第5話 雇い直すなら、この子の分もです
「うん。ちゃんと数えなかったよ」
センが口を開くより先に、イルマが答えた。胸を張って、得意そうな顔をしている。センは慌ててその袖を引いた。
細い顎の男は、声を立てずに笑った。火のそばの包みから干し果物をひとつかみ取り、イルマのほうへ差し出す。
「えらいな。食うか」
「いいの?」
イルマはすぐには手を出さず、センの顔を見た。何かを見つけたら、触る前に呼ぶ。その決まりを、食べ物にまで当てはめているらしい。センがうなずくと、イルマは両手で受け取って、干した杏を大事そうに口へ運んだ。
「おいしい! おじさん、いい人だね」
「そう見えるなら、そうなんだろう」
男は膝の埃を払い、センに顔を向けた。外套の灰色には銀の糸が織り込まれていて、裾にはほつれも汚れもない。あの埃っぽい市場を抜けてきた外套には見えなかった。
「さっきのは、どういう意味ですか。数えずに来られたか、って」
「そのままさ。あの市場で数を口にしたら、おしまいだ。見れば分かる」
「見ただけで、ですか」
「値札が削ってあって、天秤に重りがない。お前さんも、それで当てたんだろう」
言うとおりだった。センが口をふさがれて、ようやく辿り着いた答えを、この男は先に持っていた。
男の膝の上には、古い紙が広げてあった。何度も畳み直したらしく、折り目が白く擦り切れている。茶色の墨で、短い行がいくつも並んでいた。センの目がそちらへ動いた途端、男は親指で紙を折り、懐へしまった。
「下の町では、誰も噂していませんでした。金鷹団より先に入った団がいるなんて」
「噂になるのは嫌いでね」
「あなたの名前を、聞いてもいいですか」
「名乗るほどの者じゃない」
男はまた薄く笑った。
「銀灰団。それで足りるだろう、案内人」
火を囲んでいる残りの銀灰団は、誰も顔を上げなかった。一人が枯れ枝を火にくべて、男に「かしら」と小さく声を掛ける。男が手を振ると、その一人はすぐに黙った。
センは踊り場の石を見下ろした。ここが三十一階のうちなのか、もう外なのか、センには分からない。分からないうちは、数を口にしないと決めた。
「センくん。ここも、数えちゃだめ?」
「分からないから、だめにしておこう」
「わかった。ずっと、だめにしとく」
イルマはあっさりうなずいて、また杏をかじった。
階段の下から、炭筆が紙をこする音が登ってきた。ガレスが最後の段を踏んで、踊り場に顔を出す。背負い袋の横で、トマの靴が揺れていた。銀灰色の外套を見て、ガレスは足を止めた。
「誰だ」
「金鷹団のガレスだろう。地図屋の」
「誰だと聞いてる」
「先に着いた者さ」
男は火のほうへ向き直り、背中を見せて座った。話はそれで終わりだという座り方だった。ガレスの顎が、ぐっと固くなる。
団長はしばらくその背中をにらんでいたが、やがてセンの肩をつかみ、踊り場の反対の端まで連れていった。イルマが、干し果物を頬張ったままついてくる。
ガレスは壁を背にして座り、膝の上で地図を広げた。三十一階の通りが描いてある。数字の代わりに、屋台の一つ一つに鍋や天秤や破れた庇の小さな絵が添えてあった。トマの靴が立っていた場所には、靴の絵があった。
「数が無くても、描けるもんだな」
「いい地図です」
「描けたのは、お前が掟を当ててからだ」
ガレスは炭筆の先で、地図の端を軽く叩いた。
「坊主。下の扉の前で、俺は言ったな。地図の無い階に、案内人は要らんと」
「はい」
「間違いだった。地図の無い階でこそ、要る。俺に描けるのは目に見えるものだけだ。掟は見えん」
センは黙っていた。あの扉の前で受け取った革袋が、腰で重かった。
「トマがな、お前を連れて行けと言ってた。下の扉の前で、俺に口添えまでして」
「聞いてました」
