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帳の外  ―まだ、俺のものじゃない―  作者: 佐和井 泥
第一話 踊り子は足を返さない

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7/10

1-7

 日が落ちてから、俺たちは路地にいた。


 親父はごみ箱の上に座っている。軋んだけど、壊れはしなかった。


 俺は向かいの壁に寄りかかって、帳面を開いていた。書くことはない。開いていると落ち着く。


「飯は」


「食ってない」


 親父が上着から紙袋を出した。昨日の焼き鳥だ。冷蔵庫に入れておいた二本。


「冷めてる」


「文句を言うな。経費だ」


「もらいものだろ」


「もらいものも経費だ」


 俺は一本もらった。冷めた焼き鳥は、思ったよりまずくない。もう一本は親父が食べた。俺のだったはずだ。


 しばらく、二人とも黙っていた。


 劇場の壁の向こうから音が漏れてくる。音楽と、ときどき拍手。夕方の部で、誰かが歌っているらしい。壁が厚いから、歌詞まではわからない。


「なあ」


「なんだ」


「あの人、脚が戻らないのは、わかってるんだよな」


「わかってる」


「じゃあ、なんで踊るんだ」


 親父はすぐには答えなかった。ごみ箱の上で、左手だけで煙草をいじっている。火はつけない。


「お前、帳面つけてるだろ」


「つけてる」


「なんでつけてる」


「……仕事だから」


「金は入らんぞ」


「知ってる」


 親父はそれ以上言わない。


 俺もそれ以上訊かなかった。


 答えを聞いた気はする。金にならなくても、残しておきたいものがある。たぶん、そういうことなんだと思う。


     *


 二十二時。劇場の中で、最後の公演が始まった。


 俺と親父は路地にいた。裏口に貼られた番組表に、鷺(さぎ)さんの名前は残っている。出番のところだけ、黒く塗ってあった。


 二十二時半、鷺(さぎ)さんが裏口から出てきた。


 衣装。


 黒い、光る布。裾が長くて、歩くと足首のあたりで揺れる。上に古いコートを羽織っていた。


 杖をついて、チョークの線の前まで来る。線をまたいだところで、鷺(さぎ)さんは杖を壁に立てかけた。そこから先は、杖がいらない。


「楽屋、もう半分ないんです」


 鷺(さぎ)さんが言った。


「鏡だけ残してくれました。明日、持っていくそうです」


 化粧をしている。舞台用の、遠くから見るための化粧だ。近くで見ると濃い。


 俺はどうしていいかわからなくて、帳面を閉じた。


「似合ってる」


 親父が言った。


「ありがとうございます」


「三百万ぶんの働きはしろよ」


 鷺(さぎ)さんが笑った。声を出して笑ったのは、このときが初めてだと思う。


 それから壁に手をついて、足首を回し始めた。義足の足首は回る。音が鳴る。油圧の、あの吐息みたいな音。


「準備、いつもそれくらい?」


「いつもは一時間。今日は短くします」


「なんで」


「……零時が来るので」


 二十三時。壁の向こうで、大きな拍手が起きた。公演が終わったんだと思う。


 それから、裏口が開いた。


 人が出てくる。十人、二十人。常磐座(ときわざ)の常連たちだ。年寄りが多い。手に花束を持っている人が、何人もいた。最後の夜のために持ってきたんだと思う。渡す相手が舞台に出なかったから、持ったままだ。


 噂は、公演の途中で回ったんだと思う。


「路地で踊るって」


「鷺(さぎ)ちゃんが」


 人が集まってくる。


 先頭のほうに、杖をついた爺さんがいた。背中が丸くて、俺の肩くらいまでしかない。古い背広を着ている。袖口は擦り切れているのに、アイロンだけはきちんとかかっていた。最後の夜だから、いちばんいい服を着てきたんだと思う。


「鷺(さぎ)ちゃんの」


 俺のほうへ来て、腕を掴む。力が強い。


「鷺(さぎ)ちゃんの出番、まだかい」


「もうすぐです」


「そうか。そうか」


 爺さんは何度もうなずいて、花束を抱え直した。包みが古い。今日買ったやつじゃないと思う。


 あとで聞いた話だと、この人は十年以上、週に二回来ていたらしい。


 人が路地に入ってくる。俺はチョークの線の前に立った。


「線の向こうには入らないでください」


 俺は言った。うまく説明できる自信がないから、それだけ言う。


 そうしたら、一人目の年寄りが、花束をチョークの線の上に置いた。


 二人目が、その隣に置いた。


 三人目が、その隣に。


 線が、花になっていく。


 白と、赤と、黄色。安い花だ。駅前で買える、名前もよく知らないやつ。みんな同じ店で買ったんだろう。それが四メートルぶん並んで、舞台の縁になった。


 誰かが古いスピーカーを引きずってきた。誰かがそれに端末を繋いだ。


 集まった人たちを、ひとりずつ見ていく。危ない奴が混じっていないか確かめるのも、用心棒の仕事だ。親父が何と言おうと。


 義体の多い人は暗い。生身の多い人は明るい。いろんな明るさが路地に並んでいる。手の先だけ暗い人。片目だけ暗い人。腰から下が全部暗い人。この街の人は、だいたいどこか暗い。


 一箇所だけ、何も見えない場所があった。


 人がいないのかと思う。


 その穴が、拍手した。


 白いフードを被った、小さい影。顔は見えない。背は俺より低い。生きている。動いている。手を叩いている。


 なのに、ほとんど何も流れていない。


 あれくらい薄い通りの人を、俺は一人しか知らない。


 人が動いて、見えなくなった。


 二十三時三十分。


 路地の入口に、車が二台。


 早い。零時には、まだ三十分ある。

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