第3話 夜明けの警鐘
「どうして温室が動かないのよ!」
翌朝、ローウェル伯爵邸では、エレナが結界石を台座に押し込んでいた。
何度魔力を注いでも、庭の噴水は止まったまま。夜会に飾るため育てていた花も、寒さでしおれかけている。
「継承者としての肖像を、今日描いてもらうはずだったのに」
伯爵は返事をせず、届いた書類をめくっていた。
昨夜のうちに宿場へ駆け込み、アリシアが残した候補者の一人を呼び寄せたのだ。
その術師は石を壊れていないと確認し、机に見積書を置いた。
「常夜石を領地用に調整するには日数がかかります。まずは既設の非常系統を使い、七日分の石を継続して補充するのが確実です」
「高すぎる。娘は、こんな費用などかけていなかった」
「お嬢様ご自身の魔力で補っていたのでしょう。今後も同じだとはお考えにならないでください」
淡々と言われ、伯爵は書類を投げ返した。
「では、我が家の備蓄を使え」
術師は、傍らの管理人へ目を向けた。
管理人は深く頭を下げ、空になった在庫表を差し出す。
「引継ぎ用に封印された七日分を除き、先月、商会へ売却されています。伯爵様と奥様のご命令で」
母が青ざめた。
「一時的な立て替えよ。夜会の支度と、カシル様との縁組には費用がいるでしょう。あの子がいれば、備蓄など使わずに済んだのに」
「なぜ、その話を人前でする!」
伯爵が叱りつけたが、術師は既に控えを取っていた。
備蓄の購入には帝国からの補助金が使われている。領主の装飾品と同じように、好きに売ってよいものではない。
さらに在庫表の下には、アリシアへの報酬を支払ったとする帳簿の写しがあった。
術師が受領書の所在を尋ねると、伯爵は答えずに書類を引き寄せた。
そこへ、街道の管理所から通信が入った。
『魔獣の接近を確認。集落の結界は正常。臨時封鎖区間への荷車の進入を止めています』
非常結界は、人の住む場所と避難路を優先している。
商用街道をすべて開放したままにするだけの出力はない。そのことも引継書には書かれていた。
「商隊を通せ! 今日の通行料が入らなければ、支払いができん!」
「安全を確認できるまで、通せません」
管理人が、初めて命令に従わなかった。
カシルは応接室の入口で立ち尽くしていた。
領主となるエレナの夫として、防衛事業の収入も手に入る。そう約束され、アリシアとの婚約を捨てたのだ。
その収入は、アリシアが自分の魔力で費用を肩代わりしていたからこそ、成り立っていた。
「アリシアを呼び戻せばいい。意地を張っているだけだ」
カシルは書記からペンを奪った。
自分が何を失ったのか、考えずに済む答えにすがるように。
『家族に迷惑をかけたことを詫び、直ちに帰還せよ』
伯爵はそれに公印を押した。
手紙を運ぶ使い魔が飛び立つ頃、領都では街道封鎖を知らせる鐘が鳴り始めていた。
◇◇◇
私は、鳥の声で目を覚ました。
枕元の時計を見て、慌てて体を起こす。
いつもの巡回時刻を、とっくに過ぎていた。
「結界――」
口にしかけて、見慣れない寝室に気づく。
ここはクロイツァー伯爵邸だ。
夜中の警報も、扉を叩く声も、聞かずに眠った。
しばらく布団の縁を握ってから、ゆっくり息を吐いた。
身支度を終えると、侍女のマルタが朝食を運んでくれた。
パンをかじった私が窓の外の塔を気にしているのを見て、彼女は微笑む。
「当直の交代も、先ほど無事に済みましたよ」
「……顔に出ていましたか」
「少しだけ」
申し訳なくなって謝ると、謝ることではありません、と返された。
ここでは、慣れていないことを叱られない。
朝食後、居室の隣の応接間で伯爵と会った。
彼の手には、小さな薬壺がある。
「技師が使っている軟膏です。薬師に確認したところ、昨夜の傷にも使えるそうで」
蓋を開けた途端、ほろ苦い薬草の匂いがした。
手の甲には自分で塗れたが、利き手の指の間はうまくいかない。
「お手伝いしても?」
私は頷いて、右手を差し出した。
彼は必要なところだけを支え、傷を避けながら薬をのばしていく。
「痛くありませんか」
「大丈夫です」
近くで見ると、彼の手にも古い傷があった。
薬指の付け根に、結界を長く支えた人に特有の白い痕がある。
「閣下も、補助結界を?」
「塔が不安定な夜は、騎士団で交代しています」
あの会議で、伯爵が私の説明を最後まで聞いた理由が、少し分かった気がした。
自分が楽になるためだけではない。この手と同じ傷を持つ人を、減らしたかったのだ。
私は、彼が置いた薬壺を指で引き寄せた。
「その傷の周りも、乾燥しています。少し塗ったほうが」
伯爵が、驚いたように瞬いた。
「……では、お願いできますか」
今度は私が、彼の手を支える。
大きな掌がじっとしているのが、なぜか気恥ずかしい。視線を上げると、彼は私の指先を見つめていた。
「ありがとう」
たったそれだけなのに、胸が温かくなった。
誰かの役に立てたからだけではない。
この人が、私に任せてくれたことが嬉しかった。
控えめなノックがして、執事のオットーが入ってきた。
銀盆には、ローウェル家の封蝋が付いた赤い封筒が載っている。
一瞬、指先が冷えた。
戻れと言われたら戻らなければならない。体のほうが、まだそう覚えている。
伯爵は手紙を奪わず、私を見た。
「法務官へ預けることもできます。ご自分で読みますか」
私は封筒を受け取った。
短い命令文に目を通し、最後まで読んでから折り直す。
「戻りません。ただ、領民の安全について、魔導院へ状況を確認させてください」
「もちろんです」
家族の要求を拒むことと、他の人まで見捨てることは違う。
私は封筒を盆へ戻した。
「その上で、正式に返事をします。今後、私に命令を出す権限はないと」
さっきまで震えていた指は、もう落ち着いていた。




