第1話 上から切れたロープ
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「これは事故です。以上」
畑中がノートパソコンを閉じた。安い蝶番の音が、プレハブの中に短く響く。
十人ほどが座っていた。パイプ椅子が足りず、三人は壁際に立っている。灯油ストーブの上で薬缶が鳴りはじめていたが、誰も火を止めに行かなかった。二十二時十分。第七区画の管理棟は、人が一人死んでから二時間で、もう終わりの支度をしている。
「所見は明朝出します。稼働再開は四十八時間後で調整を——」
「では、なぜロープは上から切れているんですか」
綿貫修司は、立ったまま言った。
畑中の手が、閉じたパソコンの上で止まる。
「何ですか、それは」
「回収されたロープです。破断面が、確保器側にあります。上です」
部屋の空気が、一段だけ重くなった。ストーブの燃える音がやけに大きく聞こえる。壁際に立っていたクランの安全責任者が、綿貫のほうを見ないまま煙草の箱を握りつぶした。大野、という名札を胸につけている。
「失礼ですが、どちらの」
「災害調査室の綿貫です。現場保存を要請します」
「もう遺体は上がってますよ」
「遺体の話ではありません。装備の話です」
畑中が眉間を押さえた。若い。三十そこそこだろう。この男が悪いわけではない、と綿貫は思う。決められた手順を回しているだけだ。手順のほうが間違っている。
こういう部屋には、十九年で四百回以上入っている。人数と椅子の数を見れば、だいたいの結論は分かる。座れないほど人が集まる会議は結論が決まっていない。今夜は三人が立っていて、それでも三十分で終わろうとしている。決まっているのだ。誰かがどこかで、もう文章にしている。
「深度は十二層です。再構成の周期は七日。今夜と明日で、まだ読めます」
「読めますって、何をですか」
「何が起きたかを、です」
畑中の隣で、記録係の女性が手を止めた。彼女は綿貫の顔を見て、それから畑中の背中を見た。
「稼働は四十八時間後と申し上げました。それまでは触りません。それでいいですか」
「結構です」
「あと、ご遺族への連絡はこちらではやりません。広報を通します。そちらから直接というのは、控えていただけると」
「承知しています」
畑中がパソコンを鞄に入れながら、誰かに電話をかけはじめた。本部だろう。声を落としているつもりらしいが、プレハブは狭い。発表文、という単語が二度聞こえた。三時間前に死んだ人間について、もう文章の準備が始まっている。
綿貫は頭を下げて、ドアへ向かった。背中で椅子を引く音が続く。誰も引き止めなかった。
外に出ると、三月の空気が首筋に刺さった。工業団地の空き地に、水銀灯が三本。金網の向こうに立入禁止の看板が斜めに立っている。その足元で、若い男が両手をこすり合わせていた。
陣内律。異動して四日目の男である。
「あの、綿貫さん。今の、何だったんですか」
「現場保存の要請です」
「いや、そうじゃなくて。上から切れてるって、何がまずいんですか。一応、確認なんですけど、僕、まだ何も分かってないので、全部聞いていいですか」
綿貫はヘッドランプのゴムを直しながら、ゲートのほうを見た。
「入れば分かります」
◇
十二層まで、降下路を四十分。
災害区域の中は、湿度が高い。石灰質の壁が呼吸しているような匂いがする。埃ではなく、雨のあとの石の匂いに近い。足音がよく響くので、探索者はここを嫌う者と好む者に分かれる、と昔よく言われた。
綿貫は好きでも嫌いでもなかった。十九年、ここには人が死んだ後にしか来ていない。
膝が、七層を過ぎたあたりで文句を言いはじめた。四十一だ、と自分に言い聞かせる。二十一のころは、この降下路を鼻歌まじりで下りていた。今は手すりの位置を目で探している。
十九年、潜っていない。正確に言えば、潜ってはいる。ただし人が死んだ後の場所にしか行かない。生きて動いている区画がどんな顔をしているのか、彼はもう長いこと見ていなかった。壁の色が記憶より白い気がする。それは記憶のほうが変わったのだろう。
下りるあいだ、陣内は一度も遅れなかった。二十六歳の膝は、まだ何も言わないらしい。
「再構成って、実際どのくらいなんですか」陣内が後ろからついてくる。「研修では数字だけ習ったので」
「浅いところは六時間です。一層から五層まで。ここは七日」
そのあいだに、区画は自分の形を戻す。崩れた岩は元の位置へ上がり、壁の傷は浅くなり、床に落ちたものは薄れて消える。二十一年前に最初の区画が現れて以来、埋めても掘っても構造が同じ形に戻ることだけが確認されていて、なぜそうなるのかは誰も説明できていない。協会の文書は、区域は自己同一性を維持する系である、と書いている。分からないものに名前をつけて、そのまま運用している。
戻らないものが、一つだけある。
「人間が持ち込んだものは、残ります」
「なんで、それだけなんですか」
「区画が戻すのは、区画のものだけだからです」
現場の手前で、綿貫は立ち止まった。
そのまま、動かない。
