2-1
「夜になると、知らない部屋が見えるんです」
夜中の二時に、八重さんが子どもを一人連れて天井から下りてきた。
連れて、というより膝に乗せて。八重さんはいつもどおり椅子に座ったままの格好で糸を下りてくる。その膝の上にパジャマの男の子がしがみついていた。着物の袖を両手で握って、片方の目をぎゅっとつぶっている。
その時間、親父は夜の仕事で出ていた。閉店まで店の前に立っているだけの、楽なほうの仕事だ。俺は事務所で電話番をしていた。今夜は本当に。
机の上では帳面が開いたままだった。頁の端にちょうど七十六と書いたところだ。親父宛ての回収の通知が来てから、毎晩一つずつ減らしている数字。俺が数えていることを親父は知らない。たぶん。
下りてきた男の子の顔には見覚えがあった。二階に住んでいる子だ。母親がパン工場の夜勤に出ていて、夜はいつも一人でいる。階段ですれ違うと、ちょっとだけ頭を下げる子。
十歳くらい。背は俺の胸にも届かない。痩せていて、パジャマの袖が手首の上で終わっている。去年買ったのを今年も着ているんだと思う。髪は寝ぐせで後ろだけ立っていた。
「泣いてたからね。二階で、一人で」
八重さんが膝の上の子の背中を軽く叩いた。
このビルの中で泣けば、八重さんには聞こえる。糸がそういうふうに張ってある。
「コウ。坊やに、もう少し詳しく言ってごらん」
コウは袖を握ったまま俺を見た。片目で。
「暗くすると、見える。窓があって、ベッドがあって、誰か寝てる」
「毎晩?」
「毎晩。同じ部屋」
「目をつぶっても?」
「つぶっても見える。右だけ」
つぶっていた右目を、コウがそっと開けた。
左の目は焦げ茶。右の目はそれより少しだけ明るい。並べるとわかるくらいの違いで、黙っていれば誰も気づかないと思う。
右の目は義眼だった。
俺はその目の継ぎ目を見る。
義眼の縁と骨のあいだに境目がある。コウの身体の流れはそこまで来て、ふつうに中へ流れ込んでいた。止まってもいないし、詰まってもいない。
ほかから流れ込んでいるものは、何もなかった。
何かが取り憑いているなら、外から入ってくる流れがあるはずだ。今もコウの両手は、八重さんの袖に触れたところだけ流れの色が少し違って見える。怪異が混じると、そうなる。右目にはそれがない。
ただ、継ぎ目の形が少しだけ合っていなかった。
縁を削って、詰め物をして、無理に収めてある。大人の目を子どもの顔に合わせたんだと思う。
「怪異じゃない」
俺が言うと、コウの肩が少し下がった。
「じゃあ、なんだい」
「機械だと思う。目のほうの」
八重さんは何か考えるように、糸を一本だけ指に巻いた。
「見えてるもの、もう少し教えてくれ」
俺は机の灯りを消した。天井の灯りも消す。窓の外のネオンの色だけが、床に薄く落ちている。
コウが息を止めたのがわかった。
「……見える」
「窓の外は」
「白いのがある。細長いの。遠くて、小さい」
塔だ。この街で窓から見える白くて細長いものは一つしかない。コウが塔だと気づかないくらい小さく見えているらしい。
「ほかには」
「看板。光ってる字の。……一個だけ、光ってない」
「ベッドの人は」
「寝てる。口あけて」
そこまで聞いて、灯りをつけた。コウは右目を何度もこすった。
部屋は見えなくなったらしい。肩から力が抜けていくのが、流れでわかった。
「坊やに見てもらってよかったね、コウ」
八重さんの言葉にコウはうなずいた。それから俺の机の上の帳面を見た。
「それ、何書いてるの」
「借金」
「だれの」
「みんなの」
コウはよくわからない顔をした。
その夜、コウは事務所のソファで寝た。灯りをつけたままなら、部屋は見えないらしい。
「二階でも、つけたまま寝ればいいだろ」
「電気、高いから」
コウは少し黙ってから付け足した。
「お母さんには、つけて寝てるって言ってる」
座面の沈んだソファで膝を胸より高くして、コウはすぐに寝息を立て始めた。
それを見届けてから、八重さんは糸をたぐって天井へ戻っていった。
俺は灯りを消さないまま、帳面の続きをつけた。
眠っているあいだも、コウの右のまぶただけがときどき小さく動く。




