第3話 三十一階には、靴だけが残っていた
赤い灯りを見上げたまま、センはしばらく動けなかった。四百十二回の案内で、灯りが赤くなるのを見たのは三度だけだ。三度とも、別の団の客だった。
「イルマ。戸に触っていいです」
言い終わる前に、イルマは落とし戸の縁を手のひらで、とん、と突いていた。鉄の戸が跳ね上がって向こう側へ倒れ、上の床を打った。重い音が、通路の奥まで転がっていく。金鷹団が三人がかりで、鉄の棒まで使って持ち上げた戸だった。
センは首をすくめて、しばらく耳を澄ませた。何も起きなかった。
「……次からは、そっと開けてください」
「そっと? わかった。そっと」
「センくん、先にどうぞ」
「僕より前に出ない、は覚えてますね」
「うん。だから、センくんが先」
センは身をかがめてくぐった。後ろでイルマが、倒れた戸をまたいで入ってくる。
短い通路の先が、急に開けていた。天井の高い、長い通りだった。
両側にずらりと屋台が並び、色の抜けた布の庇が奥まで続いている。どの庇の下にも灯りが吊られていて、どれも点いていた。それなのに、人も、売り物も、どこにもなかった。
「静かだね」
「声は小さめにしてください。何が掟か、まだ分からないので」
センは屋台を見ていった。頭の中で、右に一つ、左に一つと数えていく。屋台の正面には、どれも細長い木の板が下がっていた。町の市場なら、値段を書いておく板だ。
一枚も、字が書いていなかった。
近づいて、指でなぞる。板の表が、刃物で薄く削られていた。何かを書いて、あとから削り落とした跡に見えた。
通路と通りの境目には、白い線が一本、敷石の上に引いてあった。センは線の前で止まり、しばらく眺めてから、またいだ。何も起きない。イルマも、ぴょんと跳んで越えた。
通りの真ん中を、二十歩ほど進んだときだった。敷石の上に、靴が一足立っていた。紐を結んだまま、左右きちんと揃って立っている。踵が、赤い糸でかがってある。
センはしゃがみ込んだ。継ぎだらけの踵。十七階で、ずっと見上げていた踵だった。
「トマさん」
靴の横に、紙が一枚落ちていた。拾い上げると、見慣れた大きな字が並んでいる。
一階、八十四歩。二階、百二十一歩。トマが三年かけて数えてきた、全部の階の歩数だった。
いちばん下に「三十一階 入口より」とあって、その下に、短い横棒が一本だけ引いてあった。墨が、紙の端まで流れている。
書きかけだ、とセンは思った。数え始めた最初の一歩で、トマはいなくなった。
「この人、靴を置いて、裸足で帰ったのかな」
イルマが、靴を覗き込んで言った。
「寒くないといいね」
センは返事ができなかった。下で一杯おごる、と言った声が、まだ耳に残っていた。紙を折りたたんで、案内帳に挟む。
「坊主!」
押し殺した声が、右の屋台から飛んできた。
「通りに立つな。こっちへ来い、早く」
ガレスだった。屋台の台の陰から、顔の半分だけを出している。センはイルマの手を引いて、屋台の中へ滑り込んだ。
台の裏の狭い場所に、金鷹団がうずくまっていた。ガレスを入れて七人。入るときは九人だった。
全員が膝を抱え、誰も目を上げない。床に広げた紙の上で、ガレスの手だけが炭筆を握っていた。
「なんで来た」
「これを返しに来ました」
センは銀貨の革袋を差し出した。十枚、一枚も減っていない。
「この子を下まで送る約束、守れないので」
「持っとけ。ここじゃ使い道もない」
ガレスは袋を押し返した。それから、イルマを見て、センを見た。
「その子が、上に行くと言ったのか」
「はい。僕も行きます」
「ジンの弟は、言っても聞かんか」
吐き捨てるような声だったが、センを追い返そうとはしなかった。
センはイルマの札を裏返して見せた。ガレスは刻まれた名前を、炭筆の先でそっとなぞった。
