第7話 境界線の断絶
関所に着いた時、夜はまだ深かった。
街道を照らす灯りの下で、見覚えのある馬車が道を塞いでいる。
私は厚手の仕事着の上から防寒マントを羽織り、門の内側の建物へ入った。
応接室の窓には、透明な防護板がはめられていた。
ここからなら、門の前へ出ずに話せる。声を外へ届ける伝声管の使い方を、衛兵が教えてくれる。
壁際の通信盤には、門前を監視する像も映っていた。窓から離れても、外の様子を確認できる。
「途中でやめたくなったら、手を挙げてください」
私は頷いた。
レナード様は、部屋の出入口に立っている。すぐそばには法務官と記録係もいた。
私が窓辺へ進むと、門の外にいたカシルが顔を上げた。
「アリシア! ようやく出てきたか」
その声に、肩がわずかに強張る。
私は窓枠に手を置いた。冷たい石の感触で、足元を確かめる。
「何のご用でしょう」
「迎えに来てやった。馬車に乗れ。伯爵家も私も、お前の勝手に付き合っている暇はない」
同じ言い方だった。
困らせた私が悪い。迎えに来た自分は、許す側にいる。
門前の護衛たちは、困惑した顔で主を見ていた。
婚約者同士の話し合いだと聞かされて来たのだろう。門を固く閉ざされた理由が、まだ分かっていない。
「私は戻りません。婚約も、結界管理の仕事も終わっています」
「勝手に決めるな!」
法務官が、窓の隣の証書台へ写しを掲げた。
照明の下に、父の公印と、カシルの署名がはっきり見える。
「ご自分で署名なさった合意書です。登録の控えも、そちらの侯爵家へ届いています」
カシルが一瞬、言葉に詰まった。
「あれは、エレナを正式な相手にするための形式だ。お前が家の仕事を放り出していいという意味ではない!」
護衛の一人が、顔をしかめた。
私はカシルを見つめた。
「婚約者の地位は妹へ、仕事は私へ。そう都合よく分けることには、同意していません」
馬車の扉が開き、エレナが降りてきた。
薄い外套の裾を持ち上げ、泥を避けるように歩いてくる。
「お姉様、いい加減にして。皆が困っているのよ。温室まで冷えてしまって、お母様も寝込んでいらっしゃるわ」
「新しい術師を雇えば、直せると説明したでしょう」
「お金がかかるじゃない! お姉様なら、ただでできるのに!」
そこで、エレナがはっと口を閉じた。
窓の内側で、記録係のペンが動いているのに気づいたのだ。
私は、胸の奥へ重いものが落ちるのを感じた。
やはり、何も変わっていない。
謝罪を期待していたわけではない。それでも、ほんの少しは自分を案じた言葉が聞けるかもしれないと、どこかで思っていた。
「無料だったのではないわ、エレナ。私が払っていたの。眠る時間と、手の傷と、私の魔力で」
妹の視線が、私の手袋へ落ちた。
「私がいなければ困ると分かっていたのなら、困らないように人を雇ってほしいと頼んだ時、聞いてほしかった」
「だって、お姉様はいつも、最後にはやってくれたじゃない」
その言葉が、最後の答えだった。
私が断れなかったことを、彼女は承諾だと思っていた。
「今度は、やりません」
声は震えなかった。
「領民の安全は、魔導院が確認しています。あなたたちが支払うべき費用まで、私が肩代わりすることはありません」
カシルが窓の下まで近づこうとして、衛兵に制された。
「その金も男に出させて、いい気になっているのか。お前一人では何もできないくせに!」
以前なら、その言葉に反論しようとしたと思う。
一人でもできると証明するために、無理を重ねたと思う。
けれど、今は違った。
「ええ。一人ではできないことがあります。ですから、助けていただいています」
私は、部屋の扉に立つレナード様へ一度だけ目を向けた。
彼は黙って頷いた。
「だからといって、あなたの命令に従う理由にはなりません」
カシルの顔が赤くなった。
頼れば従うしかない。そんな理屈が通じないことを、彼は受け入れられないようだった。
法務官が最後の通告を読み上げた。
「話し合いは終了です。引き渡しの要求は認められません。通行を妨げず、退去してください」
護衛の年長者が、カシルへ近づいた。
「カシル様、一度お戻りになりましょう。婚約が解消しているなら、私どもに連れ帰る権限はありません」
「誰がお前の判断を聞いた!」
カシルが腕を振り払い、剣を抜いた。
「門を開けろ! アリシアを馬車へ乗せるんだ。多少痛い目を見れば、意地を張るのもやめる!」
エレナが、馬車から革張りの箱を持ち出した。
蓋の中で、銀の拘束環が光る。
「これを使えばいいのよ。お姉様が魔術を使えなければ、すぐに連れて帰れるでしょう」
妹の手にある輪を見た瞬間、指先が冷え切った。
領主家が危険な術者を拘束するために保管していたものだ。
私を迎えに来たのではない。最初から、逃げられなくする用意までしてきたのだ。
「アリシア、下がって」
レナード様の声で、私は窓から離れた。
彼は私が壁の内側へ退いたのを確かめ、それから指揮官へ合図を出した。
胸壁に待機していた弓兵たちが、弓を構える。
護衛のうち三人はすぐに両手を上げた。残る二人が、カシルに押されるように扉の合わせ目へ刃を差し込んだ。
「武器を置け」
外へ響いたレナード様の声は、低く、よく通った。
「ここには、誰かに連れ帰られる物などない。自分の意思で暮らしている、一人の人間がいる」
私は壁に手を当てた。
聞きたかった言葉が、鉄門の向こうまで届いていた。




