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帳の外  ―まだ、俺のものじゃない―  作者: 佐和井 泥
第一話 踊り子は足を返さない

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1-10

 事務所に戻ったのは、午前二時を回ってからだった。


 親父の右腕は垂れたままだ。強制停止のあとは、再起動に半日かかる。昼には動く。それまでは、ただの重い棒。


 俺は流しでコップに水を汲んで、机に置く。親父は左手でそれを取った。


「来るなと言った」


 水を飲んでから、親父が言った。


 俺は返事をしなかった。今夜は、通りかかったとは言えない。鞄を開けて、帳面を出す。


「あんたの腕が止まってた」


「腕ならまた借りる」


「借りる金がどこにあんだよ」


 俺は言った。思ったより大きい声が出た。


「未収がいくらあるか知ってる? 俺は知ってる。毎月書いてるからな。あんた、去年の分だけで——」


「ハル」


 親父の声が低くなった。


 この声は知っている。年に一回か二回しか出ない声だ。


「お前の身体に、傷をつけるな」


 俺は帳面から顔を上げた。


「なんで」


 親父は答えない。


「なんでだよ。俺は怪我してない。かすり傷もない。あいつの左肩を一回触っただけだ。それのどこが——」


「風呂に入って寝ろ」


「答えろよ」


 俺は立った。


「あんた、いつも金の話ばっかりする。三百万とか、経費とか、飯代とか。それで一円も取らない。俺はそれを五年書いてる。何のために書いてると思ってんだ」


 親父は俺を見ない。


「怪我するなって言うなら、あんたが先にやめろよ。あんたの腕だって、次は——」


 そこで止めた。


 次は、の続きを言いたくなかった。言ったら本当になる気がする。


 親父が振り返る。


 何か言いかけて、やめて、それから短く言った。


「寝ろ」


 親父は立ち上がった。上着を左手で引っかけて、出ていく。


 飲みに行ったんだと思う。金はないはずだ。


 扉が閉まる音がして、それからビルが静かになった。


 天井から糸が下りてきた。


「坊や」


 八重(やえ)さんだった。いつから聞いていたのかはわからない。最初からだと思う。


「あの人、なんなんだよ」


 俺が言うと、八重(やえ)さんは応接の背に腰を下ろした。音がしない。


「怒らせたかな」


「怒ってたのはあんただろうね」


「そうかも」


 八重(やえ)さんはしばらく黙っていた。それから、糸を一本だけ指に巻く。


「坊や。あの人の言うことは、だいたい嘘だよ」


「知ってる」


「三百万も嘘。ツケでいいも嘘。来月払うも嘘」


「知ってる」


「でもね」


 八重(やえ)さんが俺を見た。


「さっきのだけは、嘘じゃないよ」


 俺は何も言えない。


 八重(やえ)さんは、それ以上は何も教えてくれなかった。糸をたぐって、天井へ戻っていく。途中で一度だけ止まって、こう言った。


「家賃、来月ね」


     *


 一人になってから、俺は帳面を開いた。


 今日の日付を書く。


 常磐座(ときわざ) 鷺(さぎ)


 未収 三百万


 受領 花束


 花束は、机の上のコップに挿してある。水は入れた。


 白いやつが一本と、名前の知らないのが何本か。包みの紙に、駅前の花屋の名前が印刷してある。


 この花は、あの爺さんが買ったやつかもしれない。誰のだったかは、もうわからない。線の上に十何束も並んでいたから。


 前の頁をめくった。焼き鳥が五本。その前は大根が二本で、その前は手編みのマフラー。子どもが描いた絵が挟まっている頁もある。


 もっと前は、親父の字だ。汚くて、数字だけ読める。


 総額を見た。


 未収を足すと、この事務所の家賃の十年ぶんを超える。それでも、この事務所はまだ潰れていない。八重(やえ)さんが待ってくれているからだ。八重(やえ)さんも同じ種類の人間なんだと思う。取り立てると言って、取り立てない。


 机の上の端末が鳴った。


 親父宛てだ。でも、ここにいるのは俺だけ。


 俺が先に読んだ。


 適合更新に伴う回収のご案内


 鷲津(わしづ)ダン様


 対象部位 右腕(旧規格・非適合)


 回収期日まで 九十日


 丁寧な文面。脅し文句はどこにもない。差出人の名前もちゃんと書いてある。担当者の連絡先も。何か不明な点があればお問い合わせくださいと書いてある。


 俺は画面を消さずに、しばらく見ていた。


 親父の右腕の、肩の継ぎ目。


 あそこがいちばん弱い。ずっと前から知っている。指一本で止められる。どこをどう打てばいいかも、目をつぶってでもわかる。


 毎日見えているから。


 九十日後、親父の右腕は親父のものじゃなくなる。


 ……いや。


 最初から、親父のものじゃなかったか。

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