「ジンの字だな。若いころ、俺もあいつに下の階を連れて登ってもらった。地図の端に、いつもこの段の印を描いてた」
「兄さんの地図を、見たことがあるんですか」
「昔、見せてもらったことがある。俺が地図を描き始めたのは、あれを見たからだ」
「何があったんですか」
ガレスは炭筆の先で、紙の上の線を叩いた。入口の四角、白い線、通り。屋台の並び。そこに、小さな×が二つ描いてあった。
「入ってすぐ、俺はあの白い線の手前で地図の描き出しをした。トマに、ここから数えろと言った。トマは線をまたいで、足を下ろした途端に消えた。いつもどおり、でかい声でな」
「靴と、紙だけ残して」
「ああ。全員でこの屋台に飛び込んだ。ベックが、点呼を取ると言って入口に立った。こっちを向いて、端から指を差して」
ガレスの顎に、ぐっと力がこもった。団員の誰かが、膝に顔を埋めた。
「そこで消えた。この屋台の、通りに近い端っこでだ」
センは屋台の入口を見た。敷石の上に、ベックの革の手袋が片方だけ落ちている。
「トマさんが消えたとき、何か光ったり、音がしたりしましたか」
「何も。声が途中で切れて、靴が残った。それだけだ」
ガレスは目をつぶった。開けたときには、もう団長の顔に戻っていた。
「だから、通りなんですか」
「通りに出た奴が消える。今のところ、それしか考えられん」
「僕たち、白い線をまたいで、通りの真ん中を歩いてきました」
「運が良かっただけかもしれん。トマは足を着いた途端だった。お前らだって、いつ消えてもおかしくなかった」
ガレスは×の横に、小さく「トマ」「ベック」と書き込んだ。字が震えていた。
「距離が描けん。トマがいないと、どこまで何歩かが分からん。俺の地図は、あいつの数で描いてたんだ」
ガレスは顔を上げ、センとイルマを順に見た。お前たちはさっきからしゃべりすぎだ、という目だった。
「それとな。しゃべるな、坊主。声を出した奴から消えるのかもしれん。分からんことは、全部やめろ。口を閉じてろ」
隣で、イルマが両手で自分の口を押さえた。こくこくと、何度もうなずく。そのまま手を下ろしても、唇はぴたりと閉じたままだった。
「イルマ、ガレスさんのは、たぶん念のためで」
センが小声で言うと、イルマはセンの唇をじっと見た。それから眉を寄せて、首を横に振った。しゃべっちゃだめ、と目が言っていた。
センは屋台の外を覗いた。通りのいちばん奥に、石の階段が上へ伸びている。その先の暗がりに、もう一つ扉が見えた。
「出口を見てきます」
「行くな、坊主」
「見ないと、分からないんです。僕にできるのは、それだけなので」
ガレスは何か言いかけて、やめた。炭筆を握った手が、白くなっていた。
センは屋台を出た。後ろから、裸足の足音がついてくる。イルマは言われたとおり、センより前には出なかった。
通りを奥へ歩きながら、センは屋台を数え、自分の歩数を数えた。頭の中だけで。どの屋台の板も、削られて白かった。
途中で、イルマが袖を引いた。口を閉じたまま、一つの屋台を指差している。台の上に、真鍮の天秤が置いてあった。皿は二つとも空で、分銅を入れる木の箱も空っぽだった。
センはうなずいて、また歩き出した。売り物も、値段も、量る重りもない市場だった。
階段は、思っていたより長かった。
一段目に足を掛けたとたん、体が勝手に数え始めた。四百十二回登ってきた体だった。
一、二、三。トマの紙の、あの横棒のことを考えていた。四、五、六。点呼を取ろうとして指を差した、ベックの手袋のことも。七、八、九、十。
十一、十二。頭の中の数が、いつの間にか唇まで降りてきていた。
息が声に変わる、その手前だった。後ろから伸びてきた白い手が、センの口をふさいだ。