「聞いてやればよかった」
ガレスは背負い袋の横の靴に、ちらりと目をやった。それから地図を膝から下ろし、センに向き直った。
「雇い直したい。払いは前と同じだ。月に銀貨を、さ」
さ、のところで団長の口がぴたりと止まった。センは息を詰めて、その顔を見ていた。ガレスはゆっくりと唇を閉じ、鼻から長い息を吐いた。
「前と同じだ。それでいいな」
「はい」
額に、汗が一筋浮いていた。団長はもう、自分の口で掟を守ろうとしている。
「条件があります」
「言え」
「イルマも連れて行きます。雇い直すなら、この子の分もです」
ガレスはイルマを見た。イルマは最後の杏を口に入れたところで、きょとんとしている。
「その子は、うちの連中を担いで階段を登った。断る理由がない」
「本当ですか」
「ただし、どれだけ食うかによる」
イルマが、ごくんと飲み込んだ。
「わかんない。いっぱい」
「いっぱいか」
「うん。でも、そのぶん、いっぱい持ち上げるよ。ガレスさんも、疲れたら持ってあげる」
「いらん」
ガレスの口の端が、少しだけ緩んだ。センが腰の革袋に手を掛けると、団長はそれを顎で止めた。
「出すな。また返す気だろう」
見抜かれていた。センの指が、袋の口で止まった。
「その子を下まで送る分です。送らないなら」
「なら、上まで食わせる分にしろ。足りなくなったら言え」
センは袋を腰に戻した。重さは同じなのに、下の扉の前で受け取ったときとは、違う重さに思えた。
「僕の払いは」
「前と同じだ。月の終わりに、手渡しでな」
イルマが、センの腰の袋とガレスの顔を、何度も見比べた。
「それ、あたしのごはん?」
「そうだ。坊主に断ってから食え」
「うん。センくん、今、食べていい?」
「今はだめ」
ガレスが鼻を鳴らした。
「お前は昔から、返すことばかり考える。たまには、もらっとけ」
「……はい」
センは少し迷ってから、ずっと喉に引っかかっていたことを口にした。
「下の扉の前で、僕を置いていく場面を作りたくないって、言いましたよね」
「言った」
「今は、どうなんですか」
「置いていかん。今度は、それだけだ」
ガレスは地図を巻いて、筒にしまった。トマの紙が入っている筒だった。
三十二階の扉は、石の一枚板だった。取っ手も蝶番もなく、下の縁に指を掛ける溝が刻んであるだけだ。金鷹団の団員たちが溝に指を掛けて唸ったが、扉は髪の毛ほども浮かなかった。
イルマが、センの許しを待つ顔でこちらを見ている。センが口を開きかけたとき、火のそばから細い顎の男が言った。
「お嬢ちゃんの手を借りるまでもない」
銀灰団はいつの間にか火を消し、全員が立って外套の前を留めていた。男が顎をしゃくると、二人が外套の下から鉄の棒を抜いた。先が平たく潰してある。それを溝に差し込み、扉の縁に体重を掛けると、石の扉は低い音を立てて浮き上がった。浮いた隙間に、すぐ三本目の棒がかまされる。慣れた手つきだった。
イルマは、伸ばしかけた手を引っ込めて、背中に回した。
「持ち上げたかったのに」
「悪いな。触っていいと言われるまで、待ってたんだろう」
男は笑って、イルマの背中に回った手をじっと見ていた。
「お先にどうぞ、金鷹の」
男が、外套の裾を払いながら言った。
「こっちは後でいい。慣れてるんでね」
金鷹団が先にくぐり、センとイルマがその後に入った。中は真っ暗で、冷たい空気が頬に触れた。背中のほうで、銀灰色の外套が順にかがんで入ってくる気配がした。
最後の足音が、扉の内側に入りきったときだった。鉄の棒が石の床を転がる、高い音がした。
センが振り返ったときには、扉はもう落ちていた。重い響きが足の裏から頭まで抜けて、あとには灯り一つない暗闇だけが残った。
誰が棒に触れたのか、センには見えなかった。




