1-9
俺は城戸の前に出た。
親父が何か言っている。聞こえない。
かわりに、親父の左手が上がるのが見えた。
中指と薬指が組んである。
来るな、という意味だ。俺が五つか六つのころから、そうだった。声を出さずに済む。人混みでも、暗くても、これだけは見える。
俺は見た。
見て、前に出た。
「なんだ、ガキ」
俺は、もう一度城戸の継ぎ目を見る。
客席で見たときと同じだ。新しくて、揃っていて、隙がない。首。胸。腰。脚。全部きれいにつながっている。
左肩だけ違う。
継ぎ目の色が新しい。流れがそこでわずかにつかえている。入れ替えたばかりで、まだ身体が慣れていないんだと思う。
目釘抜き。
そう呼べと言われて育った。
目釘っていうのは、刀の柄と刀身を留めている小さい釘のことらしい。抜くと、刀はばらばらになる。
指を一本。
城戸が笑って、腕を上げた。
上がりきる前に、俺は左肩の継ぎ目を打った。
指の第二関節。深さは一センチもない。それだけ。
指先で何かが外れる。錠前が一つ開いたみたいな、小さい手応え。
城戸の左半身が落ちた。
膝が片側だけ折れる。妙な倒れ方。自分の身体がどうなったのかわからない顔をしている。
「……生身か、お前」
「電話番だ」
俺は追わなかった。
倒す必要はない。二分もすれば戻る。二分あればいい。
二十三時五十七分。
俺は殴られていない。かすり傷もない。
だけど親父の顔は、さっき脇に拳をもらったときより蒼かった。
*
線の向こうで、鷺さんが踊っている。
俺は初めて、ちゃんと見た。
うまいのかどうかは、俺にはわからない。踊りを見たことがほとんどない。
ただ、継ぎ目のところで止まっていたものが、今夜は一度も止まっていない。
膝を越えて、脛を通って、爪先まで。行って、戻ってくる。行って、戻ってくる。
あれは、たぶん、脚が自分のものだということだと思う。
十二年、この人は自分の脚を運んできた。
舞台の上では違ったんだと思う。運ぶんじゃなくて、届いていた。爪先の先まで自分で、着地の音まで自分で決めていた。
今夜のこれが、たぶんそれだ。
ごみ箱の並んだ四メートルの路地で、スピーカーは割れていて、観客は二十人しかいない。そのうち何人かは泣いている。踊っているのは、あと何分かで脚を返す人だ。
それでも、俺が今まで見た中でいちばん明るかった。
路地は狭い。ネオンの反射が濡れたアスファルトに落ちて、踊るたびに割れる。花の線の内側だけが、少しだけ明るく見えた。
誰も喋らない。喋れないんだと思う。
年寄りが二十人と、回収代行が四人と、うちの親父。片腕を垂らして立っている。
膝をついた城戸も、見ていた。
灰色のスーツの女も。
彼女は途中で一度だけ腕時計を見て、それから最後まで何も言わなかった。
それから、人垣のいちばん後ろ。ごみ箱の陰に、また穴があった。
白いフード。みんなが線のほうを向いているのに、一人だけこっちを向いている。
踊りを見ているんじゃない気がした。たぶん、俺を見ている。
二十三時五十九分。
曲が終わる。
鷺さんが止まった。息が上がっている。片手で膝を押さえて、それから背筋を伸ばして、礼をした。
拍手。花。歓声はない。
誰かが泣いている。鷺さんは泣いていない。
*
零時。
灰色のスーツの女が一歩出た。
「お時間です。……申し訳ありません」
「ええ」
鷺さんは息を整えて、うなずいた。
それから、自分で線を越えた。
誰も押していない。誰も引っ張っていない。花をまたいで、二丁目の側へ戻る。一歩目で、継ぎ目の扉が閉まるのが見えた。
脚が止まる。
鷺さんは近くの木箱に腰を下ろした。慣れた動き方だった。何度もやっているんだと思う。
作業員が二人。工具の箱。左半身の戻った城戸が、左腕を回しながらその後ろに立った。
外す作業は、静かだった。
乱暴なところは何もない。手順どおりで、丁寧で、女の人が途中で二回、鷺さんに「痛みはありませんか」と訊いた。車椅子も本当に用意されていた。折りたたみの、新しいやつ。
工具の音。小さい。歯医者みたいな音。
留め具が四つ。左右で八つ。金具の色は銀。一つ外すごとに、脚が少しずつ鷺さんから離れていく。
俺は見ていた。目をそらさなかった。そらすほうが失礼だと思ったから。
流れは、さっきから太腿の継ぎ目で止まったままだ。
最後の留め具が外れる。脚が離れる。
継ぎ目の先には、もう何もない。
そこまでが、この人の身体だ。
箱に入る。蓋。
脚のない鷺さんが、花の中に座っていた。
誰も何も言わない。
鷺さんが手を伸ばして、線の上から花束を一つ拾った。白いやつ。
それを親父に差し出す。
「三百万の、頭金です」
「残りは」
「一生かけて払います」
「そうしろ」
親父は左手で受け取った。
右腕は、まだ垂れたまま。
城戸が俺の横を通った。肩が触れるくらいの距離で、一度だけ止まる。
「次は、ない」
それだけ言って、行った。
灰色のスーツの女が最後に出ていくとき、親父の前で足を止めた。
端末はもう鞄の中だ。仕事は終わっている。
「鷲津様」
「なんだ」
「……右腕、お大事に」
女の人はそれだけ言って、頭を下げた。
車が出ていく音を、俺は路地で聞いていた。
路地を見回す。穴は、もうなかった。
花は片づけない。誰も片づけようと言わなかったから、そのままにした。朝になれば清掃が持っていくと思う。
脚は返した。でも、あの四メートルで踊ったぶんは、返していない。




