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第1話 上から切れたロープ

全30話、予約投稿でお届けします。楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけるとうれしいです。

「これは事故です。以上」


畑中がノートパソコンを閉じた。安い蝶番の音が、プレハブの中に短く響く。


十人ほどが座っていた。パイプ椅子が足りず、三人は壁際に立っている。灯油ストーブの上で薬缶が鳴りはじめていたが、誰も火を止めに行かなかった。二十二時十分。第七区画の管理棟は、人が一人死んでから二時間で、もう終わりの支度をしている。


「所見は明朝出します。稼働再開は四十八時間後で調整を——」


「では、なぜロープは上から切れているんですか」


綿貫修司は、立ったまま言った。


畑中の手が、閉じたパソコンの上で止まる。


「何ですか、それは」


「回収されたロープです。破断面が、確保器側にあります。上です」


部屋の空気が、一段だけ重くなった。ストーブの燃える音がやけに大きく聞こえる。壁際に立っていたクランの安全責任者が、綿貫のほうを見ないまま煙草の箱を握りつぶした。大野、という名札を胸につけている。


「失礼ですが、どちらの」


「災害調査室の綿貫です。現場保存を要請します」


「もう遺体は上がってますよ」


「遺体の話ではありません。装備の話です」


畑中が眉間を押さえた。若い。三十そこそこだろう。この男が悪いわけではない、と綿貫は思う。決められた手順を回しているだけだ。手順のほうが間違っている。


こういう部屋には、十九年で四百回以上入っている。人数と椅子の数を見れば、だいたいの結論は分かる。座れないほど人が集まる会議は結論が決まっていない。今夜は三人が立っていて、それでも三十分で終わろうとしている。決まっているのだ。誰かがどこかで、もう文章にしている。


「深度は十二層です。再構成の周期は七日。今夜と明日で、まだ読めます」


「読めますって、何をですか」


「何が起きたかを、です」


畑中の隣で、記録係の女性が手を止めた。彼女は綿貫の顔を見て、それから畑中の背中を見た。


「稼働は四十八時間後と申し上げました。それまでは触りません。それでいいですか」


「結構です」


「あと、ご遺族への連絡はこちらではやりません。広報を通します。そちらから直接というのは、控えていただけると」


「承知しています」


畑中がパソコンを鞄に入れながら、誰かに電話をかけはじめた。本部だろう。声を落としているつもりらしいが、プレハブは狭い。発表文、という単語が二度聞こえた。三時間前に死んだ人間について、もう文章の準備が始まっている。


綿貫は頭を下げて、ドアへ向かった。背中で椅子を引く音が続く。誰も引き止めなかった。


外に出ると、三月の空気が首筋に刺さった。工業団地の空き地に、水銀灯が三本。金網の向こうに立入禁止の看板が斜めに立っている。その足元で、若い男が両手をこすり合わせていた。


陣内律。異動して四日目の男である。


「あの、綿貫さん。今の、何だったんですか」


「現場保存の要請です」


「いや、そうじゃなくて。上から切れてるって、何がまずいんですか。一応、確認なんですけど、僕、まだ何も分かってないので、全部聞いていいですか」


綿貫はヘッドランプのゴムを直しながら、ゲートのほうを見た。


「入れば分かります」



十二層まで、降下路を四十分。


災害区域の中は、湿度が高い。石灰質の壁が呼吸しているような匂いがする。埃ではなく、雨のあとの石の匂いに近い。足音がよく響くので、探索者はここを嫌う者と好む者に分かれる、と昔よく言われた。


綿貫は好きでも嫌いでもなかった。十九年、ここには人が死んだ後にしか来ていない。


膝が、七層を過ぎたあたりで文句を言いはじめた。四十一だ、と自分に言い聞かせる。二十一のころは、この降下路を鼻歌まじりで下りていた。今は手すりの位置を目で探している。


