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帳の外  ―まだ、俺のものじゃない―  作者: 佐和井 泥
第二話 義眼は前の持ち主を見ている

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11/15

2-1

「夜になると、知らない部屋が見えるんです」


 夜中の二時に、八重(やえ)さんが子どもを一人連れて天井から下りてきた。


 連れて、というより膝に乗せて。八重(やえ)さんはいつもどおり椅子に座ったままの格好で糸を下りてくる。その膝の上にパジャマの男の子がしがみついていた。着物の袖を両手で握って、片方の目をぎゅっとつぶっている。


 その時間、親父は夜の仕事で出ていた。閉店まで店の前に立っているだけの、楽なほうの仕事だ。俺は事務所で電話番をしていた。今夜は本当に。


 机の上では帳面が開いたままだった。頁の端にちょうど七十六と書いたところだ。親父宛ての回収の通知が来てから、毎晩一つずつ減らしている数字。俺が数えていることを親父は知らない。たぶん。


 下りてきた男の子の顔には見覚えがあった。二階に住んでいる子だ。母親がパン工場の夜勤に出ていて、夜はいつも一人でいる。階段ですれ違うと、ちょっとだけ頭を下げる子。


 十歳くらい。背は俺の胸にも届かない。痩せていて、パジャマの袖が手首の上で終わっている。去年買ったのを今年も着ているんだと思う。髪は寝ぐせで後ろだけ立っていた。


「泣いてたからね。二階で、一人で」


 八重(やえ)さんが膝の上の子の背中を軽く叩いた。


 このビルの中で泣けば、八重(やえ)さんには聞こえる。糸がそういうふうに張ってある。


「コウ。坊やに、もう少し詳しく言ってごらん」


 コウは袖を握ったまま俺を見た。片目で。


「暗くすると、見える。窓があって、ベッドがあって、誰か寝てる」


「毎晩?」


「毎晩。同じ部屋」


「目をつぶっても?」


「つぶっても見える。右だけ」


 つぶっていた右目を、コウがそっと開けた。


 左の目は焦げ茶。右の目はそれより少しだけ明るい。並べるとわかるくらいの違いで、黙っていれば誰も気づかないと思う。


 右の目は義眼だった。


 俺はその目の継ぎ目を見る。


 義眼の縁と骨のあいだに境目がある。コウの身体の流れはそこまで来て、ふつうに中へ流れ込んでいた。止まってもいないし、詰まってもいない。


 ほかから流れ込んでいるものは、何もなかった。


 何かが取り憑いているなら、外から入ってくる流れがあるはずだ。今もコウの両手は、八重(やえ)さんの袖に触れたところだけ流れの色が少し違って見える。怪異(かいい)が混じると、そうなる。右目にはそれがない。


 ただ、継ぎ目の形が少しだけ合っていなかった。


 縁を削って、詰め物をして、無理に収めてある。大人の目を子どもの顔に合わせたんだと思う。


「怪異(かいい)じゃない」


 俺が言うと、コウの肩が少し下がった。


「じゃあ、なんだい」


「機械だと思う。目のほうの」


 八重(やえ)さんは何か考えるように、糸を一本だけ指に巻いた。


「見えてるもの、もう少し教えてくれ」


 俺は机の灯りを消した。天井の灯りも消す。窓の外のネオンの色だけが、床に薄く落ちている。


 コウが息を止めたのがわかった。


「……見える」


「窓の外は」


「白いのがある。細長いの。遠くて、小さい」


 塔だ。この街で窓から見える白くて細長いものは一つしかない。コウが塔だと気づかないくらい小さく見えているらしい。


「ほかには」


「看板。光ってる字の。……一個だけ、光ってない」


「ベッドの人は」


「寝てる。口あけて」


 そこまで聞いて、灯りをつけた。コウは右目を何度もこすった。


 部屋は見えなくなったらしい。肩から力が抜けていくのが、流れでわかった。


「坊やに見てもらってよかったね、コウ」


 八重(やえ)さんの言葉にコウはうなずいた。それから俺の机の上の帳面を見た。


「それ、何書いてるの」


「借金」


「だれの」


「みんなの」


 コウはよくわからない顔をした。


 その夜、コウは事務所のソファで寝た。灯りをつけたままなら、部屋は見えないらしい。


「二階でも、つけたまま寝ればいいだろ」


「電気、高いから」


 コウは少し黙ってから付け足した。


「お母さんには、つけて寝てるって言ってる」


 座面の沈んだソファで膝を胸より高くして、コウはすぐに寝息を立て始めた。


 それを見届けてから、八重(やえ)さんは糸をたぐって天井へ戻っていった。


 俺は灯りを消さないまま、帳面の続きをつけた。


 眠っているあいだも、コウの右のまぶただけがときどき小さく動く。


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