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こちらも相応の対応を執らせていただきます  作者: 九葉(くずは)


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第2話 破格の引き抜き

馬車の中には、小さな蓄熱石が置かれていた。

冷えた指をその近くへ寄せると、向かいに座った伯爵が、膝掛けを差し出してくれる。


「お借りします。……宿場で長くお待たせしましたか」

「今夜、退任の話し合いをすると伺っていました。待つつもりで来たので、お気になさらず」


窓の外を、見覚えのある街道が流れていく。

少し前まで、帰り道にしかならなかった道だった。


私が伯爵と初めて話したのは、一月前の魔術防衛会議だ。

父の代理で出席した私は、会議の終わりに、北方の結界に使われている接続式の誤りを指摘した。

席を立ちかけていた人々が、迷惑そうに振り向いたのを覚えている。


伯爵だけが、椅子に座り直した。


『凍結期の記録を送ります。あなたの説を、確かめさせてください』


それから何度か、資料と計算書をやり取りした。

私が父に退任を願い出ていることを知ると、伯爵は雇用条件を送ってくれた。返事を急がせる文言はなく、独立したいなら別の雇い先も紹介する、と添えてあった。


逃げ道が一つある。

それだけで、私は引継書を最後まで書くことができたのだ。


「こちらが、以前お送りした契約書の正本です」


伯爵は羊皮紙を取り出した。


「条件に変更はありません。署名は今夜でなくても構いません」


私は丁寧に頁をめくった。

年俸は金貨五百枚。住居と工房の貸与。休養日と、病気や怪我の間の給与保障。

研究費は年間予算を定め、追加が必要な時は理由を添えて相談する。高価な資材だからと、説明も聞かずに退けることはしない。


どれも、書簡で何度も読み返した条件だ。

それでも、目の前で署名するとなると、指が止まった。


「私一人に、これほどの費用をかけてよいのでしょうか」

「今の結界は、毎冬、補修と石の買い足しに多額の費用がかかっています。あなたの設計が試験通りに動けば、その負担を減らせる」


伯爵は、予算をまとめた別紙を示した。

騎士の夜間出動も、技師の魔力消耗も減る。その見込みを、数字と作業記録で説明してくれる。


「高く買ってはいます。しかし、気まぐれで提示した金額ではありません」


美しい言葉より、その説明がありがたかった。

私は好意にすがる客ではなく、必要な仕事を任される術師なのだ。


「でしたら、一点、追加をお願いしてもよろしいですか」

「どうぞ」

「補佐の方を付けてください。結界の仕組みを共有して、私が眠っていても、誰かが対応できるようにしたいのです」


口にしてから、欲張りだと思われないかと身構えた。

伯爵は、すぐに頷いた。


「そのために、あなたを筆頭として迎えたい。技師長と相談し、交代で維持できる体制を作ってください」


誰か一人が倒れるまで働かなければ守れない結界は、強い結界ではない。

祖母の手帳の端に書かれていた言葉を、私はようやく実行できる。


私は追加条項に目を通し、契約書に署名した。


伯爵が控えを返してくれる時、紙の端に指先が引っかかった。

小さく顔をしかめた私に気づき、彼は手を止めた。


「傷が開きましたか」

「少し荒れているだけです。お見苦しいものを」


手を隠しかけたところで、伯爵の眉が寄った。


「見苦しいとは思いません。ただ、痛むなら手当てを」


差し出された清潔な布を受け取り、私は指を包んだ。

仕事を褒められたことはある。

仕事をしている手が痛いことに、気づいてもらったのは久しぶりだった。


街道が北へ折れ、関所の灯りが見えてくる。

帝国内の領境なので、許可証の確認は短く済んだ。さらに馬車で進み、門を出てから二時間ほどで、クロイツァー伯爵邸へ着いた。


案内されたのは、東翼にある小さな居室だった。

隣に工房、窓の下には中庭。寝室と作業場の間には、きちんと扉がある。


「今夜はこちらを。工房の設備は、明日、使いやすいように直しましょう」


侍女が湯と食事を運び込み、机の上へ鍵を置いた。

工房と居室、それぞれの鍵だ。


「許可なく入らぬよう、使用人にも伝えてあります。修繕が必要な場合も、先にお尋ねします」


伯爵の言葉に、私は鍵を見つめた。

実家では、作業中だろうと就寝中だろうと、家族が扉を開けて入ってきた。必要とされれば、すぐに応じなければならなかった。


ここには、閉めてよい扉がある。


「……ありがとうございます」


声が小さくなった。

伯爵は聞き返さず、入口で足を止めた。


「明日は、目が覚めてから朝食を。こちらの結界は当直の技師が見ています」

「閣下は、これからお仕事ですか」

「今夜の報告を少し」


袖口に、乾いた泥が付いていた。

会議で見た端正な姿と違い、目元にも疲れがある。私を迎えに来る前にも、領内を回っていたのだろう。


「閣下も、温かいものを召し上がってください。私だけでは、落ち着きません」


余計なことを言ったかもしれない。

けれど彼は、少し驚いた後、口元を緩めた。


「それは、もっともですね。食事を取ってからにします」


閉じた扉の向こうで、執事に夜食を頼む声がした。

そのやり取りが、妙に嬉しかった。


私はスープをひと口飲んだ。

急いで飲み込まなくても、誰も呼びつけない。二口目を味わった途端、涙が落ちた。


止めようとしても止まらず、しばらく、スプーンを持ったまま泣いた。

悲しいだけではなかった。安心すると泣けるのだと、初めて知った。


食事の後、寝室の扉に鍵をかける。

確かな音を聞いてから、明日の点検時刻を考えかけた。

けれど今夜は、私の順番ではない。


そう思い直して、私は灯りを消した。

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