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次の日の昼前、階段を上がってくる足音がした。
一段ごとに、かすかな吐息みたいな音が混じる。油圧だ。古い義足の、抜けかけたシリンダーが鳴らす音。
四階まで上がるのに、ずいぶん時間がかかった。
扉が開く。
女の人だった。三十を少し越えたくらい。
背が高い。親父ほどじゃないけど、俺よりは高い。首が長くて、扉の前にただ立っているだけなのに、背筋がまっすぐ上へ伸びている。踊る人の立ち方なんだと思う。
黒い髪を後ろで小さくまとめている。雨に降られたのか、ほつれた毛が首筋に張りついていた。化粧はしていない。頬が少しこけていて、目だけが大きい。その目の下に、何日かちゃんと寝ていない人の色がある。
古いコートの下は、黒い稽古着だった。仕事着のまま来たんだと思う。
コートの裾から出ている脛は、鈍い銀色をしていた。足首の関節に、細い油圧の管が二本通っている。
俺は、その脚の継ぎ目を見る。
両脚とも、太腿から下が義足。古い型だ。よく手入れされている。継ぎ目のまわりが、他の人より滑らかだ。毎晩磨いている人の脚。
ただ、膝の関節に十二年ぶんの無理がある。流れが、そこで少しだけ引っかかる。
「鷲津警備さん、でしょうか」
「そうだ」
親父が応接を顎で示す。女の人は座るとき、片手で自分の膝を押さえた。
「鷺といいます。常磐座で踊っています」
俺は帳面を開いて、日付を書く。
「芸名です。片脚で立つ鳥の。……気に入ってるんです」
「用件は」
親父の声は、依頼人相手だといつも少し低くなる。金の話をする前の声だ。
「今夜、劇場が閉まります」
鷺さんは膝を押さえたまま言う。
「建物が売れたので。明日から解体に入るそうです」
「そうか」
「先月、適合更新がありました。わたしの脚が、非適合になって」
そこで一度、言葉が切れた。
「劇場のあるあたりは、区画の指定で、旧規格の脚部義体が起動しません。二丁目ぜんぶです。……立てないんです。舞台に」
書く手が止まる。
二丁目は、地図でいえば赤だ。劇場もホテルも人が多いから、転んだら危ない脚が真っ先に止められる。
「働けないので、払えなくて」
「回収か」
「はい」
うなずくだけ。声は落ち着いている。泣いていない。ここへ来るまでに、全部済ませてきたんだと思う。
「期日は今夜の零時です」
窓の外で、どこかの店の音楽が鳴り出した。
「ローンは、あと二年でした」
そこだけ、言い方が違った。
あと二年。十二年払って、あと二年。
「十九のときに事故で。両方とも潰れて、もう駄目だと言われて」
鷺さんは膝の上で手を組んだ。
「そのとき勧められたのが、この脚でした。舞台に戻れますよって。本当に戻れたんです。半年で。……すごいと思いました。いまでも思ってます」
俺はまた書き始めた。こういう話は、書かないと落ち着かない。
「毎日磨いてました。休みの日も。踊らない日も、油だけは差して」
「よく持ったな」
親父が言った。
「十二年はな」
「持たせました」
鷺さんは少しだけ笑った。
「わたしの脚なので」
それから、顔を上げた。
「最後の夜に、一曲だけ踊りたいんです。零時まで、誰にも止められたくない。それだけです」
沈黙。
親父は腕を組んでいる。右腕は、この部屋では普通に動く。八重ビルは、地図のどの色にも入っていない。
「三百万」
俺は天井を見た。また始まった。先月は五百万だった。値段が上がり下がりするのは、親父の口の中だけだ。
鷺さんの顔から、血の気が引いていくのがわかる。呼吸が浅くなった。継ぎ目の流れも一緒に細くなる。人は驚くと、そういうふうになる。
「……払えません」
「なら分割だ」
親父は言った。
「一生かけて払え」
俺は帳面に目を落とした。
一生かけて払え。それは、ローン会社が鷺さんに出したのと同じ条件だ。親父はそれを冗談の形で出している。そして、一円も取らない。
親父が取り立てないことを、俺は知っている。この五年、ずっと見てきたから。
「零時まで、回収屋を近づけない。それが仕事だ」
親父の声は変わらない。
「踊れるかどうかは、俺の仕事じゃない」
鷺さんが、少し笑った。
でも、と俺は思った。
それは、俺の仕事かもしれない。




