第6話 自己紹介をした人から消えていった
暗闇の中で、何人もの声がいっぺんに上がった。扉が落ちたぞ、押せ、持ち上げろ。石を叩く音と、靴が床をこする音が入り混じる。
「誰も、扉に触らないでください!」
センは声を張った。自分の声が、思っていたより遠くまで響いて返ってくる。広い場所だ、とそれで分かった。
「ここは三十二階です。掟が分かるまで、何にも触らないで。動くのも、なるべく」
「なんにも、触らない」
すぐ隣で、イルマの声がした。言われたとおりに、一言ずつ繰り返している。暗くて見えないが、きっと今、指先まで固まっているのだろう。
ざわめきが、少しずつ静まっていった。誰かの荒い息だけが残る。
「灯りを点けろ。袋の底に松明がある」
ガレスの声に、団員たちが手探りで袋を探る音が続いた。結び目がほどけず、誰かが舌打ちをした。
「おい、誰かいるか」
金鷹団のひげの団員の声だった。暗がりの右のほうから、心細そうに響いてくる。
「おれだ、ダグだ。誰か、返事を」
声が、そこで切れた。金物が石に落ちて、甲高く跳ねた。それきり、ダグの声も息も聞こえなくなった。
センは息を止めた。音のしたほうへ手を伸ばしかけて、引っ込める。
暗闇の奥で、火打ち石の音がした。小さな火が角灯に移り、橙色の光が広がっていく。灯りを掲げていたのは、細い顎の男だった。
「用意がいいな」
ガレスが低く言った。団員たちのあいだから、身をかがめて出てくる。
「暗がりは嫌いでね。灯りくらい持って登るさ」
角灯の光が、天井の高い広間を照らした。太い柱が奥まで並び、床には埃が積もっている。いちばん奥に石の階段があって、天井に開いた四角い扉へ続いていた。扉の脇に、緑の灯りが一つ吊られている。
右手の柱の根もとに、手斧が落ちていた。ダグが腰に下げていたものだ。
ガレスは手斧を拾わず、団員たちのほうを振り返った。口が開いて、点呼、と言いかけて止まる。三十一階の癖が、まだ喉に残っているのだ。
「金鷹のは何人残ってる。うちは五人ぽっちだ、数えるまでもないがね」
男があっさりと言った。センは思わず男の口もとを見た。何も起きなかった。この広間は、数を嫌ってはいないらしい。
ガレスがようやく団員を数えた。自分を入れて六人。団長の喉が、ごくりと動いた。
「さて」
男は角灯を柱の釘に掛けて、両手を広げた。
「閉じ込められたなら、まずやることがある。顔と名前を合わせておくことだ。次に誰かが消えたとき、誰が消えたか分からなきゃ話にならん」
「名前なら、俺が全員知ってる」
「あんたはな。だが、こっちは知らない。登り手の作法だよ、ガレス」
ガレスは渋い顔をしたが、言い返さなかった。理屈は通っていた。
「そっちの若いのから頼む」
男が指したのは、金鷹団でいちばん若い団員だった。三十一階で、膝の震えが止まらなかった男だ。団員は唾を飲み込み、前に出て、胸に手を当てた。
「き、金鷹団の、ニコです。よろしく、お願いし」
最後まで言えなかった。胸に当てた手ごと、ニコの姿が消えた。水筒が床に落ちて、ころころと柱のほうへ転がっていく。
「ニコ!」
ガレスが駆け寄りかけ、センがその腕をつかんだ。団長の腕は、石みたいに固くなっていた。金鷹団の団員たちが、壁際までじりじりと後ずさる。誰も、声を出さなかった。
「挨拶だ」
男が、静かに言った。
「よろしく、と言いかけて消えた。さっきの男も、暗がりで誰かに声を掛けてた。この階では、挨拶をした者から残されるんだろう」
ガレスが団員たちに向き直り、腹の底から声を出した。
「聞いたな。挨拶はするな。全員だ」
