第8話 扉は、持ち上げれば開く
ガレスの肩が、石の扉を押し上げた。指一本ぶん浮いて、上からの重さに押し戻される。団員たちが階段に並んで団長の背中を押したが、扉はそれ以上動かなかった。
「無駄だよ、ガレス。こっちは三人で座ってる。棒もかませた」
扉の向こうで、男の声が笑った。
「その子を呼ぶかい。呼んでも同じさ。触っていいと言われるまで、何にも触らない子だろう。干し果物ひとつ、案内人の顔を見てから取った子だ」
センは階段の下で振り返った。イルマは広間の真ん中で、両手を背中で組んで立っていた。扉が落ちてから、言われたとおり何にも触っていない。センの袖と、自分の胸のほかには。
男の言うとおりだった。センは、まだ許していなかった。
「センくん」
イルマが、小さな声で呼んだ。
「扉、まだ触っちゃだめ?」
センは階段を駆け下りて、イルマの前に立った。
「ごめん、ずっと言い忘れてた。触っていい。全部、触っていい」
「全部?」
「あの扉を持ち上げて。上に乗ってる人ごと」
イルマの目が、きらりと光った。
「わかった」
イルマは裸足で階段を登っていった。ガレスが壁際に体を寄せて、道を空ける。団長の額に、汗が光っていた。
「頼む」
「うん。ガレスさん、ちょっと下がっててね」
イルマは扉の真下に立ち、両の手のひらを石にぴたりと当てた。息を吸う音が、センのところまで聞こえた。
石が鳴った。かませてあった鉄の棒が、扉の縁でぐにゃりと曲がる。上で誰かが「おい」と叫び、別の誰かが「押さえろ」と叫んだ。
扉は止まらなかった。枠からせり上がって斜めに傾き、上に座っていた男たちが、ずるずると滑り落ちていく。イルマはそのまま階段を登り、石の一枚板を頭の上まで差し上げた。空の盆みたいに、両手で軽々と支えている。
イルマが三十三階の床に上がると、扉の端から最後の一人が転げ落ちた。まだ若い銀灰団だった。床に尻をついて、口を開けたまま、頭上の石を見上げている。
「落っこちちゃった。ごめんね」
イルマは本気で謝って、扉を床にそっと下ろした。割れないように、角から静かに。
センとガレスが、穴から這い上がった。三十三階は暗くて広かった。遠くのあちこちに、小さな火が揺れている。
その火のあいだを、灰色の外套が走って遠ざかっていくのが見えた。細い顎の男だった。もう一人の銀灰団が、足を引きずりながらその後を追っていく。
男は一度だけ振り返り、石の扉のそばに立つイルマを見た。もう、笑ってはいなかった。
ガレスが、男の背中めがけて駆け出しかけた。センはその腕をつかんだ。
「ガレスさん、待って。この階の掟を、まだ知りません。走ったら、何を破るか分からない」
ガレスの腕に力がこもり、それから、ゆっくりと抜けた。団長は男の消えた暗がりをにらんで、低く唸った。
「坊主の言うとおりにする。それが、雇い直すってことだ」
センの足もとに、紙の切れ端が落ちていた。男が扉から滑り落ちたとき、懐から飛び出したのだろう。
踊り場で男が膝に広げていた、あの古い紙の端だった。茶色の墨で、「三十二」の横に「名」と一字だけ読める。その下は、破れてなくなっていた。
兄の字ではなかった。センは毎晩、案内帳の一頁目で兄の字を見ている。誰の字なのか、まるで見当がつかなかった。
ガレスが、床に下ろされた石の扉と、イルマとを見比べた。曲がった鉄の棒が、まだ扉の縁に刺さっている。
「助かった。お前の飯代、あれじゃ安すぎたな」
「ほんと? じゃあ、もっと食べていい?」
「……ほどほどにしろ」
イルマが嬉しそうに笑った。センは、ガレスの口の端がまた緩むのを見た。
「戻りましょう。下の階なら、もう掟が分かっています」
金鷹団の団員が、尻をついていた銀灰団を立たせて、階段へ連れて下りた。若い男で、膝がまだ震えている。広間の床では、年かさの銀灰団が、ひとりで膝を抱えて待っていた。
「お前らは、どうやって三十一階を抜けた」