「綿貫さん?」
返事をしない。ランプの光を上に振り、天井の稜線をなぞる。次に床。奥へ二十メートル。手前へ戻して、右の壁の窪み。
一分。
「何してるんですか」
「見ています」
「見て、ますよね。何を」
「全体です」綿貫はようやく歩き出した。「先に全部見ておかないと、拾ったものがどこにあったか分からなくなります」
「写真、撮らないんですか」
「撮ります。あとで」
彼はポケットからスケッチブックを出した。表紙が角から擦り切れている。鉛筆を短く持って、天井から順に線を引きはじめた。
「写真は、私が何を見たかまでは残らないので」
陣内が何か言いかけて、やめた。
現場は、思ったより狭い。天井の一部が抜けて、瓦礫が斜めに積もっている。落ちてきた岩の断面は、もう角が丸くなりかけていた。あと六日でこれは消え、天井は塞がる。ここで人が死んだという痕跡は、六日後には一つも残らない。
そのことを、いつも同じ順序で考える。まず時間を数える。次に、残るものと残らないものを分ける。最後に、残るもののうち、どれが一番喋るかを決める。感傷はそのあとだ。そのあとは、たいてい来ない。
残っているのは、人間が持ち込んだものだけだった。
砕けたヘッドランプ。ロープ。行動食の包装が二つ。銀色の梱包材が、灰色の岩の上でひどく浮いて見える。この場所の色ではない。
綿貫は膝をついた。巻尺を出す。目盛りが擦れて、六十センチ付近が読めない。指で押さえて位置を覚え、瓦礫から壁までを測った。
「一メートル八十二」
陣内が慌ててノートを開く。
「もう一回いいですか」
「一メートル八十二。番号は、これから振ります」
彼はロープの端を拾い上げた。
切断面が、白く毛羽立っている。
◇
「三嶋悠さん。二十二歳。E級」
綿貫は、拾ったものを順に並べていた。岩の平らな面が、そのまま作業台になる。
「協会の第一報は、無理な単独潜行です」
「聞きました」陣内が言う。「深度超過じゃないんですか。E級って五層までですよね。十二層って、七層ぶん違いますけど」
「同行者がいれば通ります。砂子悌さん、二十九歳、D級。生存しています。今、病院です」
「じゃあ単独じゃないじゃないですか」
「本人が先行した、という証言です」
「誰の証言ですか」
「砂子さんのです」
陣内が黙った。ランプの光が、少しだけ揺れた。
綿貫はロープの端を、その光の下に置いた。
「まず、これです」
「切れてますね」
「どこが切れているか、です」ロープをたぐって、確保器のほうへ指を滑らせる。「破断面は上。確保器の縁で切れています」
「それ、意味あります?」
言ってから、陣内が口を閉じた。
綿貫は気にしなかった。むしろ、聞かれたほうが早い。
「ロープは、引かれた方向に負けます。この人が自分で落ちて、下から引かれて切れたなら、切断面は手元寄りになります。擦れ方も違う。上で切れているということは、上に支点があって、下から荷重がかかったということです」
彼は一度、言葉を止めた。
「逃げる人間のロープは、こうは切れません」
陣内は何も言わなかった。息を吸って、吐いた。それだけだった。
「次です」
綿貫は確保器を持ち上げた。手のひらに乗る、鈍い色の塊。冷たい。表面に細かい傷が無数に走っていて、使い込まれているのが指の腹で分かる。持ち主は道具を大事にする人間だったらしい。
ランプを斜めに当てる。影で、歪みの向きが出た。
「正面から潰れています。じわじわではなく、一回で」
「一回」
「静かに体重をかけたなら、こんな潰れ方はしません。一瞬です」
「一瞬って、どのくらいの力ですか」
「分かりません。数字は、あとで実測します」
「今は分からないんですか」
「今は、順番しか分かりません」
綿貫は確保器を袋に入れた。三つ目を指す。銀色の包装が二つ。その横に、開封されていないものが四つ。
「行動食です。四食分、残っています」
「多いんですか」
「単独で深く行く人間は、こんなに残しません」ランプを一度消して、また点けた。電池の減りを見ている。「持って行くか、食べているかのどちらかです。四食分そのままというのは、予定が短かったということです」
「短い予定で、十二層まで来たってことですか」
「そう読めます」
綿貫は携行記録器を袋に入れた。外装に傷はない。中身は分室で読む。
それから、番号を振った三点を目で追った。順に見て、もう一度、逆から見る。
「順番を言います」
「え」
「二人は、短い予定でここに入りました。行動食の残りがそう言っています。途中で天井が抜けた。片方が落ちた。三嶋さんは落ちなかった。落ちていたら、ロープはこう切れない」
陣内の手からペンが滑って、岩の上で乾いた音を立てた。拾わなかった。
「三嶋さんは、上に支点を取って、下を支えました。そこに一回だけ、強い荷重がかかっています。確保器の潰れ方がそれです。ロープが縁で切れて、荷重が抜けた」
「抜けたら」
「支えていた側が、反動でどうなるかです。ここの天井は、一度抜けたあと二度目が来ています。瓦礫が二層に積もっているので」
