第5話 泥舟の足掻き
アリシアが去って三日目、ローウェル伯爵邸の門前には、商会の代表と村長たちが並んでいた。
非常結界の石は、魔導院の手配で補充されている。人的被害は防げたものの、街道の封鎖で荷の一部が傷み、商売を休んだ家もあった。
領主に説明を求める声を、もう門番では押しとどめられなかった。
「なぜ、管理官など呼び込んだ!」
伯爵は執務机を叩いた。
正面に立つ会計係は、薄い顔色のまま答える。
「備蓄を買い戻すご判断がなかったためです。七日目まで待っていたら、運搬が間に合いません」
新しい術師の雇用費、石の代金、損傷した荷への補償。
並んだ金額が、何年も繰り延べてきた支払いを、一度に現実のものにした。
防衛事業の口座は、不正使用の疑いで調査中となっている。そこから屋敷の支出を出すことも、もうできなかった。
「カシル様のお父上に頼めばいいわ」
母が言った。
しかしカシルは、侯爵家から届いた手紙を握り潰していた。
父からの文面は短い。
婚約解消の登録通知を確認した。防衛事業の帳簿について説明を求める。それまでは自家の名を使い、新たな約束をするな。
侯爵家は、防衛事業の収入を担保に、ローウェル家へ資金を貸していた。
提出された帳簿と実際の支出が違えば、その融資に関わった父にも調査が及ぶ。カシルは、その話を父から聞かされていたが、自分が責められるとは思っていなかった。
父が自分を庇わないはずはない。
そう思う一方で、カシルの喉は乾いていた。
「お姉様を呼べば済むことでしょう」
エレナが言った。
「帰ってきて、いつも通り直してくれたら。お父様もカシル様も、謝る必要なんてないわ」
その言葉に、カシルは顔を上げた。
アリシアが働けば、外から術師を雇わずに済む。街道の収入も戻る。帳簿の説明も、その後で考えればよい。
「法務官の手紙など、クロイツァーが書かせただけだ。直接話せば、あいつも分かる」
本当に分かると思っているなら、剣を手に取る必要はなかった。
けれど彼は、腰帯に剣を差した。
侯爵家から自分の護衛として付けられた兵を五人呼び、隣領へ向かうと告げる。
一人が、領主の許可はあるのかと尋ねた。
「婚約者を迎えに行くだけだ。家同士の話に口を出すな」
登録通知は、机の引き出しへ隠した。
エレナも馬車に乗り込んだ。
行けば、姉の新しい暮らしを見られる。働くのを嫌がるなら、自分が直接言えばよい。
そんな期待を抱いていた。
◇◇◇
同じ日の午後、私は工房で、試験記録の最後の欄を埋めた。
結界塔の一区画は、二晩、安定している。次の区画の改修は、技師長が指揮を執ることになった。
私が席を外しても作業が進むのが、まだ少しくすぐったい。
マルタに呼ばれ、居室へ戻ると、仕立屋が布を広げて待っていた。
「防寒用の仕事着と、礼装を。閣下から、まずご本人のお好みを伺うようにと」
仕事着の袖口に、私が出した注文が縫い込まれている。
針を落とさない細い内ポケット。手首を圧迫しない留め具。
それだけで嬉しくなったのに、その隣には濃紺の絹があった。
「礼装は、何に使うのでしょう」
扉を叩いて入ってきた伯爵へ尋ねると、彼は招待状を見せた。
「初冬の建国記念夜会です。各領の代表技師も招かれる。あなたが望むなら、筆頭術師として出席していただきたい」
父と妹の後ろで荷物を持つのではなく、私の仕事を理由に招かれている。
それでも、華やかな場所を思うと、胸がすくんだ。
「作法を間違えたら、閣下にご迷惑を」
「私も何度か間違えています。間違えたら直せばよい」
「閣下が?」
「初めての夜会では、誰が話しかけても結界の話をした。二曲踊る間に、相手の方をひどく退屈させました」
思わず笑うと、伯爵が目を細めた。
「ようやく笑ってくださった」
その言い方が、少しだけ困っているようで、私は布へ視線を落とした。
「……出てみたいです。けれど、明るい緑より、こちらの紺が好きです」
仕立屋が、濃紺の布を肩へ当ててくれる。
鏡の中で、顔が落ち着いて見えた。
華やかさで妹に勝ちたいわけではない。この色を着た自分を、好きだと思えた。
「よくお似合いです」
伯爵が言った。
私は鏡越しに頷いてから、気になっていたことを尋ねた。
「礼装の代金は、給与から支払わせてください」
「公務用として領費から出すこともできますが」
「自分で選んだ服を、自分のお金で買ってみたいのです」
彼はすぐに頷いた。
「では、そのように」
贈り物を断って、相手を怒らせずに済む。
その当たり前が、ここでは少しずつ増えていく。
採寸を終えた後、伯爵は小さな箱を取り出した。
「こちらは、私個人からです。受け取るかどうかは、見てから決めてください」
中には、雫形の翠玉のペンダントが入っていた。
魔力を蓄えるための石ではない。細い銀の枝に、小さな緑の光が留まっているような飾りだった。
「綺麗……」
「先日、中庭の木と同じ色だと、あなたが目を留めていた店のものです」
塔から戻る途中、馬車の窓から一度見ただけだった。
欲しいとは、口にしていない。
「覚えていらしたのですか」
「ええ。何を好きなのか、もう少し知りたいと思ったので」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
石を磨ける私ではなく、石を見て嬉しくなる私を、彼は見ていた。
「……いただいても、よろしいですか」
言ってから、何度も確認する自分が可笑しくなる。
彼も笑った。
「そのために持ってきました」
留め金に手を貸してもらい、鏡を見る。
伯爵の手が離れた後も、首の後ろに温かさが残っていた。
「ありがとうございます、レナード様」
初めて、役職を付けずに呼んだ。
鏡の中で、彼がはっきりと動きを止めた。
「……もう一度、お願いしても?」
「何を、ですか」
分かっていたのに、聞き返してしまった。
彼は困ったように笑い、私も頬を押さえた。
今夜、仕事を終えた後にお茶を飲まないかと、誘われた。
返事をしたのは、贈り物へのお礼のためではない。
私も、この人ともう少し話したかった。




