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帳の外  ―まだ、俺のものじゃない―  作者: 佐和井 泥
第一話 踊り子は足を返さない

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4/10

1-4

 次の日の昼前、階段を上がってくる足音がした。


 一段ごとに、かすかな吐息みたいな音が混じる。油圧だ。古い義足の、抜けかけたシリンダーが鳴らす音。


 四階まで上がるのに、ずいぶん時間がかかった。


 扉が開く。


 女の人だった。三十を少し越えたくらい。


 背が高い。親父ほどじゃないけど、俺よりは高い。首が長くて、扉の前にただ立っているだけなのに、背筋がまっすぐ上へ伸びている。踊る人の立ち方なんだと思う。


 黒い髪を後ろで小さくまとめている。雨に降られたのか、ほつれた毛が首筋に張りついていた。化粧はしていない。頬が少しこけていて、目だけが大きい。その目の下に、何日かちゃんと寝ていない人の色がある。


 古いコートの下は、黒い稽古着だった。仕事着のまま来たんだと思う。


 コートの裾から出ている脛は、鈍い銀色をしていた。足首の関節に、細い油圧の管が二本通っている。


 俺は、その脚の継ぎ目を見る。


 両脚とも、太腿から下が義足。古い型だ。よく手入れされている。継ぎ目のまわりが、他の人より滑らかだ。毎晩磨いている人の脚。


 ただ、膝の関節に十二年ぶんの無理がある。流れが、そこで少しだけ引っかかる。


「鷲津(わしづ)警備さん、でしょうか」


「そうだ」


 親父が応接を顎で示す。女の人は座るとき、片手で自分の膝を押さえた。


「鷺(さぎ)といいます。常磐座(ときわざ)で踊っています」


 俺は帳面を開いて、日付を書く。


「芸名です。片脚で立つ鳥の。……気に入ってるんです」


「用件は」


 親父の声は、依頼人相手だといつも少し低くなる。金の話をする前の声だ。


「今夜、劇場が閉まります」


 鷺(さぎ)さんは膝を押さえたまま言う。


「建物が売れたので。明日から解体に入るそうです」


「そうか」


「先月、適合更新がありました。わたしの脚が、非適合になって」


 そこで一度、言葉が切れた。


「劇場のあるあたりは、区画の指定で、旧規格の脚部義体が起動しません。二丁目ぜんぶです。……立てないんです。舞台に」


 書く手が止まる。


 二丁目は、地図でいえば赤だ。劇場もホテルも人が多いから、転んだら危ない脚が真っ先に止められる。


「働けないので、払えなくて」


「回収か」


「はい」


 うなずくだけ。声は落ち着いている。泣いていない。ここへ来るまでに、全部済ませてきたんだと思う。


「期日は今夜の零時です」


 窓の外で、どこかの店の音楽が鳴り出した。


「ローンは、あと二年でした」


 そこだけ、言い方が違った。


 あと二年。十二年払って、あと二年。


「十九のときに事故で。両方とも潰れて、もう駄目だと言われて」


 鷺(さぎ)さんは膝の上で手を組んだ。


「そのとき勧められたのが、この脚でした。舞台に戻れますよって。本当に戻れたんです。半年で。……すごいと思いました。いまでも思ってます」


 俺はまた書き始めた。こういう話は、書かないと落ち着かない。


「毎日磨いてました。休みの日も。踊らない日も、油だけは差して」


「よく持ったな」


 親父が言った。


「十二年はな」


「持たせました」


 鷺(さぎ)さんは少しだけ笑った。


「わたしの脚なので」


 それから、顔を上げた。


「最後の夜に、一曲だけ踊りたいんです。零時まで、誰にも止められたくない。それだけです」


 沈黙。


 親父は腕を組んでいる。右腕は、この部屋では普通に動く。八重(やえ)ビルは、地図のどの色にも入っていない。


「三百万」


 俺は天井を見た。また始まった。先月は五百万だった。値段が上がり下がりするのは、親父の口の中だけだ。


 鷺(さぎ)さんの顔から、血の気が引いていくのがわかる。呼吸が浅くなった。継ぎ目の流れも一緒に細くなる。人は驚くと、そういうふうになる。


「……払えません」


「なら分割だ」


 親父は言った。


「一生かけて払え」


 俺は帳面に目を落とした。


 一生かけて払え。それは、ローン会社が鷺(さぎ)さんに出したのと同じ条件だ。親父はそれを冗談の形で出している。そして、一円も取らない。


 親父が取り立てないことを、俺は知っている。この五年、ずっと見てきたから。


「零時まで、回収屋を近づけない。それが仕事だ」


 親父の声は変わらない。


「踊れるかどうかは、俺の仕事じゃない」


 鷺(さぎ)さんが、少し笑った。


 でも、と俺は思った。


 それは、俺の仕事かもしれない。

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