第7話 名前を言わずに、名前を呼ぶ方法
「イルマ! 口を閉じて!」
考えるより先に、喉が叫んでいた。イルマの唇が、ぱちんと音がしそうな勢いで閉じる。胸に手を当てたまま、目を丸くしてセンを見ていた。
消えてはいない。白い服も、灰色の髪も、そこにある。センの膝から力が抜けて、床に片手をついた。
今、イルマの名前を叫んだ。広間じゅうに響くほどの声で。それでもセンは、ここにいる。
壁の影は、どれも胸に手を当てて口を開けている。センは影から目を離さずに、角灯の光の中のガレスを呼んだ。
「ガレスさん。ダグさんは、暗がりで何て言いましたか」
「何だ、急に。おれだ、と。おれだ、ダグだ、と」
「ニコさんは」
「ニコです、と言いかけて……」
ガレスの声が止まった。団長の右手が、自分の胸のほうへ上がりかけて、宙で止まっている。壁の影と、同じ形だった。
「ロウは、ロウだ、と言った」
団長は、ゆっくりと手を下ろした。
「挨拶じゃない。……自分の名前か」
センはうなずいた。団長の口から出ると、自分で言うよりずっと冷たく聞こえた。自分の口で自分の名前を言った者から、残されている。
「人の名前なら、呼んでも平気です。僕は今、この子の名前を叫びました」
団員たちが互いの顔を見合わせている。誰も、自分のことを話し出さない。
「でも、名乗れないと困ります。誰が誰か分からなくなる。だから、こうします」
センは立ち上がって、皆を見渡した。
「自分の名前は言わない。代わりに、隣の人の名前を言うんです。名前を言わずに、名前を呼ぶ。ガレスさん、僕のことを、皆に言ってもらえますか」
ガレスはしばらくセンを見てから、咳払いをした。団員たちと、銀灰団の残りに向き直る。
「こいつはセン。案内人だ。ジンの弟で、俺の団を三年、一人も欠けさせずに三十階まで連れて行った」
団長はそこで言葉を切り、少しだけ声を落とした。
「俺はこいつを、地図の無い階に要らんと言って置いてきた。それでも、こいつは来た。だから、こいつの言うことを聞け」
センは耳が熱くなった。それをごまかすように、ガレスのほうへ手を向けた。
「この人はガレスさん。金鷹団の団長で、自分で描いた地図しか信じない人です。それから、団員を置いていくのがいちばん嫌いな人です」
「余計なことを言うな」
ガレスはそっぽを向いた。団員の誰かが、小さく笑った。広間に入ってから、初めての笑い声だった。
それを合図に、金鷹団の団員たちが隣どうしで名前を言い合い始めた。途中で一人が「で、おれは」と言いかけ、隣の男に口を手でふさがれる。ふさいだほうが、こいつはハンスだ、と代わりに言った。ふさがれたほうは、真っ青な顔で何度もうなずいていた。
銀灰団の三人は、それを黙って見ていた。かしらのほうを、ちらちらと窺いながら。
袖を引かれた。イルマが唇を閉じたまま、んー、んー、と喉で何か訴えている。
「イルマ、口を開けていいよ。自分の名前だけは、言わないで」
「はあっ。じゃあ、あたしのことは、誰が言ってくれるの?」
「僕が言う」
センはイルマの肩に手を置いた。
「この子はイルマ。上から降りてきた子で、僕の相棒です」
イルマの顔が、角灯より明るくなった。
「あいぼう」
「うん」
「今の、また言って」
「あとでね」
「やだ、今がいい。ねえ、相棒ってことは、センくんを持ってっていいってことだよね」
「そういう意味じゃない」
イルマはセンの脇の下に手を差し込みかけて、ガレスの咳払いで止まった。
センは広間の真ん中を見た。細い顎の男が、柱にもたれて、ゆっくりと手を叩いていた。
「見事だ、案内人」
「銀灰団の皆さん」
センは男ではなく、その後ろに立つ三人に声を掛けた。
「この人の名前を、教えてもらえますか。呼ぶだけなら、誰も消えません」
銀灰団の三人は、互いの顔を見た。やがて、いちばん年かさの一人が首を振った。
「知らない。かしらは、かしらだ。俺たちは誰も、名前を聞いたことがない」
センはうなずいた。そういう答えだろうと思っていた。
「あなたは、一度も名乗っていません。踊り場でも、名乗るほどの者じゃないと言いました」
「奥ゆかしいだろう」
「この広間で、最初に数を口にしたのもあなたです。少しも迷わずに。ここでは数が平気だと、知っていたからです」
男は、笑みを深くした。
「それだけか。数を言ったくらいで、悪者にされちゃかなわないな」
「まだあります。あなたは、一度も胸に手を当てていません。皆に名乗れと言いながら」
センは目をそらさずに続けた。
「暗い階だと知っていて、灯りを用意していた。ダグさんが暗がりで名乗るまで、点けなかった。閉じ込められたら名前を合わせろと言った。挨拶が掟だと言った。挨拶さえしなければ平気だと思わせて、ロウさんに名乗らせた。この子にも」
センは息を吸った。
「あなたは最初から、この階の掟を知っていた。知っていて、皆に名乗らせたんです」
「どうして俺が、知っていたと思う」
「踊り場で、膝に紙を広げていました。茶色の墨で、短い行がたくさん。三十一階も、この階も、そこに書いてあったんじゃありませんか」
男の手が、外套の胸もとに触れた。ほんの一瞬だった。
「よく見てるな。さすがは、ジンの弟だ」
その言い方が、センの耳に引っかかった。さっきガレスが言ったのを、なぞっただけには聞こえなかった。
広間が静まり返った。銀灰団の年かさの男が、かしらの横顔をじっと見ている。ガレスが前に出た。角灯の光が、団長の顔の半分を照らした。
「ニコは、去年うちに入ったばかりだった。ダグには、下の町に娘がいる」
団長の声は、低く抑えられていた。抑えていなければ、何が出るか分からない声だった。
「なぜだ。うちの連中が、お前に何をした」
「何も」
男は肩をすくめた。
「上へ行く者は、少ないほうがいい。それだけさ。上には、先に着いた者しか手にできないものがある。あんたも地図屋なら分かるだろう、ガレス。最初に描いた地図だけが売れる」
「ロウもか」
年かさの男が、かすれた声で言った。
「ロウは、あんたを信じて名乗ったんだぞ」
「だから、名乗ったのさ」
男は柱の釘から角灯を外した。そして、それをガレスに向かってひょいと放った。
ガレスが思わず受け止める。その一瞬で、男は身をひるがえしていた。広間の奥へ、石の階段へ。銀灰団の二人がその後を追って駆け出し、年かさの一人だけが動かなかった。
「待て!」
ガレスが角灯を団員に押しつけて、走った。センも走った。けれど、男たちのほうが先に階段を登りきっていた。
二人が外套の下から鉄の棒を抜いて、天井の扉の溝に差し込む。男が肩で押し上げると、重い石の扉が傾いて、隙間が開いた。
三人が隙間をすり抜けた。ガレスが階段の半ばまで来たとき、扉は上から叩きつけるように閉まった。
ガレスが肩を扉に当てて、押し上げた。扉はわずかに浮いて、上からの何人分もの重さにすぐ押し戻された。棒を溝にかませ直す、金物の音がした。広間の真ん中では、イルマが両手を背中に回したまま、天井の扉をじっと見上げていた。
「悪いな、ガレス」
扉の向こうから、くぐもった声が降ってきた。
「名乗りさえしなけりゃ、そこは誰も残されない階だ。ゆっくりしていけ。好きなだけな」




