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その日の午後、親父は上着を着てから俺を見た。
「電話番は」
「転送した」
俺は鞄を肩にかけた。親父は何か言いかけて、やめた。
常磐座は二丁目の奥にある。表通りから一本入ると、急に音が減る。看板の照明はもう落ちていた。
中は片づけの最中。埃と、古い糊の匂い。
古い劇場だ。客席の天鵞絨は赤で、擦り切れて、座面の色だけが濃い。天井の飾りの金箔は半分はがれている。舞台の上で、作業着の男が二人、巻尺を引いていた。
椅子の数を数えたら、二百くらいありそうだった。そのうち何席が毎晩埋まっていたのかは知らない。
壁に写真が貼ってある。古いやつ。白黒のもある。衣装を着た人が並んで、こっちを見て笑っている。誰が誰なのかはわからない。ただ、いちばん端の小さい写真だけ、画鋲の穴が三つあった。何度も貼り直したんだと思う。
舞台の奥に、垂れ幕。
次世代義肢展示場、開業予定。
白地に、細い線で描かれた塔の印。街の真ん中に立っている、あの白い塔だ。名前はどこにも書いていない。この街でこの印を知らない人間はいないから、書く必要がないんだと思う。
「最後の公演もまだなのに、もう次の看板か」
親父が言った。誰にでもなく。
客席の三列目に、灰色のスーツの女が座っていた。膝の上に端末。鷺さんと何か話している。鷺さんの席には、杖が一本立てかけてあった。うちの事務所では、一度も出さなかったものだ。
その後ろに、男が立っていた。
親父より頭一つ低い。それでも大きい。三十代の半ばくらいで、髪を短く刈り上げている。顔は生身だ。整った顔立ちで、表情がほとんど動かない。目だけが、劇場の出口と、俺たちと、舞台の上の業者を順番に確かめている。
黒いシャツの袖をまくっていて、腕が見えた。白い。塗装の白じゃなくて、磨いた陶器みたいな白だ。
俺は、その男の継ぎ目を見る。
新しい身体。首から下のほとんどが義体で、継ぎ目がきれいに揃っている。並び方が揃っているというのは、同じ時期に同じ設計で入れたということだ。ばらばらに買い足した親父の身体とは、そもそも作りが違う。
白い地に、関節ごとに細い銀の線。傷が一つもない。
通りは薄い。だけど空じゃない。芯はちゃんと残っている。
一箇所だけ、流れがつかえている場所があった。左肩。継ぎ目の色が、ほかより少し新しい。最近入れ替えたんだと思う。
「鷲津さん」
灰色のスーツの女が立ち上がった。二十代の半ばくらい。髪をきっちりまとめて、細い銀縁の眼鏡をかけている。化粧は薄い。どこにでもいる会社員に見える。
通りを見ると、この人はほとんど生身だった。耳の後ろに小さい端末を一つ入れているだけ。人の身体を回収する仕事の人が、自分の身体はほとんど何も借りていない。
「常磐座の件で伺っております。今夜の段取りのご確認に」
「回収屋か」
「回収代行です」
女の人は名乗らなかった。名刺も出さない。この仕事の人は、名前を覚えられたくないんだと思う。
「鷺様には、先ほどご説明しました。零時ちょうどに、認可整備工場へ移送します。お車と、お帰りの車椅子も手配しております」
「丁寧だな」
「そういう手順ですので」
男が客席の通路を下りてきた。ブーツの音が、客席によく響く。
「鷲津か。久しぶりだな」
親父は返事をしない。
「城戸だ」
親父の昔の知り合いらしい。俺は初めて見る顔だった。
男が俺のほうを見る。興味はなさそうだった。
「まだその腕、使ってるのか」
城戸の顎が、親父の右腕を示す。
「旧規格だろう。塗装もはげてる」
「使ってる」
「完済は」
「してない」
「俺はした」
城戸は自分の胸を、指の背で軽く叩いた。硬い音がする。
「全部だ。五年かかった。仕事を選ばなかった。夜も昼も出た。……お前にもできる。やる気があればな」
親父は何も言わない。
こいつは、やる気の話をしている。
この街には、やる気があって払えない人が何万人もいる。鷺さんもたぶんその一人だ。十二年払って、あと二年で、脚を持っていかれる。やる気の問題なら、あの人はとっくに完済しているはずだと思う。
俺は口に出さなかった。言っても仕方がない。
俺はこの男が嫌いになった。三十秒もかからなかったと思う。
「では、確認です」
灰色のスーツの女が端末を開く。
「期日は本日零時。零時をもって、当該部位の占有権はこちらへ移ります。移送の妨害があった場合は、警備が対応いたします」
「零時までは待つんだな」
女の人は少しだけ目を上げた。
「はい」
それから、書いてあることを読むみたいに続けた。
「零時までは、鷺様の所有物ですので」
俺は、その一行を頭の中で二回読んだ。
*
回収代行の二人が帰ったあと、客席で鷺さんと話した。
「外で踊ればいい」
親父が言った。乱暴だけど、それしかない。
「二丁目を出れば脚は動く。三丁目との境まで歩けばいいだろう」
「それが」
鷺さんは首を振った。
「どこから外なのか、わからないんです」
区画の境目は、地図の上では線一本で決まっている。だけど実際に脚を止めているのは、境目の柱から出ている信号だ。
信号は、地図どおりには届かない。ビルに遮られて手前で切れたり、逆に路地の奥まで回り込んだりする。天気や、その夜の人の多さでも変わるらしい。詳しいことは俺も知らない。
だから、地図で外と書いてある場所で脚が止まることもあるし、中と書いてある場所で動くこともある。境目は、毎晩少しずつ動く。
「前に一度、試しました。地図では外なのに、動かなくて。……その次の日は、同じ場所で動いたんです」
「調べようがないな」
親父が頭を掻いた。
「遠くまで出れば確実だろう」
「……劇場の近くがいいんです。最後の夜なので」
「俺が見る」
俺が言うと、二人ともこっちを見る。
「見えるのか」
「見える」
親父は何か言おうとして、口を閉じた。それから舞台の上へ目をやる。
「……日が暮れる前に済ませろ」