十九年、潜っていない。正確に言えば、潜ってはいる。ただし人が死んだ後の場所にしか行かない。生きて動いている区画がどんな顔をしているのか、彼はもう長いこと見ていなかった。壁の色が記憶より白い気がする。それは記憶のほうが変わったのだろう。


下りるあいだ、陣内は一度も遅れなかった。二十六歳の膝は、まだ何も言わないらしい。


「再構成って、実際どのくらいなんですか」陣内が後ろからついてくる。「研修では数字だけ習ったので」


「浅いところは六時間です。一層から五層まで。ここは七日」


そのあいだに、区画は自分の形を戻す。崩れた岩は元の位置へ上がり、壁の傷は浅くなり、床に落ちたものは薄れて消える。二十一年前に最初の区画が現れて以来、埋めても掘っても構造が同じ形に戻ることだけが確認されていて、なぜそうなるのかは誰も説明できていない。協会の文書は、区域は自己同一性を維持する系である、と書いている。分からないものに名前をつけて、そのまま運用している。


戻らないものが、一つだけある。


「人間が持ち込んだものは、残ります」


「なんで、それだけなんですか」


「区画が戻すのは、区画のものだけだからです」


現場の手前で、綿貫は立ち止まった。


そのまま、動かない。


「綿貫さん?」


返事をしない。ランプの光を上に振り、天井の稜線をなぞる。次に床。奥へ二十メートル。手前へ戻して、右の壁の窪み。


一分。


「何してるんですか」


「見ています」


「見て、ますよね。何を」


「全体です」綿貫はようやく歩き出した。「先に全部見ておかないと、拾ったものがどこにあったか分からなくなります」


「写真、撮らないんですか」


「撮ります。あとで」


彼はポケットからスケッチブックを出した。表紙が角から擦り切れている。鉛筆を短く持って、天井から順に線を引きはじめた。


「写真は、私が何を見たかまでは残らないので」


陣内が何か言いかけて、やめた。


現場は、思ったより狭い。天井の一部が抜けて、瓦礫が斜めに積もっている。落ちてきた岩の断面は、もう角が丸くなりかけていた。あと六日でこれは消え、天井は塞がる。ここで人が死んだという痕跡は、六日後には一つも残らない。


そのことを、いつも同じ順序で考える。まず時間を数える。次に、残るものと残らないものを分ける。最後に、残るもののうち、どれが一番喋るかを決める。感傷はそのあとだ。そのあとは、たいてい来ない。


残っているのは、人間が持ち込んだものだけだった。


砕けたヘッドランプ。ロープ。行動食の包装が二つ。銀色の梱包材が、灰色の岩の上でひどく浮いて見える。この場所の色ではない。


綿貫は膝をついた。巻尺を出す。目盛りが擦れて、六十センチ付近が読めない。指で押さえて位置を覚え、瓦礫から壁までを測った。


「一メートル八十二」


陣内が慌ててノートを開く。


「もう一回いいですか」


「一メートル八十二。番号は、これから振ります」


彼はロープの端を拾い上げた。


切断面が、白く毛羽立っている。



「三嶋悠さん。二十二歳。E級」


綿貫は、拾ったものを順に並べていた。岩の平らな面が、そのまま作業台になる。


「協会の第一報は、無理な単独潜行です」


「聞きました」陣内が言う。「深度超過じゃないんですか。E級って五層までですよね。十二層って、七層ぶん違いますけど」


「同行者がいれば通ります。砂子悌さん、二十九歳、D級。生存しています。今、病院です」


「じゃあ単独じゃないじゃないですか」


「本人が先行した、という証言です」


「誰の証言ですか」


「砂子さんのです」


陣内が黙った。ランプの光が、少しだけ揺れた。


綿貫はロープの端を、その光の下に置いた。


「まず、これです」


「切れてますね」


「どこが切れているか、です」ロープをたぐって、確保器のほうへ指を滑らせる。「破断面は上。確保器の縁で切れています」


「それ、意味あります?」


言ってから、陣内が口を閉じた。


綿貫は気にしなかった。むしろ、聞かれたほうが早い。


「ロープは、引かれた方向に負けます。この人が自分で落ちて、下から引かれて切れたなら、切断面は手元寄りになります。擦れ方も違う。上で切れているということは、上に支点があって、下から荷重がかかったということです」