彼は瓦礫の断面を指した。色の違う層が、確かに二つある。
「三嶋さんが落ちたのは、そのあとです」
通路の入口で、砂利を踏む音がした。
「それ、全部」陣内の声が掠れていた。「道具から出たんですか」
「道具しか残らないので」
「じゃあ、なんで来たんですかね。二十二歳で、E級で、五層までしか許可がなくて」
「分かりません」
「え」
「それは、物からは出ません」
綿貫はスケッチブックに戻り、三つの位置に番号を書き入れた。1、2、3。
「私に読めるのは、何が、どの順で、どっちから起きたかだけです。なぜここに来たのかも、誰を庇ったのかも、書いてありません。それは人に聞くしかない」
振り返ると、大野が通路の入口に立っていた。いつからいたのか分からない。目を合わせず、そのまま奥へ引き返していく。
来たときは、何か言うつもりだったはずだ。
◇
川口分室に戻ったのは、三時四十分だった。
旧・検査センターの二階。蛍光灯が四本のうち一本切れていて、誰も替えない。電気ポットが空焚き防止で止まっている。綿貫はコンセントを抜いて、また挿した。室岡の席は暗い。室長は六十二で、夜には呼ばない。
回収品は十九点。番号を振るのは彼の仕事だった。他人には任せない。順番が変わると、位置が変わる。
袋を机に並べ、番号札を切り、一点ずつ照合していく。手順は十九年変わっていない。変えるとどこかで間違える。この作業のあいだだけは、部屋が静かになる。金属と紙とビニールの音しかしない。それが済むまで、彼は誰とも喋らない。
陣内は、机の島の反対側で書架を見上げていた。
「これ、全部ですか」
「はい」
「何年分ですか」
「十九年です」
灰色のファイルが、天井近くまで四段。背表紙に年と番号だけが書いてある。装飾は何もない。
綿貫は自分の机に戻り、パソコンを開いた。報告書の一行目を打つ。
『第七区画十二層における墜落死亡事象について』
陣内が横から画面を覗き込んだ。
「事象? 事故じゃなくて?」
「原因が確定していません」
「でも、人が落ちて死んでるんですよね」
「落ちたことは確定しています。それが事故かどうかは、まだ分かりません」
「違うんですか」
「違うかもしれない、というだけです」綿貫はキーを打つ手を止めなかった。「確定してから書きます」
陣内はしばらく黙って、それから書架のほうへ歩いていった。棚の下段に綴じられた索引がある。彼はそれを引き抜き、パイプ椅子に座って開いた。
十分ほど、紙をめくる音だけが続いた。
「綿貫さん」
「はい」
「この、勧告の欄って、採否が書いてありますよね」
「はい」
「四十一件、勧告が出てますけど」
綿貫はキーを打ち続けた。
「全部、不採用って書いてあります」
「はい」
「全部です」
「はい」
陣内は索引を閉じなかった。開いたまま、膝の上に置いている。
「じゃあ、四百通以上あるっていうのは」
「四百十二通です」綿貫はようやく手を止めた。「今書いているので、四百十三通目になります」
外を、始発が通る音がした。
◇
回収品リストの清書に入ったのは、五時を回ってからだった。
陣内は仮眠室のパイプベッドで寝ている。この部署に仮眠室があるのは、二十四時間の呼び出しを受けるからだ。もっとも、呼び出す側は、来るのが誰かをあまり気にしていない。
窓の外が、少し白くなってきた。
書式に沿って十九点を打ち込んでいく。ヘッドランプ、破断面のあるロープ、行動食四食、携行記録器、手袋の片方。単位と数量。発見位置の座標。彼の書く回収品目録は、読む者がその場に立てるように書いてある。もっとも、読む者はいない。
遺族の欄に目が行った。姉が一人。両親は他界。それだけが書いてある。三嶋悠の家族について、協会の様式が求める情報はそれで全部だった。
様式というのは、書かなくていいことを決める仕組みでもある。どこで育ったか、なぜこの仕事を選んだか、姉と最後に何を話したか。そういう欄は最初からない。ないから、誰も書かない。書かないから、無かったことになる。
綿貫は姉の名前のところで、一度だけ手を止めた。三嶋果穂。二十六歳。連絡は広報が行う、と余白に赤で入っている。彼が電話をかけることは、規程上できない。
十七行目。
確保器を袋から出し、底面をライトに当てた。打刻された文字を、間違えないように一字ずつ確認する。
『確保器 一点 規格C 打刻 TA-0416』
打ち終えて、保存した。
椅子の背に体を預け、切れたままの蛍光灯を見上げる。
窓の下で、通勤の自転車が一台通った。この時間から動く人間がいる。彼らはこの部屋のことも、昨日死んだ二十二歳のことも知らない。ニュースは三十秒で流れて、明日には別のものになる。
十九年で四百十二通。番号を振ったのは、何点になるだろう。数えたことはない。数えても意味がない。ただ、番号を振ったものは全部、どこかの棚に残っている。人の記憶より、紙のほうが長く持つ。
そのうちの一点に、彼は前にも同じ番号を書いている。
三年前の六月。同じ区画の、もっと深いところで。
そのことに、綿貫はまだ気づいていない。




