第6話 冷徹伯爵の告白
夜の九時、私は執務室を訪ねた。
呼びつけられたのではなく、約束をして人に会う。その違いだけで、廊下を歩く足取りが落ち着かない。
扉の内側には、お茶の支度が整っていた。
レナード様が椅子を勧めてくれる。私は持参した小さな紙包みを差し出した。
「これを、お渡ししたくて」
「今夜まで仕事を?」
「結界の維持記録ではありません。閣下の補助結界用の手袋です。傷の位置に合わせて、魔力が一箇所に集まらないよう、刺繍を入れました」
包みを開き、手袋を広げる。
昼間、騎士団の装備係に寸法を確認し、古い手袋と同じ厚さに調整したものだ。
レナード様は、銀の糸を見つめた。
「仕事の合間に?」
「休憩の時間に、少しずつ。……お気に召さなければ、直します」
「いや。嬉しくて、何と言えばよいか」
いつも迷わず言葉を選ぶ人が、手袋を持ったまま黙っている。
その姿を見て、私まで嬉しくなった。
試してもらうと、指を曲げる動きにも無理がない。
ほっとした私へ、彼が椅子を引き寄せた。
「大切に使います。座っていただけますか」
お茶の隣には、蜂蜜をかけた小さな焼き菓子があった。
好きだと話した覚えはない。
「マルタが、朝食でこれを選んでいたと。甘すぎなければよいのですが」
「好きです」
私が答えると、彼の手がカップの前で一度止まった。
「……菓子が、ですね」
思わず目が合い、二人で笑った。
昼間からずっと、彼の言葉が少し不器用だ。
それが、怖くなくて、嬉しい。
しばらく祖母の工房の話をした。
祖母は針をよくなくし、そのたびに髪に挿したまま忘れていた。私が見つけると、賃金だと言って干した杏をくれた。
「お祖母様に教わったのですね」
「はい。十歳で手伝いを始めて、十六で術師の免許を取りました。祖母が亡くなった後は、私がいれば人を雇わずに済むと……」
言いかけて、私はカップの縁へ目を落とした。
楽しい話をしたかったのに、結局ここへ戻ってしまう。
「申し訳ありません。せっかくのお茶なのに」
「謝る必要はありません。聞かせてもらえるなら、聞きたい」
無理に明るくする必要がないと分かるまで、少し時間がかかった。
「今でも、仕事がないと落ち着かないのです。今日、技師長が作業を進めてくださって嬉しかったのに、私がいなくてもよくなるのが、少し怖くて」
言葉にすると、自分の矛盾がよく分かった。
一人で背負いたくない。
けれど、必要とされなくなるのは怖い。
「もし、手が治らなかったら。もし今より魔力が落ちたら、ここにいてよい理由がなくなる気がして」
レナード様は、しばらく答えなかった。
慰めの言葉を急がず、私の話を最後まで聞いていた。
「職務の分担は変わるかもしれません。けれど、治療が必要な時に生活を失わないために、契約がある。知識を教える仕事も、設計を考える仕事もある」
そこで彼は、手袋を机へ置いた。
「それとは別に、お伝えしたいことがあります」
改まった声に、私は顔を上げた。
「私は、あなたに好意を持っています。雇い主としての評価とは別に、一人の男として」
暖炉の薪が、小さく弾けた。
何か言おうとしても、息だけが出た。
「初めて会った会議で、若い技師の誤記が問題になったことを覚えていますか」
「……はい」
「あなたは誤りを直した後、彼が取った記録がなければ原因は分からなかったと、皆の前で言った」
彼の視線が、私の手元へ落ちる。
「あの時から、仕事以外でも話してみたかった。来ていただいてからは、ますます。人には休めと言うくせに、自分は平気な顔をするところも、菓子を選ぶ時だけ真剣になるところも」
こんな顔を見られていたのかと思うと、耳まで熱くなった。
「今のお話を断っても、契約も、住まいも変わりません。返事を急ぐつもりもない」
その言葉を聞いて初めて、胸につかえていたものがほどけた。
好意と引き換えに、居場所をもらったのではない。
私は膝の上で指を組み、それからほどいた。
「私も、もっとお話ししたいと思っていました」
レナード様の目が、静かに見開かれる。
「立派な伯爵様だからだけではありません。私ができないと言った時に、残念な顔をしなかったことが嬉しかった。塔で、誰にも見えないところを支えてくださったことも」
彼が笑ったところを、もう一度見たかったこと。
自分の塗った薬で、傷が楽になっていればよいと思ったこと。
言い始めると、恥ずかしいことばかり出てくる。
「まだ、うまく話せません。でも、好きになるなら、この人がいいと……思っています」
最後は消えそうな声になった。
彼は聞き返さなかった。代わりに、私の前へ手を差し出した。
「触れても?」
私は自分から、その手を取った。
指を重ねるだけなのに、昼間とはまるで違う。
「アリシア」
「はい」
呼ばれた名を、胸の中でそっと受け止める。
そのまま、彼の肩へ少しだけ身を寄せた。
額に、温かな唇が触れた。
驚いて見上げると、今度は彼の耳まで赤かった。
「……今夜は、これで我慢します」
私は笑って、握った手を離さなかった。
扉が強く叩かれたのは、それから少ししてのことだった。
「閣下、領境第一関所から緊急の連絡です」
レナード様はすぐに私の手を離し、立ち上がった。
「入れ。状況を」
使者は、カシルが護衛五人とエレナを連れて関所に現れ、私の引き渡しを要求していると告げた。
武装解除と通行目的の確認を拒み、門の前に居座っているという。
「警備隊は?」
「門を閉ざして対応中です。まだ負傷者はいません」
「そのまま維持しろ。巡回憲兵にも連絡を」
指示を出してから、彼は私を振り返った。
「あなたが行く義務はありません。私と法務官で対応できます」
怖くないと言えば、嘘だった。
それでも、代わりに答えてもらうだけで終わりたくなかった。
「安全な場所から、最後に一度だけ話したいです。私自身が戻らないと決めたのだと、伝えたい」
彼は頷いた。
「では、関所の内側の応接室へ。危険があれば、すぐ離れてください」
私は了承し、差し出された上着を受け取った。
机に残った手袋を見た彼が、戻ってそれを取る。
私が縫った銀糸を確かめてから、指を通した。
その小さな動作に、怖さの中でも、胸が温かくなった。




