第1話 契約解除通告
「アリシア。お前の『常夜の結界石』を、エレナに譲りなさい」
父の言葉に、私は紅茶のカップを置いた。
ローウェル伯爵邸の応接室。父の隣には母、その向かいには私の婚約者であるカシル・ディートリヒ侯爵令息が座っている。
カシルの腕に寄り添っているのは、妹のエレナだった。
「初冬の建国記念夜会では、私が結界の継承者として紹介されるのよ。お姉様より、その石が似合うと思わない?」
エレナが胸元を指でなぞる。まだ手にしていない宝石の重さを、確かめるように。
「お前は今まで通り、裏の工房で働けばよい」
父は続けた。
「表に立つのはエレナだ。カシル殿との婚約も譲れ。家族のために働くのに、役職や報酬が必要かね」
机の上には、二通の書類があった。
私とカシルの婚約解消合意書。そして、私を領地結界の管理責任者から外し、エレナを後任とする辞令。
一月前から申し入れていた退任が、ようやく認められた。
ただし父は、管理責任者を辞めても、娘としての無償労働は続くと思っている。
「君も分かるだろう。私の隣には、愛想のいい女性が必要なんだ」
カシルがエレナの肩に手を置いた。
「引き立て役として家に置いてもらえるだけ、ありがたいと思いたまえ」
何か言い返すべきなのだろうか。
悲しいと思わなければ、冷たい女なのだろうか。
けれど私の目は、カシルの署名と、父の公印を確かめていた。
十歳で祖母の手伝いを始めてから十年。祖母が亡くなった後は、毎夜の点検も、冬の魔力不足への対応も、私に任された。
働き続ければ、いつか私自身も大切にしてもらえる。
そんな期待を、今日まで捨てられなかったのだ。
「確認させてください。お二人とも、この書類の内容に異存はないのですね」
「何度も言わせるな。石を渡して、さっさと署名しろ」
私は婚約解消合意書に、自分の名を書いた。
双方の署名をもって婚約は解消する。貴族院への登録は、それを公に記録するための手続きだ。
その条項まで、カシルが用意した書類にきちんと記されていた。
「承知いたしました。私も本日限りで、こちらでの仕事を終えます」
胸元から、深紫の石を取り出す。
祖母が私個人に遺した核石に、私が編んだ術式を重ねてきた。家宝と呼んでいたのは家族だけで、魔導院の所有者台帳には私の名がある。
「お姉様、やっと素直に――」
伸びてきたエレナの手を、私は静かに避けた。
石の表面に指を滑らせ、自分の魔力で結んでいた環を一つずつほどく。
窓の外で、庭園の照明が消えた。
続いて、温室の暖気を示す針が下がる。廊下の魔導灯が、備え付けの小さな灯りに切り替わった。
「何をした!」
父が立ち上がった。
「私の魔力で賄っていた、屋敷の付帯設備を切り離しました」
「領地の結界まで消す気か!」
「まさか。領民に、私たちの揉め事は関係ありません」
私は引継書を開いた。
何度も説明した頁には、父が読んだ証しの署名もある。
「集落と避難路の結界は、今朝、備蓄石で動く非常系統へ切り替えました。七日間は保ちます。現地の管理人には操作を引き継ぎ、魔導院にも退任日を届けてあります」
父の指が、頁の端を押さえた。
「その間に後任を任命し、維持費を支払っていただく。それが、一月前からお伝えしていた条件です」
「そんなもの、エレナにできるわけがないだろう!」
隣で妹が息を呑んだ。
父は口をつぐんだが、もう遅かった。
「では、できる術師を雇ってください。候補者と見積書も添えてあります」
私は紫の石を机に置いた。
「石はお譲りします。ただし、私の技術と労働まで付いてくるわけではありません。エレナ、ご自分の術式を登録してお使いなさい」
「そんなの、ただの石じゃない!」
「素材としては上等よ。だからこそ、適切に扱ってほしいわ」
空の器を渡したのではない。
器さえあれば、その中身を作る人間は不要だと言ったのは、彼らだ。
「家族に向かって、なんという仕打ちを!」
母が声を上げた。
「今までのように働けば済むでしょう。どうしてそんな意地悪をするの」
いつもなら、この言葉で私は謝っていた。
誰かが困るのは私のせいだと、夜中の工房へ戻っていた。
けれど、父の署名のある辞令は、私の手の中にある。
「今までのように働くことは、もうできません。必要な仕事には、必要な対価を払ってください」
「金が欲しくて家族を脅すのか!」
「辞めるために、手順を踏みました。脅しているのではありません」
カシルが舌打ちした。
「その生意気な口で、誰に拾ってもらうつもりだ。泣いて戻ってきても、同じ待遇にはしてやらんぞ」
私は署名済みの書類を鞄に収めた。
「ええ。ですから――こちらも相応の対応を執らせていただきます」
もう、許してもらうために話してはいなかった。
応接室を出て、廊下に用意しておいたトランクを取る。
中身は祖母の手帳と仕事道具、それに独立した術師として働くための免許証。家を出る決心がついた日に備えて、少しずつまとめていたものだ。
「アリシア! どこへ行く!」
父の声を背に、玄関を抜けた。
夜風が頬を刺す。寒いのに、ようやく息が吸えた。
門の脇の通信柱に、借りていた札をかざす。
退任が成立したら、ここで知らせる約束だった。
ほどなく、近くの宿場で待機していた馬車が到着した。
車体には剣と氷の結晶を組み合わせた紋章。隣領のクロイツァー伯爵家のものだ。
扉を開けて降り立った黒髪の男性を見て、私は思わず背筋を伸ばした。
「伯爵閣下……ご自身でいらしたのですか」
レナード・フォン・クロイツァー伯爵。
防衛会議では、無駄な報告を一言で退ける厳格さから「氷血」と囁かれていた人だ。
その人が、まず私の顔ではなく、細かく震える手を見た。
「お迎えの約束をしていましたから。荷物を持っても?」
私は少し迷ってから、トランクを差し出した。
受け取る手が、当たり前のようにその重さを引き受けてくれる。
「仕事の話は、暖かい場所で。今夜はまず、休んでいただきたい」
屋敷から誰かが呼ぶ声がした。
振り向きかけた私の前で、伯爵は馬車の扉を押さえたまま待っていた。
急かしもせず、腕を引くこともなく。
私は、自分の足で踏み台に乗った。