彼は一度、言葉を止めた。


「逃げる人間のロープは、こうは切れません」


陣内は何も言わなかった。息を吸って、吐いた。それだけだった。


「次です」


綿貫は確保器を持ち上げた。手のひらに乗る、鈍い色の塊。冷たい。表面に細かい傷が無数に走っていて、使い込まれているのが指の腹で分かる。持ち主は道具を大事にする人間だったらしい。


ランプを斜めに当てる。影で、歪みの向きが出た。


「正面から潰れています。じわじわではなく、一回で」


「一回」


「静かに体重をかけたなら、こんな潰れ方はしません。一瞬です」


「一瞬って、どのくらいの力ですか」


「分かりません。数字は、あとで実測します」


「今は分からないんですか」


「今は、順番しか分かりません」


綿貫は確保器を袋に入れた。三つ目を指す。銀色の包装が二つ。その横に、開封されていないものが四つ。


「行動食です。四食分、残っています」


「多いんですか」


「単独で深く行く人間は、こんなに残しません」ランプを一度消して、また点けた。電池の減りを見ている。「持って行くか、食べているかのどちらかです。四食分そのままというのは、予定が短かったということです」


「短い予定で、十二層まで来たってことですか」


「そう読めます」


綿貫は携行記録器を袋に入れた。外装に傷はない。中身は分室で読む。


それから、番号を振った三点を目で追った。順に見て、もう一度、逆から見る。


「順番を言います」


「え」


「二人は、短い予定でここに入りました。行動食の残りがそう言っています。途中で天井が抜けた。片方が落ちた。三嶋さんは落ちなかった。落ちていたら、ロープはこう切れない」


陣内の手からペンが滑って、岩の上で乾いた音を立てた。拾わなかった。


「三嶋さんは、上に支点を取って、下を支えました。そこに一回だけ、強い荷重がかかっています。確保器の潰れ方がそれです。ロープが縁で切れて、荷重が抜けた」


「抜けたら」


「支えていた側が、反動でどうなるかです。ここの天井は、一度抜けたあと二度目が来ています。瓦礫が二層に積もっているので」


彼は瓦礫の断面を指した。色の違う層が、確かに二つある。


「三嶋さんが落ちたのは、そのあとです」


通路の入口で、砂利を踏む音がした。


「それ、全部」陣内の声が掠れていた。「道具から出たんですか」


「道具しか残らないので」


「じゃあ、なんで来たんですかね。二十二歳で、E級で、五層までしか許可がなくて」


「分かりません」


「え」


「それは、物からは出ません」


綿貫はスケッチブックに戻り、三つの位置に番号を書き入れた。1、2、3。


「私に読めるのは、何が、どの順で、どっちから起きたかだけです。なぜここに来たのかも、誰を庇ったのかも、書いてありません。それは人に聞くしかない」


振り返ると、大野が通路の入口に立っていた。いつからいたのか分からない。目を合わせず、そのまま奥へ引き返していく。


来たときは、何か言うつもりだったはずだ。



川口分室に戻ったのは、三時四十分だった。


旧・検査センターの二階。蛍光灯が四本のうち一本切れていて、誰も替えない。電気ポットが空焚き防止で止まっている。綿貫はコンセントを抜いて、また挿した。室岡の席は暗い。室長は六十二で、夜には呼ばない。


