第2話 その札、兄さんのです
女の子は立ち上がり、裸足のまま落とし戸へ歩いていった。センは慌てて前に回り込み、両手を広げた。
「待ってください。ここから先は三十一階です。入った人は、誰も戻ってません」
「うん。だから、帰るの」
「帰るって、どこへ」
返事の代わりに、女の子はセンの襟をつかんだ。片手だった。センの足が床から離れ、体ごと横へ運ばれて、壁際でそっと下ろされる。
「ちょっと、どいててね」
女の子は落とし戸の下の縁に指を掛けた。さっき金鷹団が三人がかりで、鉄の棒まで使って持ち上げた戸だ。
「僕がいいって言うまで、その戸に触らないで!」
センが叫ぶと、女の子の手がぴたりと止まった。指先と鉄の縁のあいだに、紙一枚ぶんの隙間が残っている。女の子はその形のまま、首だけをこちらに向けた。
「触っちゃだめなの?」
「だめです。理由はあとで話します」
「わかった」
女の子は本当に動かなくなった。腰をかがめ、片手を戸に伸ばした姿勢のままだ。冗談でやっている顔ではなかった。
センは壁から背中を離し、そろそろと近づいた。襟の後ろが、まだ指の形に引きつれている。
「僕はセンです。案内人をしています。あなたの名前を、聞いてもいいですか」
「イルマ。センくんね」
「イルマさんは、どこから来たんですか」
「上」
「上の、何階から」
「……上」
眉を寄せて考えて、それしか出てこないらしい。年を聞いても、家を聞いても、「わかんない」が返ってきた。分かるのは名前と、上と、あと一つだけだった。
「さっき、ジンが待ってるって言いましたよね。ジンって、誰ですか」
「わかんない」
イルマはあっさり言った。それから、伸ばした自分の手の先を見つめた。
「でも、待ってるの。それは知ってる」
センは、イルマの胸もとで揺れている札を見た。兄の名前が刻まれた、銅の札だ。
「その札、見せてもらえますか」
イルマは空いているほうの手で、紐ごと札を外して差し出した。戸に伸ばした手は、少しも動かさない。
銅の札は、まだ体温で温かかった。表には「案内人 ジン」と、三本の段の印。裏を返すと、同じ刃物の跡で、もう一つ名前が刻まれていた。
イルマ。
「これ、あなたの名前です」
「うん。あたしの名前」
「その札、兄さんのです」
声がかすれた。イルマが首をかしげる。
「センくんの、お兄さん?」
「七年前に、この塔で消えました。案内人でした」
兄さんは、この子の名前を知っていた。自分の札の裏に刻むほどに。センは喉の奥の熱いものを飲み込んだ。
「兄さんに、会ったことがありますか。背が高くて、右の眉に傷があって」
「わかんない」
イルマは困った顔で、札とセンを見比べた。
「ごめんね。覚えてたら、ちゃんと言うのに」
「謝らないでください。あなたのせいじゃない」
センは胸の内ポケットから、革の案内帳を出した。角がすり切れて、綴じ糸は二度替えている。一頁目を開いて、イルマの前に掲げた。
頁の真ん中に、「58」とだけ書いてある。その横に、短い横線が三本、段々に並んでいた。
「兄さんがいなくなった朝、これが机の上にありました。書いてあったのは、この一頁だけです」
段を数えろ、と教えてくれたのは兄だった。十歳のセンを連れて三階まで登り、一段ごとに声を出させた。数は嘘をつかない、迷ったら数に戻れ。そう言った翌月、兄は塔から戻らなかった。
二頁目から先は、センの字で埋まっている。一階から三十階まで、掟と、段の数と、気をつけること。四百十二回ぶんの書き込みで、紙が膨らんでいた。三十階の頁の次からは、白いままだ。
札の印と、頁の印を並べた。線の長さも、最後の一本だけ右に跳ねる癖も、同じだった。
兄さんは、上にいた。少なくとも、この札を誰かの首にかけられる場所に。
兄さんのいる階まで、この子と行く。
決めてしまうと、指の震えが止まった。センは案内帳を閉じて、札をイルマに返した。
「イルマさん。僕も、上へ行きます」
「ほんと?」
「五十八階まで。そこに、兄さんがいるかもしれない。ジンが待ってるなら、たぶん同じ人です」
イルマの顔が、ぱっと明るくなった。次の瞬間、センの体はまた浮いていた。脇の下に片手を差し込まれ、目の高さまで持ち上げられている。
「センくん、さっきも思ったけど、軽いね。疲れたら言ってね。上まで、あたしが持ってってあげる」
「持たなくていいです。下ろしてください」
「えー」
床に戻されてから、センは襟を直して咳払いをした。四百十二回、客の前を歩いてきた案内人が、子どもみたいに持ち上げられたのだ。耳が熱かった。けれど、ここからが大事な話だった。
「塔の階には、一つずつ掟があります。どこにも書いてないけど、破った人はその階に残される。消えて、持ち物だけが落ちるんです」
「ふうん」
「三十階までの掟は、全部ここに入ってます」
センは自分のこめかみを指で叩いた。
「でも、三十一階から上は、誰も知りません。僕が見つけるまで、僕の言う決まりを守ってもらえますか」
「守るのは得意だよ」
イルマは胸を張った。それから、戸に伸ばしたままの自分の手を、ちらりと見た。
「ねえ。これ、まだ触っちゃだめ? 腕、ずっと上げてるんだけど」
センは思わず笑った。七年ぶりに、声を出して笑った気がした。
「下ろしていいです。戸には、まだ触らないで」
イルマが腕を下ろすのと同時に、ぐう、と大きな音が鳴った。イルマのお腹だった。
センは背負い袋から、三日分の干し肉と黒パンを出した。半分渡すつもりで包みを開けたら、イルマの手が伸びて、気づくと包みは空になっていた。
「おいしかった! センくんの分も、まだある?」
「今のが、僕の分も入れて三日分です」
「……ごめんね」
「いいです。上で何か探します」
本当は、よくはなかった。けれど、三十一階に入る理由が一つ増えただけだ、とセンは思うことにした。
腰の革袋が重かった。ガレスから受け取った銀貨十枚。この子を下の町まで送る約束の分だ。
「このお金は、ガレスさんに返さないと」
「ガレスさんって、だれ?」
「僕を雇っていた人です。さっき、この戸の向こうへ行きました。僕は、ついて来るなと言われました」
「じゃあ、追いかけるんだ」
「返しに行くだけです」
「ふうん。センくん、その人のこと好きなんだね」
センは答えなかった。三年間、毎月決まった日に、ガレスは銀貨を三枚ずつ数えて渡してくれた。一度も遅れたことはなかった。
「それから、知らない階では、僕より前に出ないでください。何かを見つけても、触る前に僕を呼んでください」
「センくんより前に出ない。触る前に呼ぶ」
イルマは一言ずつ、口の中で繰り返した。覚えるというより、体に刻んでいる顔だった。
センは綱と白墨を確かめ、案内帳を胸に戻した。イルマは戸の前で、言われたとおり指一本ぶん離れて待っている。
「ねえ、イルマさんの、さんはいらないよ。なんだか遠いもん」
「……イルマ」
「うん、センくん」
イルマが満足そうにうなずく。戸に触っていい、とセンが言いかけたとき、イルマが顔を上げた。
「ねえ、センくん。あれ」
落とし戸の上の、緑の灯り。それが一度、またたいた。
次にともったとき、灯りは赤かった。同じ赤は塔の外壁にもともり、下の町の広場から誰もが見上げることになる。三十一階で、金鷹団の誰かが残されたのだ。




