙った。
この人は嘘をつかない、と綿貫は思っている。守れない、と最初に言う上司は少ない。たいていは守るつもりだと言って、そのあとで守らない。室岡は十九年、同じことを同じ顔で言い続けている。だから恨む理由もなかった。
綿貫は写真を撮り直す段取りを立てはじめた。破断面はもう手元にある。二方向から撮るだけなら、今日の夕方には終わる。差し戻しの理由が写真の角度でないことは分かっているが、指摘そのものは正しかった。正しいから、直す。
陣内は書架の前にいた。昨夜からずっとそこにいる気がする。
「綿貫さん、これ、番号順に並んでますよね」
「はい」
「四百十二冊って、ちょっと想像がつかなくて。一冊、平均どのくらいなんですか」
「三十から六十ページです。添付を入れると倍になります」
陣内が一冊抜いて、開いた。すぐ閉じた。
「写真、けっこう」
「載せます」
「……人が写ってますよね」
「載せます」
彼はそれ以上言わなかった。ファイルを元の位置に、背表紙を揃えて戻した。揃え方が丁寧だった。
◇
携行記録器の解析には、午後いっぱいかかった。
装置そのものは煙草の箱ほどの大きさで、腰のベルトに留める。位置、深度、気温、装備の消費電力、それに音声を記録する。探索者はこれを嫌う。監視されている気分になるからだ。だが協会は携行を義務づけている。
綿貫が最初に見るのは、いつも記録の切れ目である。
「三月三日、二十時十八分」
画面を指した。陣内が椅子を引いて横に来る。
「ここで、手順の記録が入っています」
「手順の記録?」
「所定の退避手順を開始すると、装置が自動で記録します。訓練で覚えさせるので、みんな押します」
項目名が、素っ気ない書体で表示されていた。
『多人数確保退避手順(泊式)』
陣内の動きが止まった。
「泊って、泊玲司ですか」
「手順の名前です」
「いや、そうですけど。あの人の名前ですよね。三年前に亡くなった」
「そうです」
綿貫は画面をスクロールした。彼にとって、それは規程の別表に載っている文字列でしかない。十二層の退避手順は三種類あって、そのうちの一つがこう呼ばれている。名前がついているのは、考案者がいたからだ。それだけのことだった。
「僕、広報にいたとき、あの人の追悼特集を作ったんです」陣内が言う。「生存率の男、って。三十一パーセントを六十八パーセントにした人で、後輩を庇って亡くなって、それで」
「記録の話に戻ります」
「あ、はい」
泊玲司の名前は、この業界にいれば嫌でも耳に入る。表彰式、講習会、協会の広報誌の表紙。綿貫も三度だけ現場で会ったことがある。三度とも、相手は綿貫の顔を覚えていなかった。当然だ。S級探索者と、来るのが遅い部署の調査官では、立っている場所が違う。
「二十時十八分に手順が開始されています。そのあと」
綿貫は数字を送った。
「二十時十八分四十秒で、記録が途切れています」
「四十秒」
「はい」
陣内が画面を覗き込んだまま、しばらく黙った。
「あの、一応、確認なんですけど」
「はい」
「多人数って、書いてありますよね」
「書いてあります」
「協会の発表、単独潜行ですよね」
「そうです」
雨がまた強くなった。窓枠のどこかから、規則正しい間隔で水の落ちる音がする。この建物は雨漏りの位置が毎年変わる。
「一人でやる手順じゃないんですか、これ」
「一人ではできません」綿貫は画面を閉じた。「支える相手がいないと、始まりません」
◇
十九時に、協会の公式発表がウェブに出た。
陣内が先に見つけた。彼はそれを黙って読み、それから声を出さずにもう一度読んだ。
『本件は、探索者本人の実力不足による事故と判断されました。以上です』
見出しと三行の本文、担当部署名。それだけである。
綿貫はその文面を読み慣れていた。四十一回、同じ文章を読んでいる。単語がいくつか入れ替わるだけで、骨格は変わらない。
誰が書いても同じになる文章というのは、誰かが最初に型を作ったということだ。型があれば、書く人間は考えなくていい。考えないので、迷いも出ない。三時間で発表文が用意できる理由がそれである。効率がいい。効率のいい仕組みは、たいてい、そこに何が入るかを問わない。
「事故、って書いてありますね」
陣内が言った。
「はい」
「綿貫さん、書かないんですよね。それ」
「確定していないので」
「向こうは、もう確定してるってことですか」
「向こうは、決めています。確定と決定は違います」
陣内が画面から目を離さない。彼の指が、マウスの上で小さく動いていた。何かを確かめるように、同じ場所を行ったり来たりしている。
「この書式」
「はい」
「……いえ。なんでもないです」
内線が鳴った。
一階の受付からだった。この分室に外来があるのは珍しい。年に数えるほどしかない。
「三嶋様のご遺族の方が来られています。お姉様だそうです」
綿貫は受話器を持ったまま、まだ一行も直していない報告書の画面を閉じた。




