第4話 数えちゃだめなんだよ、センくん
イルマの手のひらは、干し肉の匂いがした。
センは息を止めたまま、目だけで自分の足を見た。靴はある。足も、膝も、ちゃんとある。
イルマは大きな目でセンを覗き込み、手を離そうとしなかった。唇は、まだぴたりと閉じている。
センが二度うなずくと、ようやく手がほどけた。センは十二段目に腰を落とし、今度は自分の手で口を押さえた。指の下で、歯が鳴っていた。
「イルマ」
かすれた声で呼ぶ。声は、ちゃんと出た。
「話していいよ。小さい声で。ガレスさんには、僕から謝る」
「……ぷは」
イルマは長い息を吐いて、胸を押さえた。
「よかったあ。ずっと、苦しかった」
「どうして、口をふさいだの」
「だって、ガレスさんが口を閉じてろって言ったでしょ。センくんの口、ずっと動いてたもん。いつもはもごもごなのに、さっきは、ぱく、ぱくって。声が出そうだった」
センは自分の唇に触れた。あのとき、口は何をしようとしていたのか。
十一、十二。段を数えようとしていた。
胸の内ポケットから、案内帳を出す。挟んであったトマの紙を広げた。「三十一階 入口より」の下の、短い横棒。
書きかけの線ではなかった。トマは一歩目を踏んで、いつもどおり大きな声で「いち」と言い、いつもどおり紙に「一」と書いたのだ。
「イルマ。ベックさんは、点呼を取ろうとして消えた」
「てんこって、なに?」
「みんながいるか、指を差して確かめること。指を差しながら、何て言うと思う」
「えっと……その人の名前?」
「金鷹団の点呼は、名前じゃない。指を差しながら、数を言っていくんだ。ベックさんは毎朝そうしてた」
センは三年間、それを聞いてきた。それから、通りを見下ろした。
センもイルマも、白い線をまたいだ。通りの真ん中を歩いた。ガレスも、さっきからずっと口をきいている。消えたのは、トマとベックだけだった。
削られた値札の板。分銅のない天秤。この階に来てから、センは一度も字を見ていない。数字を、見ていない。
頭の中では、ずっと数えていた。屋台も、歩数も。何も起きなかった。声になりかけた途端に、イルマの手が来た。
「数だ。この階は、数を嫌う」
口に出してから、センはぞっとした。迷ったら数に戻れ、と兄は言った。この階では、戻った者から残される。
「行こう。ガレスさんに知らせないと」
立ち上がって、一段下りる。その瞬間、喉の奥で何かが勝手に動き出した。十二段目から十一段目へ。体は四百十二回、段を数えて下りてきた。
センは唇を噛んだ。
「イルマ、何か話して。何でもいい。ずっと」
「なんで?」
「僕が、数えないように」
イルマは少し考えて、それから楽しそうに話し始めた。
「あのね、黒パン、おいしかった。固いけど、噛んでると甘くなるの。干し肉はね、最初しょっぱくて、あとからじゅわってなる。それでね」
センはイルマの声だけを聞いて、段を下りた。足の裏が段の縁を探るたびに、数が喉まで上がってくる。それをイルマの「それでね」が、一つずつ押し戻した。いちばん下の敷石を踏んだとき、センの背中は汗で冷たくなっていた。
屋台に戻ると、ガレスが台の陰から顔を上げた。
「戻ったか」
「ガレスさん。掟が分かりました」
センは小声で、順に話した。トマの紙の一本線。ベックの点呼。削られた板と、空っぽの天秤。自分の唇。
ガレスは黙って聞いていた。途中で一度だけ、自分の口もとに手をやった。さっきから自分が口にした言葉を、一つずつ確かめている顔だった。聞き終わると、炭筆を床に置いた。
「数えるな、か」
団長の声は、低く乾いていた。
「トマに、声に出して数えろと仕込んだのは俺だ。聞こえなきゃ地図にならんと言ってな」
「ガレスさんのせいじゃありません。誰も知らなかったんです」
「知らなかったで済むなら、地図はいらん」
ガレスは団員たちを見た。全員が、膝を抱えたまま顔を上げない。
「うちの連中は、全員そう仕込んである。歩けば口が勝手に数える。今、通りを歩けと言ったら、ほとんどが向こうに着く前に消える」
いちばん若い団員の膝が、がたがたと震えていた。立ち上がろうとして、立てないでいる。
センはイルマを見た。イルマはセンを見て、首をかしげた。
「歩かなければ、いいんです」
「持ってけばいいの?」
イルマが言った。言われる前に、もう袖をまくっていた。
センは首の布を裂いて、細く丸めた。一人ずつ、それを噛んでもらう。口がふさがっていれば、数は出ない。
イルマは最初の一人を、麦の袋みたいに軽々と肩に担いだ。大柄な男の足が、宙でばたついた。
「ちゃんと、つかまっててね」
そのまま通りへ出て、まっすぐ奥へ歩いていく。階段を上まで登り、男を下ろして、また下りてくる。裸足の足音は、少しも乱れなかった。
ガレスは担がれるのを断った。
「俺は自分で歩く」
団長は炭筆を握り直し、紙を膝に当てて通りへ出た。歩きながら描く。鍋の屋台、その向かいに天秤の屋台、布の庇が破れた屋台。数の代わりに、目に入るものを一つずつ線にしていく。
トマの靴の前で、ガレスは足を止めた。靴を拾い、紐を背負い袋に結びつける。センが差し出したトマの紙を、何も言わずに受け取って、地図の筒にしまった。
イルマが次の一人を運び、また次の一人を運ぶ。センは階段の下で、それを見ていた。
担いで、登って、下りてくる。担いで、登って。センの唇が、そっと開きかけた。
「数えちゃだめなんだよ、センくん」
三人目を担いで通りすぎながら、イルマが言った。前を向いたまま、当たり前のことを言う声だった。
センは両手で口を押さえた。また数えようとしていた。イルマが運んだ人を、今度は。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
通りの真ん中で、ガレスが顔を上げた。
「おい。あと何人だ」
センの背中が固まった。答えれば、数になる。
イルマは四人目を肩に乗せたまま、くるりと屋台を振り返った。
「えっとね、あのひげのおじさんと、まだ震えてる若い人。それで、おしまい」
「それは、何人だ」
「わかんない。でも、みんな運べば、みんなだよ」
ガレスは口を開けて、閉じた。それから、少しだけ笑った。
センは気づいた。目を覚ましてから、イルマは一度も数を口にしていない。年も、階も、パンの数も、「わかんない」と言ってきた。
最後に残った若い団員を、イルマが担いだ。それから振り返って、センに空いているほうの手を差し出した。
「センくんも、運ぶ?」
「歩くよ。自分の足で」
「えー。じゃあ、ずっとしゃべっててあげる」
センはイルマの後ろについて、階段を登った。イルマが話し続ける。黒パンの話、干し肉の話、ガレスさんのひげの話。センはその声だけを足場にした。
階段の上は、小さな踊り場になっていた。運ばれた金鷹団の団員たちが、壁際に並んで座り込んでいる。その先に、三十二階の扉があった。
扉の前に、知らない連中がいた。
銀色がかった灰色の外套が、五つ。小さな火を囲んで、のんびりと干した果物をかじっている。金鷹団より先に三十一階へ入った団がいるなんて、下の町では誰も噂していなかった。
一人の男が、顔を上げた。細い顎に、薄い笑い。
「遅かったな。ちゃんと、数えずに来られたか」
【三十一階の掟】数を声に出すな




