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事務所に戻ったのは、午前二時を回ってからだった。
親父の右腕は垂れたままだ。強制停止のあとは、再起動に半日かかる。昼には動く。それまでは、ただの重い棒。
俺は流しでコップに水を汲んで、机に置く。親父は左手でそれを取った。
「来るなと言った」
水を飲んでから、親父が言った。
俺は返事をしなかった。今夜は、通りかかったとは言えない。鞄を開けて、帳面を出す。
「あんたの腕が止まってた」
「腕ならまた借りる」
「借りる金がどこにあんだよ」
俺は言った。思ったより大きい声が出た。
「未収がいくらあるか知ってる? 俺は知ってる。毎月書いてるからな。あんた、去年の分だけで——」
「ハル」
親父の声が低くなった。
この声は知っている。年に一回か二回しか出ない声だ。
「お前の身体に、傷をつけるな」
俺は帳面から顔を上げた。
「なんで」
親父は答えない。
「なんでだよ。俺は怪我してない。かすり傷もない。あいつの左肩を一回触っただけだ。それのどこが——」
「風呂に入って寝ろ」
「答えろよ」
俺は立った。
「あんた、いつも金の話ばっかりする。三百万とか、経費とか、飯代とか。それで一円も取らない。俺はそれを五年書いてる。何のために書いてると思ってんだ」
親父は俺を見ない。
「怪我するなって言うなら、あんたが先にやめろよ。あんたの腕だって、次は——」
そこで止めた。
次は、の続きを言いたくなかった。言ったら本当になる気がする。
親父が振り返る。
何か言いかけて、やめて、それから短く言った。
「寝ろ」
親父は立ち上がった。上着を左手で引っかけて、出ていく。
飲みに行ったんだと思う。金はないはずだ。
扉が閉まる音がして、それからビルが静かになった。
天井から糸が下りてきた。
「坊や」
八重さんだった。いつから聞いていたのかはわからない。最初からだと思う。
「あの人、なんなんだよ」
俺が言うと、八重さんは応接の背に腰を下ろした。音がしない。
「怒らせたかな」
「怒ってたのはあんただろうね」
「そうかも」
八重さんはしばらく黙っていた。それから、糸を一本だけ指に巻く。
「坊や。あの人の言うことは、だいたい嘘だよ」
「知ってる」
「三百万も嘘。ツケでいいも嘘。来月払うも嘘」
「知ってる」
「でもね」
八重さんが俺を見た。
「さっきのだけは、嘘じゃないよ」
俺は何も言えない。
八重さんは、それ以上は何も教えてくれなかった。糸をたぐって、天井へ戻っていく。途中で一度だけ止まって、こう言った。
「家賃、来月ね」
*
一人になってから、俺は帳面を開いた。
今日の日付を書く。
常磐座 鷺
未収 三百万
受領 花束
花束は、机の上のコップに挿してある。水は入れた。
白いやつが一本と、名前の知らないのが何本か。包みの紙に、駅前の花屋の名前が印刷してある。
この花は、あの爺さんが買ったやつかもしれない。誰のだったかは、もうわからない。線の上に十何束も並んでいたから。
前の頁をめくった。焼き鳥が五本。その前は大根が二本で、その前は手編みのマフラー。子どもが描いた絵が挟まっている頁もある。
もっと前は、親父の字だ。汚くて、数字だけ読める。
総額を見た。
未収を足すと、この事務所の家賃の十年ぶんを超える。それでも、この事務所はまだ潰れていない。八重さんが待ってくれているからだ。八重さんも同じ種類の人間なんだと思う。取り立てると言って、取り立てない。
机の上の端末が鳴った。
親父宛てだ。でも、ここにいるのは俺だけ。
俺が先に読んだ。
適合更新に伴う回収のご案内
鷲津ダン様
対象部位 右腕(旧規格・非適合)
回収期日まで 九十日
丁寧な文面。脅し文句はどこにもない。差出人の名前もちゃんと書いてある。担当者の連絡先も。何か不明な点があればお問い合わせくださいと書いてある。
俺は画面を消さずに、しばらく見ていた。
親父の右腕の、肩の継ぎ目。
あそこがいちばん弱い。ずっと前から知っている。指一本で止められる。どこをどう打てばいいかも、目をつぶってでもわかる。
毎日見えているから。
九十日後、親父の右腕は親父のものじゃなくなる。
……いや。
最初から、親父のものじゃなかったか。




