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明け方に親父が帰ってきた。
俺は机に突っ伏して、半分寝ていた。扉の開く音で目が覚める。顔は上げないで、腕の隙間から見ていた。
灯りのついたままの部屋を見回して、親父はソファの前で止まった。
コウが寝ている。膝を胸より高くして、口を少し開けて。
親父はしばらくそこに立っていた。
何をしているのかはわからない。見ているだけだ。大きな身体がソファの前で動かない。右の肘の駆動音だけがときどき小さく鳴る。
それから上着を脱いで、左手だけでコウにかけた。片袖しかない革の上着は、十歳の子どもにはちょうど毛布くらいの大きさ。
親父は自分の椅子に座って、腕を組んで目をつぶった。
俺は最後まで顔を上げなかった。
朝になって、コウの母親が迎えに来た。
夜勤明けで、白い作業帽をまだ手に持っている。三十代の半ばくらい。小柄で、帽子の縁の跡が額に赤く残っていた。作業着の袖口には乾いた小麦粉がこびりついている。両手の甲に古い火傷の痕がいくつもあって、窯の前で働く人の手だと思った。
義体は一つも見えない。身体の端から端まで、まんべんなく明るい。
その両手で紙の箱を抱えていた。
「ミツエです。二階の。……この子が、ご迷惑を」
ミツエさんは何度も頭を下げて、箱を机に置いた。蓋の隙間から、焼いたバターの匂い。
親父は首を回しながら冷蔵庫を開けて、何もないのを確かめて閉めた。いつもの朝だ。
コウのことは、ミツエさんが来る前に親父に話してあった。目の継ぎ目が合っていないことも。話したのはそれだけだ。あの夜から二週間、親父とは喧嘩の続きをしていない。どっちからも言い出さない。親父は右腕のことを言わないし、俺は通知のことを言わない。
「目の話だな」
親父が椅子に座り直した。コウはまだソファで丸くなっている。上着は肩までずり落ちていた。
ミツエさんは話す順番を決めてきたみたいだった。
「去年、工事の足場から、ボルトが落ちてきて」
右目だった、と短く言う。
「病院では、新しい目を勧められました。今の規格の、ちゃんとしたのを。でも、それはローンになるんです」
膝の上でミツエさんの指が組み直された。
「子どものローンは、親が署名するんです。この子の身体を、担保に入れて。……それだけは、嫌だったんです」
親父は黙っていた。腕を組んだまま、ミツエさんの手の火傷を見ている。
この街の子どもの多くは、生まれたときから身体のどこかが誰かの持ち物になっている。親が署名すれば、そうなる。俺の身体はどこの担保にも入っていない。入れているものが何もないからだ。
コウの父親のことは、ミツエさんは何も言わなかった。俺も訊かなかった。
「だから、骨市で。中古なら、現金で買えるので」
三か月分の給料だったという。
「最初の一か月は、何ともなかったんです。この子も喜んで。……それが、先月から」
夜になると見える。毎晩、同じ部屋。
困ったミツエさんは、目を売った会社に電話をかけたそうだ。鞄から紙を一枚出して、机に置く。目についてきた保証書で、いちばん下に回生医療資材の判子が押してある。電話に出た人はとても丁寧だった、と言う。
「消去証明は発行済みです、って。再消去でしたら、有償で承ります、って」
金額を聞いて、そのまま切ったらしい。
「怪異かもしれないと思って、神祇庁の窓口にも行きました。機械のことは扱っていません、と言われて。それで、八重さんが」
「四階の坊やは見える子だよ、ってか」
親父の言葉にミツエさんがうなずく。
親父は天井を見た。糸は下りてこない。たぶん聞いている。
「この子が夜、怖くないようにしてやってください。……いくら、お支払いすれば」
膝の上で両手を握って、ミツエさんが訊いた。
俺は帳面を開いてペンを持った。また始まる、と思った。五万か。三百万か。
「菓子でいい」
そう言って親父は机の上の箱を顎で示した。
ペンを持ったまま、俺は親父を見た。
親父が最初から値段を言わなかったのは、たぶん初めてだ。少なくとも、俺が帳面をつけるようになってからは。
ミツエさんは何か言いかけて、それから箱の蓋に手を置いた。
「……毎月、焼いてきます」
「一箱でいい」
ソファの上で、コウがもぞもぞと起き上がった。肩から親父の上着が落ちる。コウはそれを拾って、しばらく眺めていた。片袖しかない、大きな革の上着。
「これ、だれの」
「親父の」
コウは上着を両手で抱えて、親父のところまで持っていった。
「……ありがとう、ございます」
親父は左手で受け取った。
「おう」
その日の昼から、親父は調整師のところへ行くことになっていた。あの夜の強制停止のあとから、右の肘がときどき引っかかる。曲げるときに一瞬だけ遅れる。親父は気にしていないふりをしているけど、ドアノブを左手で回すようになった。
「骨市には、お前が行け」
上着に袖を通しながら、親父が言った。コウから返ってきた上着だ。右の袖はないので、左だけ。
「目の出どころを訊いてこい。見るだけだ。財布を出すな。誰にも喧嘩を売るな」
「電話番は」
「転送しとけ」
俺は返事をしないで、鞄に帳面と目の保証書を入れた。
出がけに親父がもう一つだけ付け足した。
「出どころなら、鑢の婆さんに訊け」




