第4話 「受取拒否」の印
「現在、集落の結界は維持されています。封鎖区間には、魔導院の巡回隊が入りました」
通信盤の向こうから届いた報告に、私は肩の力を抜いた。
辞令の写しと引継記録を受け取った魔導院は、ローウェル領に臨時の管理官を向かわせているという。
「備蓄の不足についても調べます。ご提出いただいた作業日誌は、正式な記録として預かっています」
一月前、退任の相談と一緒に、私は十年分のうち手元に残っていた日誌の写しを送った。
それをしなければ、父は私が突然仕事を放り出したと言い張っただろう。
通信を終えると、待っていた法務官が二通の書類を差し出した。
「婚約解消は、双方の署名で成立しています。今朝、貴族院に登録書類を送りました。こちらは、お父上への回答案です」
居場所を守るために、怒鳴り合う必要はない。
私は、そのことにまだ慣れていなかった。
回答には、管理職の退任日、引継ぎの完了、以後の業務命令を受けないことが簡潔に記されている。
今後の連絡は法務官を通すように、と窓口も指定されていた。
「今後も私宛ての命令が来たら、ここで受け取りを断っていただけますか」
「承知しました。必要な法的通知は、私どもで確認してお伝えします」
私は回答に署名した。
法務官が、今後の配達を断るための通知に『受取拒否』の印を押す。
小さな印影だった。あれほど大きく見えていた父の声を、止めるにはそれで足りた。
「これで、よろしいでしょうか」
「はい。……お願いします」
書類を受け取る法務官へ頭を下げた時、隣の伯爵と目が合った。
彼は私の代わりに怒ったり、命じたりしなかった。
ただ、私が返事を決めるまで待ってくれた。
「少し、息がしやすくなりました」
「それはよかった」
伯爵の声も、わずかに和らいだ。
◇◇◇
午後、私は『白銀の結界塔』へ向かった。
今日は顔合わせと設備の確認だけでよい、と言われていたが、見たかった。手紙で何度も計算した回路が、実際にどう動いているのか。
塔の上階では、白髪交じりの技師長が待っていた。
「ハルトと申します。冬季の記録は、お役に立ちましたかな」
「はい。特に、夜半の温度と魔力流量を一緒に残してくださったところが」
彼の表情が少し和らいだ。
「そこまで読んでくださったのなら、話が早い。現物は、なかなか頑固ですよ」
大きな水晶の周囲を、細い光の筋が巡っている。
第三回路が暗くなるたびに、隣の回路が強く光った。手紙で見た数値の偏りと、同じ動きだ。
「接続部の結晶が、流れをせき止めていますね」
「削れば再発する。出力を上げれば隣の回路を傷める。それで、交代で魔力を補っているんです」
ハルト技師長が、疲れた指で顎を撫でた。
原因が分からなかったのではない。結界を止めずに直す方法が、見つからなかったのだ。
私は持参した設計図を広げた。
「主回路を一度に変えず、予備側に逃がします。手紙でお伝えした接続式なら、凍結した魔力も少しずつ流せるはずです」
「試験板では動いた。しかし、実機では逆流する可能性がある」
「だから、最初は塔の周囲だけで。外側の防壁は、今のまま維持してください」
技師長は図面と水晶を見比べ、やがて頷いた。
伯爵が外周の補助結界を騎士に指示し、技師たちが予備回路をつなぐ。
私が針を構えると、右手の傷がわずかに引きつった。
動きを止めたのを、伯爵は見逃さなかった。
「作業は延期しても構いません」
以前の私なら、大丈夫です、とすぐに答えただろう。
けれど今は、自分の調子を確かめてから口を開いた。
「細い針を長く握るのは、難しそうです。支えを使います。それでも痛むなら、今日は試験だけにします」
「分かりました」
取り上げられることも、無理を褒められることもなかった。
技師長が台座を寄せてくれた。
銀針の先で、光の結び目をほどく。
逃がす流れを作り、冷えた魔力を急に温めず、細く混ぜていく。
途中、計器が一つ跳ねた。
「第三回路、流量が増えています」
「針を止めます。予備側を少し閉じてください」
合図に合わせて技師長が弁を回す。
不規則だった水晶の明滅が落ち着き、光の筋が揃い始めた。
しばらく計器を見守っていた若い技師が、顔を上げる。
「補助の魔力を増やさなくても、防壁が保っています」
私は息を吐いて、針を置いた。
「まずは、この区画で一晩。安定すれば、同じ手順で広げましょう」
技師長は、しばらく水晶を見つめていた。
やがて作業台へ戻ると、私の図面に自分の記録を並べた。
「凍結期のたびに、一人ずつ倒れていたんです。これで、冬を越えられるかもしれませんな」
誰も跪かなかった。
代わりに、次は自分にも教えてほしいと、技師たちが台の周りへ集まってきた。
その輪の中に、私の場所があった。
塔を出る頃には、夕日が窓を赤く染めていた。
階段で伯爵が手を差し出し、私は自然にその手を借りた。
「見事でした」
「皆さんの準備がよかったんです。私だけでは、あんなに落ち着いて作業できませんでした」
「それを言えるところも、信頼しています」
頬が熱くなった。
足元を見るふりをして、握った手へ少しだけ力を込める。
「閣下も、補助結界を張ってくださっていましたね」
「気づかれていましたか」
「出力が揺れないように、ずっと支えてくださったから」
彼の袖口に触れた。
「今夜の当直は、別の方に任せてください。私ばかり休んでは、不公平です」
伯爵が一瞬、困った顔をした。
それから、ふっと笑う。
「術師殿は、厳しい」
「必要なことだけ申し上げています」
並んで階段を下りながら、私は初めて、この人が声を立てて笑うところを見た。
もう一度見たい、と自然に思った。
帰りの馬車が商店街で速度を落とした時、窓越しに、小さな翠玉の飾りが見えた。
中庭の常緑樹と同じ、深く落ち着いた緑だ。
「中庭の木と同じ色ですね。私、あの色が好きです」
思わず呟いた私に、伯爵は静かに頷いた。
それだけのことを、私はその夜、何度か思い出した。




