1-7
日が落ちてから、俺たちは路地にいた。
親父はごみ箱の上に座っている。軋んだけど、壊れはしなかった。
俺は向かいの壁に寄りかかって、帳面を開いていた。書くことはない。開いていると落ち着く。
「飯は」
「食ってない」
親父が上着から紙袋を出した。昨日の焼き鳥だ。冷蔵庫に入れておいた二本。
「冷めてる」
「文句を言うな。経費だ」
「もらいものだろ」
「もらいものも経費だ」
俺は一本もらった。冷めた焼き鳥は、思ったよりまずくない。もう一本は親父が食べた。俺のだったはずだ。
しばらく、二人とも黙っていた。
劇場の壁の向こうから音が漏れてくる。音楽と、ときどき拍手。夕方の部で、誰かが歌っているらしい。壁が厚いから、歌詞まではわからない。
「なあ」
「なんだ」
「あの人、脚が戻らないのは、わかってるんだよな」
「わかってる」
「じゃあ、なんで踊るんだ」
親父はすぐには答えなかった。ごみ箱の上で、左手だけで煙草をいじっている。火はつけない。
「お前、帳面つけてるだろ」
「つけてる」
「なんでつけてる」
「……仕事だから」
「金は入らんぞ」
「知ってる」
親父はそれ以上言わない。
俺もそれ以上訊かなかった。
答えを聞いた気はする。金にならなくても、残しておきたいものがある。たぶん、そういうことなんだと思う。
*
二十二時。劇場の中で、最後の公演が始まった。
俺と親父は路地にいた。裏口に貼られた番組表に、鷺さんの名前は残っている。出番のところだけ、黒く塗ってあった。
二十二時半、鷺さんが裏口から出てきた。
衣装。
黒い、光る布。裾が長くて、歩くと足首のあたりで揺れる。上に古いコートを羽織っていた。
杖をついて、チョークの線の前まで来る。線をまたいだところで、鷺さんは杖を壁に立てかけた。そこから先は、杖がいらない。
「楽屋、もう半分ないんです」
鷺さんが言った。
「鏡だけ残してくれました。明日、持っていくそうです」
化粧をしている。舞台用の、遠くから見るための化粧だ。近くで見ると濃い。
俺はどうしていいかわからなくて、帳面を閉じた。
「似合ってる」
親父が言った。
「ありがとうございます」
「三百万ぶんの働きはしろよ」
鷺さんが笑った。声を出して笑ったのは、このときが初めてだと思う。
それから壁に手をついて、足首を回し始めた。義足の足首は回る。音が鳴る。油圧の、あの吐息みたいな音。
「準備、いつもそれくらい?」
「いつもは一時間。今日は短くします」
「なんで」
「……零時が来るので」
二十三時。壁の向こうで、大きな拍手が起きた。公演が終わったんだと思う。
それから、裏口が開いた。
人が出てくる。十人、二十人。常磐座の常連たちだ。年寄りが多い。手に花束を持っている人が、何人もいた。最後の夜のために持ってきたんだと思う。渡す相手が舞台に出なかったから、持ったままだ。
噂は、公演の途中で回ったんだと思う。
「路地で踊るって」
「鷺ちゃんが」
人が集まってくる。
先頭のほうに、杖をついた爺さんがいた。背中が丸くて、俺の肩くらいまでしかない。古い背広を着ている。袖口は擦り切れているのに、アイロンだけはきちんとかかっていた。最後の夜だから、いちばんいい服を着てきたんだと思う。
「鷺ちゃんの」
俺のほうへ来て、腕を掴む。力が強い。
「鷺ちゃんの出番、まだかい」
「もうすぐです」
「そうか。そうか」
爺さんは何度もうなずいて、花束を抱え直した。包みが古い。今日買ったやつじゃないと思う。
あとで聞いた話だと、この人は十年以上、週に二回来ていたらしい。
人が路地に入ってくる。俺はチョークの線の前に立った。
「線の向こうには入らないでください」
俺は言った。うまく説明できる自信がないから、それだけ言う。
そうしたら、一人目の年寄りが、花束をチョークの線の上に置いた。
二人目が、その隣に置いた。
三人目が、その隣に。
線が、花になっていく。
白と、赤と、黄色。安い花だ。駅前で買える、名前もよく知らないやつ。みんな同じ店で買ったんだろう。それが四メートルぶん並んで、舞台の縁になった。
誰かが古いスピーカーを引きずってきた。誰かがそれに端末を繋いだ。
集まった人たちを、ひとりずつ見ていく。危ない奴が混じっていないか確かめるのも、用心棒の仕事だ。親父が何と言おうと。
義体の多い人は暗い。生身の多い人は明るい。いろんな明るさが路地に並んでいる。手の先だけ暗い人。片目だけ暗い人。腰から下が全部暗い人。この街の人は、だいたいどこか暗い。
一箇所だけ、何も見えない場所があった。
人がいないのかと思う。
その穴が、拍手した。
白いフードを被った、小さい影。顔は見えない。背は俺より低い。生きている。動いている。手を叩いている。
なのに、ほとんど何も流れていない。
あれくらい薄い通りの人を、俺は一人しか知らない。
人が動いて、見えなくなった。
二十三時三十分。
路地の入口に、車が二台。
早い。零時には、まだ三十分ある。