回収品は十九点。番号を振るのは彼の仕事だった。他人には任せない。順番が変わると、位置が変わる。


袋を机に並べ、番号札を切り、一点ずつ照合していく。手順は十九年変わっていない。変えるとどこかで間違える。この作業のあいだだけは、部屋が静かになる。金属と紙とビニールの音しかしない。それが済むまで、彼は誰とも喋らない。


陣内は、机の島の反対側で書架を見上げていた。


「これ、全部ですか」


「はい」


「何年分ですか」


「十九年です」


灰色のファイルが、天井近くまで四段。背表紙に年と番号だけが書いてある。装飾は何もない。


綿貫は自分の机に戻り、パソコンを開いた。報告書の一行目を打つ。


『第七区画十二層における墜落死亡事象について』


陣内が横から画面を覗き込んだ。


「事象? 事故じゃなくて?」


「原因が確定していません」


「でも、人が落ちて死んでるんですよね」


「落ちたことは確定しています。それが事故かどうかは、まだ分かりません」


「違うんですか」


「違うかもしれない、というだけです」綿貫はキーを打つ手を止めなかった。「確定してから書きます」


陣内はしばらく黙って、それから書架のほうへ歩いていった。棚の下段に綴じられた索引がある。彼はそれを引き抜き、パイプ椅子に座って開いた。


十分ほど、紙をめくる音だけが続いた。


「綿貫さん」


「はい」


「この、勧告の欄って、採否が書いてありますよね」


「はい」


「四十一件、勧告が出てますけど」


綿貫はキーを打ち続けた。


「全部、不採用って書いてあります」


「はい」


「全部です」


「はい」


陣内は索引を閉じなかった。開いたまま、膝の上に置いている。


「じゃあ、四百通以上あるっていうのは」


「四百十二通です」綿貫はようやく手を止めた。「今書いているので、四百十三通目になります」


外を、始発が通る音がした。



回収品リストの清書に入ったのは、五時を回ってからだった。


陣内は仮眠室のパイプベッドで寝ている。この部署に仮眠室があるのは、二十四時間の呼び出しを受けるからだ。もっとも、呼び出す側は、来るのが誰かをあまり気にしていない。


窓の外が、少し白くなってきた。


書式に沿って十九点を打ち込んでいく。ヘッドランプ、破断面のあるロープ、行動食四食、携行記録器、手袋の片方。単位と数量。発見位置の座標。彼の書く回収品目録は、読む者がその場に立てるように書いてある。もっとも、読む者はいない。


遺族の欄に目が行った。姉が一人。両親は他界。それだけが書いてある。三嶋悠の家族について、協会の様式が求める情報はそれで全部だった。


様式というのは、書かなくていいことを決める仕組みでもある。どこで育ったか、なぜこの仕事を選んだか、姉と最後に何を話したか。そういう欄は最初からない。ないから、誰も書かない。書かないから、無かったことになる。


綿貫は姉の名前のところで、一度だけ手を止めた。三嶋果穂。二十六歳。連絡は広報が行う、と余白に赤で入っている。彼が電話をかけることは、規程上できない。


十七行目。


確保器を袋から出し、底面をライトに当てた。打刻された文字を、間違えないように一字ずつ確認する。


『確保器 一点 規格C 打刻 TA-0416』


打ち終えて、保存した。


椅子の背に体を預け、切れたままの蛍光灯を見上げる。


窓の下で、通勤の自転車が一台通った。この時間から動く人間がいる。彼らはこの部屋のことも、昨日死んだ二十二歳のことも知らない。ニュースは三十秒で流れて、明日には別のものになる。


十九年で四百十二通。番号を振ったのは、何点になるだろう。数えたことはない。数えても意味がない。ただ、番号を振ったものは全部、どこかの棚に残っている。人の記憶より、紙のほうが長く持つ。


そのうちの一点に、彼は前にも同じ番号を書いている。


三年前の六月。同じ区画の、もっと深いところで。


そのことに、綿貫はまだ気づいていない。


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