団員たちが、何度もうなずいた。センも、うなずきかけた。けれど、喉の奥に何かが引っかかっていた。
「待ってください。ダグさんは、よろしくとは言っていません」
「誰かいるか、と聞いた。暗がりで人に声を掛けるのは、挨拶の始まりだろう」
「でも」
「なら、案内人。お前さんには、ほかの答えがあるのか」
センは言い返せなかった。答えは、まだどこにもなかった。ガレスが、センの肩に手を置いた。
「坊主。分からんうちは、いちばん用心深いやり方を守る。団を預かる者の決まりだ」
それも正しかった。センは黙ってうなずいた。
イルマが、センの後ろから小声で聞いた。
「センくん。あいさつって、どこからどこまで?」
「おはよう、とか。こんにちは、よろしく、とか」
「おはよう、こんにちは、よろしく。それと、さっきの、誰かいるか。しない」
イルマは一つずつ、口の中で繰り返した。落とし戸の前で決まりを覚えたときと、同じ顔だった。
センは角灯の光を頼りに、壁際へ歩いた。触らずに、目だけで見ていく。
壁一面に、黒い影が並んでいた。十七階の染みと同じ、人の形をした影だ。けれど、ここの影は下を向いていない。どれも顔を上げて口を開け、片手を胸に当てていた。
影の足もとには、つばの広い帽子や、口の開いた背負い袋が、埃をかぶって転がっていた。センは頭の中で、影を端から数えていった。三十を過ぎても、列はまだ続いていた。この広間で、それだけの人が何かを言おうとしたのだ。
その列の端に、ひげまで影になった男がいた。隣には、まだ新しい、細い肩の影。どちらも同じように、手を胸に当てている。
「センくん」
後ろから、イルマが小声で呼んだ。言われたとおり床から足を浮かせないように、すり足でついてきている。
「センくんの袖も、触っちゃだめ?」
「僕はいいよ」
「よかった」
イルマはセンの袖を、両手でぎゅっとつかんだ。
「センくんは消えないでね。消えちゃったら、持って帰れないもん」
センは答えようとして、言葉が見つからなかった。代わりに、袖をつかむ手の上に、自分の手を重ねた。それから、その手をそっとほどいた。
「ここで待ってて。壁を、奥まで見てくる」
「ここで待つ」
イルマは柱のそばで、両手を背中に組んだ。
「ロウ」
広間の真ん中で、男が仲間の一人を呼んだ。
「挨拶抜きで、名前だけ言ってみろ。それなら平気だと、皆に見せておきたい」
呼ばれた銀灰団の一人は、かしらの顔を見て、小さくうなずいた。外套の胸に手を当てる。
「銀灰団の、ロウだ」
ロウはいなくなった。外套の留め金だけが、床で鳴った。
広間が凍りついた。男だけが、困ったように眉を下げた。
「口の中で、どうも、と言いかけたな。あいつの癖なんだ。悪いことをさせた」
銀灰団の年かさの一人が、何か言いたげにかしらを見た。かしらは、その男を見なかった。
センはロウの唇を見ていた。どうも、なんて動いていなかった。ロウは名前だけを言った。言われたとおりに、挨拶を抜いて。
ロウの影が、壁の列に加わっている。顔を上げて、口を開け、手を胸に当てて。センの頭の中で、何かがつながりかけた。
センは壁際から振り返った。奥まで来すぎていた。柱のそばのイルマとのあいだに、太い柱が何本も立っている。
男は角灯の下で、イルマのほうを向いた。今までより、ずっと優しい声だった。
「お嬢ちゃん。あんたは上から降りてきたんだろう。せめて名前くらい、聞かせてくれないか。挨拶はいらない」
イルマは、背中で組んでいた手をほどいた。挨拶しない、という決まりは、ちゃんと守っている顔だった。それから、片手を自分の胸に当てた。
「挨拶じゃないなら、いいよね。あたしはね」




