1-8
灰色のスーツの女が、路地の入口で足を止めた。
花を見ている。
「これは」
「舞台だ」
親父が言った。
女の人は少し考えて、端末に何か打ち込んだ。それから顔を上げる。
「零時まで、お待ちします。ただ、移送の準備をさせてください。零時ちょうどに開始できるよう、担当を鷺様のおそばに置かせていただきます」
城戸が一歩出た。
「線の向こうには入るな」
親父が言う。
「線」
城戸が足元を見る。
「花だろう」
「入るな」
「鷲津様」
女の人の声は、さっきと同じ温度だった。
「それは妨害になります」
そのとおりだ。
この人たちは何も間違っていない。期日は今夜の零時で、それは契約書に書いてある。鷺さんは署名した。十二年前に、脚が欲しくて。零時まで待つと言っている。車椅子まで用意している。花をどけろとも言っていない。
線を塞いでいるのは、うちの親父のほうだ。
「零時までは、あいつの脚だ」
親父は動かない。
「あいつの脚が踊ってる場所に、他人は入るな。それだけだ」
女の人は何も言わなかった。端末に一行だけ打って、半歩下がる。
城戸が前へ出た。
路地の入口は、まだ二丁目の側だ。
二丁目で止められるのは脚で、腕は力が落ちるだけだ。それでも親父の右腕は、三番通りにいたときより弱くなる。
「右、六割」
俺は叫んだ。
「それより上は出すな。止まるぞ」
「わかってる」
「わかってない。右は使うな」
城戸は速い。
最初の一歩で距離が半分。親父の左が出る。当たらない。城戸の身体が、当たる寸前で位置を変える。新しい義体はそういうことができるらしい。反応の速さが違う。
二発目。肩をかすめただけ。城戸は下がらない。
拳が親父の脇に入る。
湿った音。骨じゃなくて、肉の音。
親父は倒れない。トロールの身体はそういうふうにできている。殴られるのが仕事みたいな身体だ。
だけどそれは、殴られ続けるということでもある。
次も同じところ。その次も同じところ。城戸は狙いを変えない。効くところを見つけたら、そこだけ叩く。手順みたいな殴り方だ。
親父が下がった。
下がって、路地の入口の幅まで城戸を引き込む。入口は人が二人並べないくらいの広さしかない。壁が近ければ、速い相手でも避ける場所がなくなる。
いい判断だと思った。
思ったけど、遅かった。
城戸は入らなかった。入口の手前で止まって、そこから動かない。
「昔からそれだな」
城戸が言った。
「狭いところへ入れて、体重で潰す。十年前もそうだった。……俺はそれで三回負けてる」
親父は答えない。息が上がっている。
「だから覚えた」
覚えた、という言い方が、いちばん嫌だった。
十年前、俺は七つだ。そのころ二人がどこで何をしていたのかは知らない。ただ、この男は親父から学んだんだ。学んで、金を払って、新しい身体を買って、そのうえで親父の前に立っている。
俺は、親父の右腕の継ぎ目を見る。
流れが、また細くなっていた。六割が五割になっている。右は一度も使っていない。殴られているのは脇だ。身体の側が弱ると、義体へ流れ込む分も減る。
「五割。左だけで持たせろ」
「わかってる」
線の向こうで、音楽が始まった。
古いスピーカーの割れた音。ゆっくりした曲。誰かが選んだんだと思う。鷺さんが選んだのかもしれない。
俺は見ていない。見る余裕がない。
ただ、音でわかる。両足の音が、拍子に乗っている。二十人ぶんの息が止まっている。
路地の奥が、静かになったのがわかった。
親父が前へ出た。左肩から。飲み屋のときと同じやり方。体重で押す。
城戸が受けた。
受けて、そのまま止めた。
止めている。
親父の体重を、親父の半分くらいしかない身体が止めている。
「新しいのはいいぞ」
城戸の息は切れていない。
今度は城戸の継ぎ目を見る。
城戸の身体のどこにも、無理がかかっていない。腰も、膝も、肩も、さっきと同じだけ流れている。何分殴り合っても、一箇所も変わらない。
親父の身体は、もう三箇所変わっていた。
「重さが要らない。出力で足りる。お前みたいに飯を食う必要もない」
親父が笑った。牙が見えた。
笑うのは、たぶん、うまくいっていないときだ。
右腕が上がった。
俺は止める間がなかった。
五割の右が、城戸の顎を狙った。当たっている。城戸の頭が半分だけ動いた。
それだけだった。
そして、右腕が落ちた。
肩から先が、糸が切れたみたいに垂れる。指が開いたまま止まっている。
強制停止だ。制限を超えて出力した義体は、そうなる。安全のために。壊れる前に止まるように作ってある。
「旧規格はそれだ」
城戸が言った。責めている声じゃない。ただ説明している。
「壊れる前に止まる。持ち主の身体より、部品のほうが大事だからな。……だから言ったんだ。完済しろと」
線の向こうで、鷺さんが踊っている。
俺は一度だけそっちを見た。
見ている場合じゃなかった。
城戸が花のほうへ歩き出した。親父が左手で掴もうとする。振り払われた。右腕の死んだ身体に、もう止める手はない。
二十三時五十二分。