ガレスが、年かさの銀灰団に聞いた。男は膝を抱えたまま答えた。
「かしらが、上では誰も口をきくなと。黙ってついて来いと言われて、そうしただけだ。どうしてかは、教えてもらえなかった」
「掟は、かしらしか知らなかったのか」
「ああ。俺たちはずっと、運がいいだけだと思ってた」
ガレスは長いあいだ黙っていた。それから、二人の銀灰団に向かって顎をしゃくった。
「上までは、うちで面倒を見る。食う分は働け」
センは階段の中ほどに腰を下ろした。金鷹団と、銀灰団の二人が、その下の段に集まってくる。イルマはセンの隣に、ぺたんと座った。
「上で、あの人にまた会うかもしれません。だから、一つだけ決めておきます」
センは皆の顔を順に見た。
「誰かに掟を教えられたら、それが誰でも、すぐには守らないでください。守る前に、僕に言ってください。嘘の掟は、守っているつもりで破らせるので」
ガレスが、黙ってうなずいた。団員たちも、それに倣った。
年かさの銀灰団だけが、うなずかなかった。膝の上で、拳を握っている。
イルマが、センの隣から身を乗り出した。
「おじさん。ロウさんって、どんな人?」
男は顔を上げた。子どもに聞かれるとは思っていなかった顔だった。
「……飯を作るのが、うまかった。干し肉を湯で戻して、そこらの草を入れて。かしらに拾われたのは、俺と同じ冬だ」
「拾われたの?」
「下の町で、食えなくなってた。上へ行けば食える、とかしらが言った。ロウは、それを信じた。最後までな」
男の拳が、震えていた。イルマはその拳をじっと見てから、センを振り返った。
「センくん。この人、触っていい?」
「本人に聞いて」
「おじさん、触っていい?」
男は戸惑った顔のまま、小さくうなずいた。イルマは両手で、その拳を包んだ。石の扉を持ち上げた手が、卵でも持つように、そっと。
「ロウさんのごはん、食べてみたかったな」
男の肩が、一度だけ揺れた。
「あんたが言ってくれなきゃ、俺もいつか、かしらに言われて名乗ってた」
それは、センに向けた言葉だった。
「言われても、名乗らないでください。誰に言われても」
「ああ。覚えておく」
ガレスが、男のほうを見ずに言った。
「お前、上では飯の番をやれ。ロウのやり方でな」
「……ああ」
角灯の火が、壁の影の列を照らしていた。顔を上げ、手を胸に当てた影たち。ダグも、ニコも、ロウも、その中にいる。
「あいつは、上の階の掟を知ってるのか」
ガレスが言った。センは紙の切れ端を見せた。
「全部かどうかは分かりません。でも、誰かが書いたものを持っています。誰も戻ってこなかった階のことを、書けた誰かが」
ガレスは切れ端を受け取らずに、自分の地図を広げた。三十二階の広間を、柱の一本一本まで描いていく。最後に、階段の脇へ小さく字を書き足した。
センは階段の下を見渡した。三十一階からずっと、喉の奥にしまっていたものがあった。
「数えます」
誰も止めなかった。センは指を差して、声に出した。
「金鷹団、ガレスさんを入れて、一、二、三、四、五。銀灰団、一、二。それから、イルマと僕」
声は天井まで届いて、返ってきた。何も起きなかった。数は、ちゃんと数のままだった。
「お前の数は、外れたことがないな」
ガレスが、地図から目を上げずに言った。十七階で聞いたのと、同じ声だった。
イルマが、横からセンの顔を覗き込んだ。
「センくん、数えてるとき、ちょっと嬉しそう」
「そうかな」
「うん。あたしは、わかんないけど。センくんが嬉しいなら、いいや」
センは立ち上がり、もう一度階段を登った。穴から顔だけを出して、三十三階を見渡す。
遠くの火は、さっきと同じ場所で揺れていた。人が転げ落ち、走り、怒鳴った。誰かが残されてもおかしくない騒ぎだった。それなのに、穴の縁に吊られた灯りは、一度も色を変えていない。
三十三階の灯りは、ずっと緑のままだった。
【三十二階の掟】名乗るな




